【 4 】

 年末年始の帰省を、由布子は短めに切り上げた。いつもは仕事始めの前日までアパートには帰らないのだが、今年は三が日が明けるや否や、早々に東京へ戻って来た。理由は他でもない、寒さに弱いプリムラ・オブコニカのためだった。
 由布子の母は、彼女が高校生の時に事故で亡くなった。父親は、生きてはいるけれども『父』ではなかった。母のすぐ下の妹である叔母は、嫁いで小林の姓になっていたが、子供には恵まれなかったので、由布子を実子以上に可愛がってくれた。その叔母夫婦の住む仙台が、由布子の帰るところであった。叔母はしきりに、もっとゆっくりしていけと言ってくれたが、由布子は内心手を合わせつつ、仕事があるからと東北新幹線に乗ったのだった。
 プリムラは元気にしていた。出かける時にはつぼみだったものが、いくつも花を開いていた。由布子は玄関に荷物を放り出し、コートも脱がずに水をやった。冷たすぎないようぬるま湯を混ぜ、指で温度を確認することも忘れなかった。
 さすがに暇なのでデパートの初売りに行き、由布子はかわいい鉢受け皿を見つけた。二羽の白いあひるが仲よくたわむれているデザインだった。ひよこを連れた母鳥もあった。売り場にあった五種類を、彼女は一つずつ買ってきた。
 
 仕事始めは六日だった。由布子はお土産の『萩の月』を持って出社した。女子社員は、短大出の若い事務員以外、皆由布子より年上である。先の長そうな不景気のもと、プランナーを続けていく女にはそれなりの気骨があるのかも知れない。由布子は、お茶どきに集まった先輩たちの顔を見てそんなことを思った。彼女たちは元気で、たくましかった。人生や生活の苦労を、さまざま背負っているだろうに、そういう暗さにめげもせず、萩の月はやはりうまいと喜んでいる。みんなそれぞれ偉いのだ。自分の力でちゃんと生きている。由布子もそこそこ仕事をこなせるようになって、いっぱしのIP(インテリア・プランナー)を名乗っているが、彼女らに比べれば駆け出しに過ぎない。常に初心を忘れずに、もっと先輩たちに学ばなければ。由布子は妙に謙虚な気持ちだった。心の海が広々と凪いで、大空を映しているようだった。
 由布子がやけに澄んだ目で自分を見ていると思ったのか、石原という最年長の女性が、
「どうしたの菅原ちゃん。ずいぶん晴れ晴れしてるじゃない。お正月、何かいいことでもあった?」
「えっ? そうですか? 特別なことはなーんにもないですよ?」
「そおお?」
「ただ、何となく、石原さんも湯浅さんも、いい表情してるなーって思って。」
「あらま。ほめてもらっちゃったわ。」
 石原は、二児の母らしくころころと笑ってから、
「回りの人たちを素直に認められるってことは、自分が幸せだからよ。自分がキュウキュウして、自信のない時こそ、人を嫉んだり悪口言ったりするもんなのよね。菅原ちゃん、やっぱりいいことあったでしょ。言いなさい、内緒にしといたげるから。コレでもできた? コレ。」
「違いますよ。残念ながら、そんなんじゃありませーん。」
「じゃあ何?」
「ちょっと、きれいな花を買ったんです。よく咲いてくれて、嬉しくって。」
 由布子は言った。ごまかしたつもりはなかった。サーモンピンクのプリムラの花は、見ているだけで幸せになれた。もちろんその花の向こうに、タクという青年がだぶっていることも彼女は気づいていた。鉢に結んでくれたリボンは、別れの現場を目撃した彼の、由布子に対するエールであった。それは今、水やりで汚れてしまわないよう、鉢カバーのあひるの首に付け直してある。花とリボンを見るたびに、由布子は青年の『頑張れよ』という声を、耳の底に聞くことができたのだった。
 
 意外な再々会は、仕事始めのその日にあった。
 初日からいきなり忙しくなるものではない。由布子は六時半に退社した。一階へ降りて、建物を出て、山手線の駅に向かおうとした時だった。どこかでプップッ、とクラクションを聞いた。反射的に立ち止まったが心当たりはない。きっと自分ではないのだと無視しかけると、今度はプップップーッと長音が入った。由布子は注意深くあたりを見回した。二車線の道、ガードレールと歩道。何台か車が停まっている。セダンの中は無人、二t車にも運転手はいない。反対側を見た。黒っぽいRVが停まっている。運転席から誰かが顔を出している。その影は明らかに由布子にむけて手を振っていた。由布子は近視で、コンタクトをつけている。夜は昼より見えにくいのだ。
「こっちこっち!」
 じれったそうに影は言った。声を聞いて由布子はあっと思った。タクではないか。髪を束ねず肩に下ろしているので、誰だかわからなかったのだ。
「こっちって言ったって…」
 由布子は左右を見た。車が往来している。信号は五十メートルほど先にしかない。由布子はガードレールの切れ目をすりぬけて車道に出、車のとぎれをみはからい、彼の待つRVまで走った。
「よ。」
 彼は顔の横に手を上げ、照れたように、少しだけ上目使いになって笑った。茶がかった髪が揺れた。さらりとまっすぐな髪だった。
「いま帰り?」
 彼は首を伸ばして尋ねた。
「そうだけど…」
 由布子の後ろをすれすれにかすめて車が通っていく。彼は助手席のドアロックをはずした。
「あぶないから、乗って。ほら、そっちに回る。」
「回るって…」
「ほら早く。轢かれたらどうすんの。」
 せかされて由布子は、車の前を回って乗りこんだ。
「何なのよいきなり…」
 ブツブツ言いながらドアを閉めると、
「ちゃんとシートベルトして。友達に譲ってもらった格安の中古だから、しょっちゅうエンストすんだよね。」
 彼はアクセルを踏んだ。おいおいおい、と思う間もなくRVは走り出した。

第1部第1章その5へ
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