【 3 】

 由布子は中央通りを横切り、ブティックとギャラリーの並ぶ道を右に曲がった。絵を見るのは好きであったが、とても立ち止まる気分ではない。店先に貼り出してある『某新作展』『誰々写真展』といったポスターをぼんやりたどりつつ歩いていた由布子は、しかし、何軒か先の一隅に、まるでそこだけが別世界であるかのような、鮮やかな色彩にあふれた空間を見出した。さして広くない間口には、パリの街角を思わせるブロンズのフラワーワゴンが二つ置いてある。その中にはプリムラやチューリップ、スイートピーなどが咲き競い、さまざまな色調でグラディエーションを成しながら、全体として片方のワゴンは黄色、もう片方はピンク色にまとまっていた。カップルの客が一組、何か花を選んでいる。もう一組が、豪華な胡蝶蘭の花束を抱えて出てきた。
 由布子の足は地面に吸いついた。二人を送って頭を下げているのは、この寒空を探し回った、その青年の姿であった。
「ありがとうございました。」
 束ねた髪、左耳のピアス、そうだ、まちがいなくあの青年だ。客はこちらに歩いてくる。青年の目はまだ彼らに向いているだろう。由布子は動揺した。とにかくも気持ちを立て直さなければならない。彼女はギャラリーのウィンドウを、熱心に見つめる演技をした。背後を胡蝶蘭が通り過ぎ、二人の会話が耳をかすめた。
「ハンサムじゃない、あの子。」
「へえあんなのが好みか?」
「どこかのモデルかしらね。スタイルもいいし、セクシーだわ。」
 由布子はショルダーバッグをぎゅっとつかみ、さりげない雰囲気を必死にとりつくろった。彼はまだ店先に立っている。何となく視線を感じる。だがもう一組の、鉢植えを選んでいたカップルが、
「すいません、結婚祝いのプレゼントなんですけど、これとこれ、どっちが手がかかりませんか?」
「あ、ああすみません、いらっしゃいませ。これと、これですか? そうですね、こっちは一日一回水をやらないと。」
 青年は客の相手を始めた。由布子は徐々に体をずらし、左目の端で彼の姿をとらえた。あの時と同じグリーンのエプロン、セーターは今日はブルーだ。満開の鉢植えを両手に一つずつ持って、カップルに手入れの説明をしている。鼻筋の通った横顔、シャープな頬の線、彫刻刀で刻みこんだかと思えるほど整った二重瞼。おかしなことだが由布子は、この時、初めて彼の美貌を知った。もちろん彼の姿かたちはとっくに頭に焼きついていたが、たった今まで由布子は青年を、あらたまって『美しい』とは把握していなかったのだ。あまりにも強烈な出会いだったからかも知れない。あの時由布子はパニック状態だった。アジアンタムのむこうから現れた顔を、美しいの醜いの言っている場合ではなかった。
 けれど、こうして見ると、彼は類まれなルックスの持ち主であった。今の女がモデルではないかと言ったが、誰しもそう思うだろう。形のよい額が目をひく。前髪やもみあげのニュアンスを借りずに、あのようにフェイスを露出させるのは、生半可なハンサムにできることではない。さっきの三人娘の意見を由布子は思い出した。彼は完璧、文句なしだった。笑うと少年ぽく見えるが、肩幅は広く、首筋や胸元は十分に、完成された男のそれであった。
「じゃ、こちらでよろしいですね。ラッピングします?」
 青年は店の中へ姿を消した。由布子は迷った。立ち去るなら今だ。彼がいない今のうちなら、証拠なく幻のように走り去ることができる。たまたま通りかかるくらい、誰にことわる話でもない。実際、単に近道のつもりだったんだから。彼女はギャラリーのガラスに貼りつけていた顔を離した。肩の力を抜いてウィンドウ全体を眺めた。そこで由布子は仰天した。飾ってあったのは思いっきりエロティックなヌード写真だった。被写体は、局部だけをかろうじて隠し、腰をくねらせている黒人男性。まともに見たら赤面ものの、とんでもない写真であった。よりによってこんなものを、穴のあくほど見るふりをしていた。由布子は背中に悪寒を覚えた。初対面には不倫の別れで修羅場を演じ、こんどは男の裸を臆面もなく鑑賞している。これでは彼に、変態ぶっとび姐ちゃんと思われても仕方がない。
「お待たせしました、九百六十円のお返しになります。」
