【 1 】

「今日はあったかいからさ、空、開けようか。」
 片手でハンドルを操りながら拓は言った。陽光の中、フロントガラスの向こうにのびている道には、車はほとんど走っていない。まだ春は浅いというのに、南房総の昼下がりは、ニコニコと手を振っているかのような、菜の花の黄色に満たされている。菜の花は光の波となって、拓の背後を次々と流れていく。きらめく春の海原を、いま二人で渡っているのだ。ルーフからなだれこんできた光のしぶきを顔中に浴び、由布子は思わず目を細めた。
「あ、まぶしい? 少し閉めようか?」
「ううん、開けといて。」
 スイッチに伸ばしかけた拓の手を止め、由布子はシートの上で深呼吸した。まっ青な空が、四角く切り取られて頭上にあった。空を開ける。拓らしい表現だった。
 彼は言った。
「ね、こういう風って、すっげえ気持ちよくない? 風に色があるんだよね。このへんてさ、もう海が近いんだけど、春って、あれじゃん、空気が湿っぽくないから、何か高原みたいなさ、カラッとした感じ。」
 拓は笑い、肩に届く長い髪をかきあげた。ひとふさがぱらりと顔に落ちかかった。拓は首を振った。毛先が踊り、流れた。由布子の大好きな、彼の仕草だった。
「うん、本当にそうね。天気がよくてよかった。」
 由布子は心からそう言った。拓に出会ったのは二カ月前、今日は二人で遠出をした初めての日なのだ。遠出、といってもハイキングのような距離だが、拓とはいつも都内でしか会ったことがなかった。それも食事や、映画の帰りにお酒といった程度がせいぜいで、さらにつけ加えるならば、二人の関係はまだ恋人とも言えはしない。好きだなどと一度も言われていないし、言っていない。だいいち由布子は、肩が触れるほど近くに座っているこの男について、ほとんど何も知らないのだった。
 拓、という呼び名と勤め先と、携帯の番号とこのオンボロRVのナンバー。彼について今日までに知りえたことがらは、その四つで全てだった。
(いいえ、そんなことない。私は拓を知っている。いろいろな場所での、いろいろな拓を。)
 いまハンドルを握っている拓。左手をハンドルの上に軽く置いて、スッと人差指だけ伸ばしているその手首。窓に浅く肘をかけて、あいている右手を口元に当てている。陶器のような額。なだらかに弧を描く眉。そして空を映す湖さながら、時ごとにさまざまな光を宿す切れ長の眼。気配を感じてふり返る野生動物の、一瞬の炎に似た強いまなざし。由布子は情けないほど拓に恋している自分を知っていた。今まで知りあったどんな男よりも、なぞめいて魅惑的で、そのくせ不思議なくらい自然体なひと。拓の前で由布子はいつも、二十七歳という歳に応じて身につけたはずの『大人の女』のかけひきを、かけらも出すことができないでいた。
(なぜなんだろう?)
 先週もその前も、お休みなさいと別れたあと、由布子は一人考えた。拓と一緒の時はどうして、自分は初恋の少女状態になってしまうのだろう。送られて帰る道すがら、酔ったふりでしなだれかかることも、…降り出した雪にかこつけ、泊まっていけと誘うことも、その結果もし拓を失ったらと思うと、怖くてとてもできなかった。
 拓に、嫌われてはいない。正直に言って、それはわかる。嫌いだったら会おうと言ってくるはずがない。
『由布子にはさ、渋い色の方が似合うね。ピンクとかオレンジより、その方が色っぽい。』…こう言われた時は、顔ではおどけて見せたが内心、涙が出るほど嬉しかった。拓は彼女をユーコ、と呼び捨ててくれる。妹、いや姉なのだろうか。親しみをこめた、一種ぶっきらぼうな呼び方。本当はもっと優しく、甘やかに、耳もとで呼びかけてほしいのだが。…
 しかし由布子には、そう簡単に拓に『勝負』を仕掛けられない理由があった。二カ月前、歳の暮れ近かったあの日、拓に初めて会ったとき由布子は、あろうことか不倫清算のまっ最中だったのだから。


 ……あの日は、朝から曇り空だった。北風が強く、底冷えのする日だった。由布子は新橋に新しくオープンするレストランの、家具什器の設置に立ち会っていた。由布子の会社は店舗や住宅のリフォームが専門で、業界ではいちおう大手であった。彼女はインテリア・プランナーとしてそこで働いており、この店は彼女のクライアントだった。広いフロアには美装業者や家具屋が忙しく動き回っていた。絵を下げるフックを取り付けている電気ドリルの音が、キーンキーンと響きわたっていた。
