【 2 】

 そのあとの三日間を、由布子は妙に落ち着かない気持ちで過ごした。大塚を失った痛みに、さぞや悩まされるだろうと覚悟していたのだが、まるで憑き物が落ちたかのようで、さっぱりしている自分が不思議だった。
 デスクに座って書き物などしている時、ふと以前のスケジュール表にしるした、思い出の日をみつけたりすると悲しいものだが、何だかずっと昔のなつかしい一こまの如く、微笑みをもって眺めることができた。
(私って薄情者なのかな。)
 ドラフターにひろげた図面から体を起こし、外の景色を見はるかすと、窓際のブラインドの手前で、カラジュームがしおれかけている。由布子は椅子を下りて湯沸室に行き、ジョウロに水を汲んで、カラジュームにかけてやった。
(まさか、あの男のせい?)
 彼が持っていたお盆代わりの箱の中には、たしかカラジュームの鉢植えもあった。ベージュのセーターの袖をまくって、アジアンタムの葉で顔を隠していた青年。落ち着いて考えてみれば彼の言い分がもっともなのだ。
 床を傷つけまいとわざわざ台車をやめて、手持ちにするべく積み替えているところに、変な二人がやってきてみっともない争いを始められては、出るに出られずさぞ困ったことだろう。こみいった話ならあったかいところでやれという愛想のない物言いは、思い返せばじつにユーモラスではないか。
(日比谷フラワーセンターのエプロンをしてたけど、今までに会ったことはないし…。新しく入ったのかな。それともアルバイトかも知れない。)
 日比谷フラワーセンターは大きなチェーン店で、レンタルグリーンやイベントフラワー、ウィンドウディスプレイも手がけている。新橋のあの店に来ていたからには、日比谷本店か、または銀座店の人間なのだろう。本店だったら知り合いがいる。由布子は引き出しから名刺フォルダを出し、パラパラめくった。『日比谷フラワーセンター法人営業部 係長 岸和明』。彼とは一緒に仕事をしたことがある。小太りで丸顔の、人のいい小父さんだ。一店一店の従業員数は二十人がいいところだから、岸に聞けばあの青年が、何者かわかるかも知れない。
 岸の名刺の電話番号を眺めていて、由布子は思った。でも、何のために? あの青年の名前を聞いて、そして何をしようというのか?
「意味ないじゃない、バカみたい。」
 彼女は口に出してつぶやき、フォルダを放り込んで乱暴に引き出しを閉めた。そんなことをしている時間はない。今日中に仕上げなければならない図面があるのだ。由布子はドラフターに戻り、スケールをスライドさせた。シャーペンを持って、気持ちを集中させようとつとめた。ところがどうしたことか、今日はそれができなかった。線を二〜三本引くと気持ちがほどける。いやいやこれではいかんとスケールを注視、だが気づくとまたぼんやりしている。考えが引き締まらない。線を引こうとするとあの青年の顔がちらつく。こころもち唇を突き出すようにして反論してきた、彼のまなざしがまだ由布子を見ていた。
(何なのよあの生意気なあんちゃんは!)