 青年の声がした。戻ってきたのである。カップルは鉢植えを抱えてお釣りを受け取っている。まずい。シチュエーションとして非常にまずい。由布子は思わず目を閉じた。いっそ彼が何も気づかず、そのまま店内に消えてくれたら! ところがその様子はない。ドアをあけしめする、カラカラという音がしない。彼はまだ店の前に、ついそこにいる。いつまでもここに立っていたらますます変だ。由布子は意を決した。通りかかっただけだ、通りかかっただけ。ショルダーのストラップを肩に上げ直しながら、さりげなく由布子は振り返った。急にでなく顔を上げ、ゆっくりと歩き、ただの通りすがりらしく、視線を前に戻して―――
「なんだ、やっぱそうじゃん!」
 まともに目が合った。青年は言い、ニヤリと笑った。
「あら、」
 由布子は言った。だが、いま気がついたというその芝居は、ひどくギクシャクしていただろう。顔など引きつっていたに違いない。不自然さを見抜かれたかも知れないが、こうしてお互い再会を認めあった以上、サッサと行ってしまうのは、さも意識していますというようでなおさらワザとらしい。由布子は芝居を続行し、微笑みながら彼に歩み寄った。
「へえ、銀座店ってここだったんだ。本店は知ってたけど。ふうん。」
 彼女は青年でなく、店への興味を示してみせた。彼は、ワゴンの中の花たちの位置を少しずつずらしながら、
「きょうはどうしたの。仕事の帰り?」
 由布子の胸中とは対照的な、さらりとした口調で言った。
「うん、まあね。挨拶回りで。」
「ふーん。」
「なかなか素敵なお店ね。なんだか日本ぽくないんだ。お花屋さんていうよりギャラリーみたい。」
「うん、ここの店長の趣味じゃないの。俺も、けっこう気に入ってるけどさ。切り花だったら奥にあるよ。」
 言ったあと彼は、ふと顔を上げ、
「ね、ああいうの好きなの?」
「えっ?」
「ああいうの。」
 青年の人差指は、斜め前のとんでもない写真をさしていた。顔には意味深な、からかうような笑いを浮かべている。やはり気づかれていた! 由布子は言葉に詰まりかけ、だが崖っぷちでとどまって、
「ああ、実は今度ね、ギャラリーの改装の仕事がとれそうだから、うんとインパクトのある、通る人がギクッとするようなものを、写真でもオブジェでも何でもいいから、使おうかなって考えてるのよ。そう、それでね、アイデアさがしで、今日も銀座をぶらりぶらりと。」
 作り話だ。まっかな嘘だ。この店を探していた。足の痛みに耐えきれなくなるまで。
「そっか、プランナーさんだもんね。」
 青年はあっさりと言った。
「えっ?」
 なぜ知っているのか、と問いかけないうちに、
「いや、こないださ、あの新橋の店でさ、グリーン置いたあとに、美装屋さんいたじゃん、あの人たちとオフイスで、ちょっと缶コーヒーとか飲んで、『この店のインテリアプランは女の人がやったんだよ』とかって聞いたから。」
「ああ、そうだったんだ。」
 あのあと彼は、そんな話をしていたのか。由布子は青年が整えたワゴンを見た。ピンクの八重咲きチューリップ、レモン色のラナンキュラス。真冬の風の中、次の季節が輝いていた。
「一つ買っていこうかな。」
 由布子は言った。会社には接客上、花を切らしたことはないが、アパートには植木は一鉢もない。一日のほとんどを会社で過ごす、一人暮らしの殺風景な部屋だ。 「あら、みごとねこれ。プリムラ・オブコニカ。」
 サーモンピンクの花をびっしりつけた中くらいの鉢を、由布子は選び出した。
「へえ、名前わかるんだ。」
 青年は由布子のすぐうしろに立った。胸が彼女の肩に触れた。
「プリムラまでは知ってても、フルネームわかる人少ないけどね。あ、そっか。インテリアやってれば、部屋置きの花なんてバッチリか。」
「うん、まあね。」
 由布子はふふっと笑った。少しはいいところを見せられたかも知れない。由布子は鉢を顔の高さに掲げて、全体のバランスをチェックした。青年は、高い位置から腕を伸ばし、その鉢をヒョイと取り上げた。彼女の体に、ズキンと甘い痛みが走った。
「いつも、今ごろ帰り?」