 壁紙の色、ソファーの位置、照明のトーンなどをチェックして回っていた由布子は、入口から入って来た大塚の姿にビクッと足を止めた。大塚はガラスを磨いている美装屋と二言三言話をしたあと、由布子の方へ近づいてきた。
 大塚は、由布子の会社が下請けで使っている小さなデザイン事務所のオーナーである。五年前、入社したてだった頃、由布子は仕事でミスをした。クライアントに提出した彼女の見積書に間違いがあって、工事金額が予想よりもオーバーしてしまったのだ。そんな時由布子をかばい、あれこれ助けてくれたのが大塚であった。下請けとはいえ大塚は、インテリアについては由布子の大先輩である。四十一歳で、もちろん妻子があったが、由布子は彼に魅かれ、当然のように男と女の関係になった。会社同士の立場上、二人のことは極秘にしなければならない。人目をはばかる関係を続けて一年後、大塚の方から、女房とはいずれ離婚する云々と、由布子の気持ちを乱し始めた。インテリア・プランナーという仕事は、バブル時期に花形としてもてはやされたものだが、それに憧れて入ってきた若い後輩たちは、一人また一人と寿退社していった。彼女たちの背中は由布子を不安にさせ、大塚との結婚話を、砂糖菓子のように肥大させていった。「必ず別れる、君と一緒になる」…
 その言葉を由布子は信じていたが、半年前、突然大塚の妻が尋ねてきた。子供を連れ、大きなお腹をして。
 型通りの、中年男の決まり文句にすぎなかったのだと、由布子は大塚の正体を悟った。彼女は泣き、呪い、苦しみぬいたあとで、大塚とはきっぱり別れようと決意した。それなのに大塚の方が、由布子の申し出を拒否したのであった。由布子は彼を避けた。会うことがないよう、電話にも出なかった。たとえ道で会ったとしても知らんぷりしようと考えていた。
 その大塚が、こちらに進んでくる。じっと由布子を見ている。ここは職場だ。周りには何も知らない業者たちがいる。由布子はとっさに身をひるがえし、足早に裏口へ向かった。フロアを抜けると通路があり、スタッフオフィスがある。スタッフたちの中へ逃げこんでしまえば、大塚もプライベートな話はできまい。確かさっき『日比谷フラワーセンター』のバネットを見かけたから、オフィスには誰かしかいるはずだ。由布子は調理場の前を通り抜け、通路を曲がろうとした。OFFICEのドアが見えている。だが、フロアを出るや歩調をはやめた男の足に、あっという間においつかれた。由布子は背後から右腕をつかまれた。大塚は思いもよらぬ強い力で、由布子を引き寄せた。
「痛い! 何するんですか、やめて下さい!」
 大塚はスタッフオフィスとは反対側の、倉庫と通用口に続く薄暗い通路の方へ彼女を引きずっていった。粗いコンクリートの壁に由布子の背中を押しつけ、大塚はようやく立ちどまった。ただならぬ形相をしていた。由布子はあたりを見回した。五メートルほど先に外へのドアがある。ドアの手前、左側に口をあけているのが倉庫だ。腕二本分くらい先のところに大きな段ボールが、背よりも高く山積みになっている。足もとには荷物を縛っていたらしいプラスチックの平紐が散乱していた。
「手紙は読んだよ。」
 押し殺した低い声で大塚は言った。
「君を傷つけたことは本当に悪かったと思っている。だけどわかってくれないか。僕は別に嘘をついていた訳じゃない。いきなり一方的に別れようだなんて、どういうつもりなんだ。」
 由布子の両腕は大塚につかまれている。まるで犯されるような体勢だ。由布子は顔をそむけ、出口のドアから漏れてくる光を見ていた。
「前から言ってるだろう、女房は思い込みの激しい女なんだ。ヒステリーなんだよ。カッとすると何をするかわからない。」
 大塚は由布子の体を揺さぶった。
「たのむからもう少し時間をくれ。悪いようにはしないから。ずっと楽しくやってきたじゃないか。そうだ、今度また二人で旅行に行かないか。君が好きなあの別荘へ…」
 由布子は目を閉じ、横をむいたまま言った。
「離して下さい。もう二度とお会いしたくないんです。」
 大塚の指から、ふと力が抜けるのがわかった。
「奥さんのこと悪く言うなんて最低です。奥さん、泣いてました。」
「だから、あれはいつものあいつの手なんだよ。」
「お願いだからもうやめて下さい!」
 由布子は首を振り、大塚の顔を見た。
「最初に、結婚しようなんて言いだしたのは私じゃない、あなたの方です。私、馬鹿みたいに喜んで、夢みてた。あなたがどういう人間かも知らないで。」