 由布子は溜息をついた。
 大塚とのことを、由布子は誰にも話したことがなかった。誰かに知られてしまったら、秘密は漏れるものなのだ。噂になったらただではすまない。大塚は会社に出入りしている業者だ。元請け企業の女に手を出したとあっては、大塚の立場は台無しである。仕事に直結する人間とのスキャンダルが明るみに出たら、おそらく由布子も首だろう。二人は非常に危険な関係を、長いこと続けてきた共犯者なのだ。秘密の恋は甘美でもあり、同時に緊張の連続でもあった。由布子は、自分で感じているよりはるかに、神経をすり減らしていたのだ。人に言えない関係の中に、安らぎなどあるはずがない。由布子の心は疲れていたのだ。
 あの青年は、二人の関係を知ったただ一人の人間だった。無防備に油断して裸になった由布子の心を、目の当たりにした人間なのだ。彼は歩み去りざま由布子に、別れて正解だと言った。それは、苦しい病気のようだった大塚との恋に、第三者が与えてくれた精神安定剤であった。外の見えない檻の中で、ぎりぎりに引っ張りあっていた糸が、由布子の中でふわっとゆるんだ。別れの一瞬をあの青年にさらしたことで、由布子の心は迷路を抜けた。彼女はようやく、広々とした草原に出られたのかも知れない。
 
 三日目の午後、由布子は同僚と挨拶回りに出かけた。日本橋界隈に数件あるお得意様に、今年のお礼と来年のご愛顧をお願いする、形式的なものだった。インテリアプランナーなどと聞こえのよい横文字商売も、裏を返せば泥臭い建設業だった。
「菅原さん、これからどうするんだい。」
 最後のクライアントを辞したあと、歩道を歩きながら同僚の沼田は尋ねた。地下鉄への降り口がすぐそこに明るく見える。一年で最も昼が短いこの季節、六時を回ったばかりだというのに、あたりはすっかり夜であった。
「私はちょっと、このあと友達と会うんです。」
 由布子は本当のことを言った。今夜は、学生時代の親友・和美と、久しぶりに会うことになっていた。和美が結婚して以来、落ち着いて会ったことがないのだが、今日はご主人が出張、子供は実家に遊びに行くというので、ゆっくり食事をしようと約束していたのだ。
「ああそうなんだ。じゃあ、俺はこれで帰るわ。明日会社でね。」
「お疲れ様でした。」
「おう、お疲れ様でした。」
 沼田はコートに両手を突っ込み、トントンと階段を下りていった。由布子は時計を見た。約束は七時だからまだずいぶんある。喫茶店で時間をつぶそうと信号待ちをしていると、電話ボックスが目に入った。いちおう社に連絡しておこう。由布子は青信号を一回捨てるつもりでボックスを開けた。トラブルになりそうな案件はないので、かけてもかけなくてもどちらでもいいことなのだが、どうせ時間は余っているのだ。
「もしもし、菅原です。このまま直帰しますが、何か伝言は入っていますか?」
「ええと… メモがいくつかありますね。」
 電話に出てくれた同僚は、何件かの伝言を読み上げた。どれも急ぎではなく、明日でよいことだった。由布子は安心しかけたが、最後に、
「あと一つ、宮本さんて方からの電話で、『自宅に電話下さい』とのことです。」
「宮本さん?」
 由布子は復唱した。これから会う和美の姓だ。急用でもできたかと、切ってすぐかけてみるとやはり、
「ごめーん、子供が熱出しちゃって、おばあちゃんとこ行けなくなっちゃったのよ。だから今日は会えないや。ごめんね、また今度連絡するね。」
 そういう理由ならやむをえない。由布子は笑って電話を切った。
 ボックスから出ると、ぴゅうと風が吹きつけた。由布子はコートの襟をおさえた。雑踏も車の渦も、黒く冷たく、無機質だった。学生時代の楽しい話でおおいに盛り上がるはずだったのに、一転して楽しみはつぶれ、木枯らしばかりがにぎやかだった。
 信号が変われば歩かざるをえない。由布子は機械的に横断歩道を渡った。銀座通りはまばゆいばかりだが、クリスマスという華やかな異国のイベントを済ませた街は、『それはそれ、これはこれ』と言うかのように、昔ながらの師走の匂いを、明るいネオンのはしばしに漂わせているのだった。
(自分は違う違うと思いながら、十二月になると、自分もこの世の何十万人ていう女たちと、同じだと気づいてしまう…って歌、誰のだっけかなあ。)
 結局、この孤独感からのがれるために、人は結婚をするのかも知れない。わいわいとアメリカ風な、ツンと気取ってフランス風な、金や銀のメリークリスマスにはすっかり忘れていられても、すぐにやってくるこの国のならわしが、一人で生きる女たちの回りを、雪雲のように深く重く圧迫する。母も祖母も通ってきた道を、お前ひとりが逃げていると。