 青年はそのままの体勢で尋ねた。意味をはかりかね、由布子は黙っていた。帰りの時間を聞いてどうするつもりなのか。彼女の脳裏を、架空の台詞がよぎった。『もし都合よかったらさ、今度いっしょにメシでもどう?』
「――――どうして?」
 心なしか、声がかすれた。青年はスイと背後を離れ、
「オブコニカってさ、わりと寒さに弱いじゃん。帰りがいつも遅い人だと、留守のうちに部屋とか冷えて、枯らしちゃうんじゃないかと思ってさ。それに腰水だめだし、日に当てないと咲かないし。こっちの、ベゴニアの方が育てるのは楽だよ。これなんかほら、色がきれいでしょ。これね、ハワイアン・サンセット。まあプリムラの方が感じが柔らかくて、俺は好きだけど。」
 由布子はすらりとしたベゴニアを見た。つやのあるとがった葉の間に、ピンクローズの花房が優雅に垂れている。だがさっきのカップルの女性が、抱えていったのも確か同じ種類だ。それにこの青年は、プリムラの方が好きだと言った。
「でもやっぱりこっちにするわ。大丈夫、枯らさないから。」
「ほんとに?」
「本当。これでも仕事柄、部屋用の花には素人じゃないつもり。」
「OK。じゃあちょっと待ってて。」
 青年は中へ入っていった。ガラスのドアを開けたままである。由布子は一歩二歩、足を踏み入れた。切り花は奥だと言われた通り、薔薇や百合、サンダーソニアなどが、絵付きの壺にドサッと差され並んでいた。青年はカウンターの中で背中を見せている。花畑を眺めながら待っていると、青年の脇のドアが開いた。髭をはやした男が、ぬっと顔を突き出した。歳格好から見てこの男が店長だろう。男は小声で言った。
「おい、タク、あしたの佐藤先生、花の活け込みは二時でいいのか?」
 由布子の耳はぴくりとした。タク。この青年の名前。
「はい、そう言われてますけど。ああ、俺、仕入れ先から直行しますよ。」
「そうか、そうしてくれると助かる。花質にうるさいからなあの家元爺いは。」
 店長は引っこんだ。おそらく明日、パーティーか何かの飾りつけをするのだろう。花屋にとって、店頭での売上は微々たるものだ。イベントホールや結婚式場など、大量の花を必要とするクライアントを、いくつ持てるかが勝負なのだ。
「お待たせ。」
 青年はビニールで包んだ鉢を持って、カウンターから出てきた。由布子は驚いた。鉢に、オレンジ色の、太いリボンが結ばれている。今にも飛び立ちそうなサテンの蝶々だ。べつに誰に贈るわけでもないのにといぶかしむ彼女に青年は言った。
「これね、俺からのプレゼント。きっちり頑張ってるお姉さんに。」
 はい、と渡され、受け取って、由布子は彼の瞳を覗きこんだ。青年の笑みに皮肉の気配はなかった。赤の他人の、何という深いまなざし。乾いた砂漠にしみこんで、大地をいやす慈雨に似ている。
「あ、だけど、リボンのことだよ。代金はちゃんと貰うからね。」
 彼はからっと口調を変えた。由布子は思わずまばたきをした。青年は鼻に皺を寄せてニッと笑い、
「消費税はね、サービスいたします。千八百円でございます。」
 ひょっとして、からかわれているのだろうか? 由布子は青年を見つめたが、その邪気のないおどけた表情に、疑いも忘れて吹き出してしまった。
「サンキュウ。ありがと。」
 何のてらいもなく、由布子の口から言葉が出た。金額ぴったりの紙幣と硬貨を、彼女は青年の掌に載せた。
「帰り気をつけてね。どうもありがとうございました。」
 ドア口まで、青年は送ってくれた。由布子は振り向いて敬礼のまねをした。ドアが閉まった。由布子は鉢を抱え直した。足が痛かったのはどこの誰だろう。年末の街は明るくエネルギッシュで、人々の顔つきも活き活きしていた。
(タク、か。)
 由布子はプリムラに唇を寄せた。サーモンピンクの花冠と、大きなつぼみがびっしりついている。陽だまりに置けば、次々咲くに違いない。
(タクってどんな字書くんだろう。宅、卓、琢、啄、多久、拓。あとは? 他にもあったかな。漢和辞典引いてみなきゃ。)
 歩道の敷石はモザイク模様になっていた。由布子は鼻歌を歌いながら、色付きの石をトン、トンと渡った。

第1部第1章その4へ
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