「だから、それは嘘じゃないんだ。俺はただ…」
「もうやめて下さい! もういやなんです! お願いだから離して!」
 由布子は全身で大塚を振り払い、二〜三歩あとずさった。
「二度とお会いしません。あなたも、私に声をかけないで。」
 大塚は放心したように立っていた。由布子も黙った。青白い蛍光灯の下、大塚は眉を寄せ、何か言いたげに口を動かしたが、一瞬目を伏せると、ゆっくり彼女に背をむけた。由布子の視界を、大塚は遠ざかっていった。足音が消えた。由布子が一人残された。
 ふいに、彼女の目頭は熱くなった。たった今、あれほどきっばりと別れを口にしたのに、なぜか大塚の手の感触が、由布子の腕によみがえってきた。もう二度と、大塚に抱きしめられることはない。髪を撫でてくれた大きな手、煙草の匂いのするくちづけも、永久に帰ってはこない。ひとりの男を完全に失ったのだ。不覚にも涙がこぼれた。思いがけない痛みに胸がしぼりあげられた。大塚の姿が消えた先を、由布子は泣きながら凝視した。
 その、時だった。
「クシュッ!」
 背中の、すぐ後ろで、くしゃみの音がした。由布子は電流を流されたように驚いた。誰かがそこにいる! 涙も忘れて由布子は、柱ほどの段ボールの反対側をのぞきこんだ。
 顔の前にいきなり、アジアンタムの葉。
 やわらかな黄緑色の羊歯。根元は鉢に植わっている。鉢には藤カゴのカバー。それを左右からつかんでいる指。人間の手。鉢が横に動いた。そろりそろりと、顔があらわれた。二つの瞳が、困ったような、面白いような、ばつの悪そうな色を浮かべてこちらを見ていた。クシャミの主はこの男だ。そう、彼こそが拓だった。
「あの… さ、…」
 青年はぼそりと言った。由布子の頭の中はまっ白になり、言葉をどこかに失っていた。
「なにも、聞いてないすよ、俺。うん。聞いてない聞いてない。聞こえなかった。」
 青年は鉢を胸のあたりでもてあそんだ。長い髪を一房に後ろで束ね、片耳にピアスを下げていた。身長はどれくらいだろう、小柄な由布子はハイヒールをはいていたが、彼の顔は見上げる位置にあった。
「うそ… あなたまさか、ここで立ち聞きしてたの?」
 由布子はうろたえていた。まさか人がいるとは思わず、何もとりつくろわずに泣いてしまった。今の話の一部始終を、この見知らぬ青年に聞かれてしまったのだ。
「こんなところで何してたのよ! いるならいるって言いなさいよ! 信じられない、非常識にもほどがあるじゃないの!」
「何してたって… ごらんの通り。」
 青年は両手を広げ、見ろとジェスチュアした。アジアンタムやパキラ、鉢植えの観葉植物が、彼の足元に並んでいた。よく見ると倉庫の中には、大型のベンジャミンも幾鉢かあった。
「台車で持ってったら、せっかくの床に傷がつくかも知れないと思ってさ、ここで、運ぶ準備してたわけ。」
 由布子は青年の胸元に目をやった。緑色のエプロンに白い文字で『日比谷フラワーセンター』のロゴが入っていた。
「こっちだってまさか、こんなとこで他人の別れ話聞かされるとは思わなかったんでね。いきなり、滅茶苦茶深刻じゃん? 出るに出られず、この箱の陰でじーっとしてたら、すっかり冷えてしまいました。」
「何よ、やっぱり聞いてたんじゃないの!」
「聞いてたんじゃなくて、聞こえたの。勝手に聞こえてきたんだからしょうがないでしょ? 迷惑したのはね、こっちの方。俺の方。俺は被害者。風邪ひいたら薬代請求するからね。」
 言い放つと彼はかがんで、作業の続きらしいことを始めた。浅い段ボールの箱に鉢たちを並べてひいふうと数え、料理を乗せた銀盆を運ぶようにそれを持ち上げた。
「ほら、どいてよ邪魔だから。こっちは忙しいんでね、ひとさまの話に興味持ってる暇はないの。…ッたく、この寒いのに、こみいった話ならもっとあったかいとこでやってくれよ。そうすりゃ聞かされる方も、少しは我慢できるからさ。」
 つっ立っている由布子にそう言って、彼はすたすた歩き始めた。由布子はなぜかその後ろ姿を見守った。Gパンの腰の上に、エプロンのひもがきれいな蝶結びになっていて、束ねた髪とちょうどいい対比をなしていた。
「あ、それとさ、一つだけ言わしてもらうけど。」
 曲がりぎわ、唐突に彼は振り返った。ピアスが揺れ、銀色に光った。
「あんな親父と、別れて正解だと思うよ。」

第1部第1章その2へ
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