 由布子は立ち止まった。大きなショウウインドウの前だった。羽子板のデコレートをされた空間で、和洋折衷のドレスを着た人形が踊っていた。寂しさにべそをかきかけている由布子の姿も、他人には、豪華なドレスに見とれているとしか映らなかっただろう。由布子のすぐ隣に、女の子が三人、バタバタと駆け寄ってきた。高校生か、ひょっとしたら中学生かも知れない。銀座にはさすがにこの手のグループをあまり見かけないのだが、ソニープラザにでも来た帰りか、ウサギのように跳びはねて、
「ねえ、見て見てこの服―!」
「サイコーじゃん、超かっこいい!」
「アムロとか、着そうな感じだよね。」
「あっ似合うかも知んなーい。」
「光一くんとかが着ても似合ったりして。」
「やだーやだー、それって似合うー!」
「そいでとなりで剛くんは紋付ハカマ着てんの。そいでそいでー、『おまえ何着てるん? アホちゃうか?』とか言うの。」
「やだーっ面白すぎー!」
 かしましい子猫の群れを、由布子はガラスの上で見定めた。三人とも薄く化粧している。制服を着ていないと本当に歳がわからない。立ち去ろう、と足を踏み出したとき、一人が気になることを言った。
「ねえねえ、さっきの花屋にいた人―、すっ…ごく、いけてたと思わないー?」
「あっ、やだやだ、やっぱそう思ったー?」
「あたしも思ったあ! チェックチェックう!」
 由布子は思わずふりかえった。
「ああいうロン毛の男って、たまに、超ブサイクなくせにやってんのがいるじゃん? むっかつくー。もう死ねー!って言いたくなるよねー。」
「あれだけの美形ならさー、許すよねー。」
「肩とか胸とか、わりとガッチリしてたよね。」
「やっだー、ターちゃんってばえっちー!」
「着痩せする男ってさ、…うまいんだって。知ってた?」
「もー何とかしてよこの子―!」
 三人は交差点の方へ歩いていった。由布子も体の向きを戻し、人波をかわして歩き始めた。
(さっきの子たちが言ってたのは… こないだのあいつのことじゃない?)
 理由のない確信を、由布子は感じた。ロン毛の花屋が東京中にいったい何人いるのかわからないが、由布子は三人娘が来たとおぼしき方角、数寄屋橋の方を見通した。中空に首都高、バックにマリオン。全ての道が直交するこの街の、どこかにあの青年がいる。由布子の足は何かに吸いよせられるように、数寄屋橋に向かって進み始めた。
 日比谷フラワーセンター銀座店の番地を、由布子は知らなかった。だが目星はつけられる。外堀通りに面して一軒、確か大きな店があった。ビルの一階で隣が喫茶店で…。彼女は数寄屋橋のスクランブルに着いた。ごうごうと大河をなす車の帯に沿って新橋方面へ、わずかばかり歩くと看板が見えた。
(違った…。)
 由布子は唇をかんだ。そうかここは『中央花壇』だったか。企業然とした大店の構えが、イメージを混乱させていたのだ。
(とすると… あとはどのへんだろう…?)
 プランタンの前にも、ガラスばりの大きな店があったはずだ。由布子はそちらへ向かった。花屋の多い街である。続いて中央通りの松坂屋のあたり、それからみゆき通りを往復して、昭和通りにもむなしい足をのばした。
(銀座ってこんなに広かったっけ…。)
 点滅する青信号をわざと見送り、由布子は肩を落とした。北風の中、小一時間歩きとおしであった。顔は冷たくこわばっていた。つま先がじんじんする。スニーカーにジーンズならガードレールに腰かけてもさまになるが、なにせクライアント回りの帰りであるから、スーツにコート、五センチヒールのいでたちである。
(もしかして東銀座の方か… それともずっと新橋寄りだとか?)
 日比谷フラワーセンターが大きいからといって、銀座店も大きいとは限らない。目立たない細い路地にひっそり開いているならば、たしかな番地もわからず夜道を探し歩くのはこれが限界だ。
(馬鹿じゃないあたし。いったい何やってるんだろう。あいつ探してどうするっていうの。用も話も、何もないじゃない。)
 由布子は自嘲の苦笑いをした。痛みはかかとにも回り始めていた。つま先ならば我慢できても、かかとが痛んだら足を引きずってしまう。靴をぶら下げ裸足で歩いて、格好いいのは波打ちぎわのみだ。由布子は短く息を吐き、有楽町へ戻るべく歩き始めた。JRで渋谷へ帰る道順からして、新橋まで行って乗るつもりだったが、現地点からなら、有楽町駅の方が若干近い。完全にびっこを引く前に、なるべく近道を通りたかった。
―――――この選択は正解だった。もしこの時由布子の足が痛くならなかったら、新橋駅に向かっていたら、彼女と拓の人生は、永遠に重ならなかったかも知れない。

第1部第1章その3へ
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