【 5 】

「わりとさ、わかりやすいとこに建ってんだね、あのビル。第一京浜から一本入って左側でしょ。電話帳と住宅地図で調べたんだけど、全然迷わなかったよ。」
 青年は前方に目配りしつつ言った。由布子は黙って彼の横顔を見ていた。なぜ会社の前で待ちうけていたのか、その理由がわからない。どう答えたものか、言葉の応じ手がなかった。やがて彼は言った。
「実はさ、ちょっと、相談…ていうか、お願い? があってさ、どうしようかな、まずいかな、って思ったんだけど、…来ちゃった。」
 彼はまた、さっきと同じ笑い方で由布子を見た。輪郭を無造作にふちどる髪が、表情に微妙な甘やかさを加えていた。
「相談?」
 由布子は聞き返した。突然すぎて想像もつかなかった。彼は笑いを消して、何ごとかを考える表情になった。しばし沈黙が流れた。光る柱となった東京タワーが、遠くの空にちらりと見えた。
「家って、どっちの方向?」
 四つ角の直前で彼は聞いた。
「太子堂だけど…。でも通勤の最寄り駅は渋谷。」
「了解。」
 彼はハンドルを回した。車は大通りをしばらく走った。
「実は、お願いっていうのはさ。」
 信号待ちでサイドブレーキを引き、彼はようやく切り出した。
「前にね、世話になった人なんだけど、店やってるんだよ、ちっちゃな店。それが、あのバブルの頃にさ、流行にのって始めた、なんていうか、七十年代のカフェバーっぽい店なんだよね。最初はそこそこよかったんだけど、最近まるでだめになっちゃって、お客とか全然来ないんだって。それで、店直して、普通の喫茶店にしようって決めたんだけど、今度失敗したらさ、その人、夜逃げ? …だもんでけっこう気合入っててさ、店のデザインとか、素人考えで背伸びしないで、ほんとにふさわしいやつにしたいんだって。」
 信号が変わり、彼はレバーを倒した。彼の言わんとすることが、由布子は徐々にわかってきた。
「なんとか頭下げて銀行にお金借りたんだけど、考えてたほどは貸してくれなくて、もう、笑っちゃうくらい予算ないんだって。だからあとは、知り合いって知り合いかきあつめて、力貸してもらうしかないでしょ。昔から言うじゃん、何だっけほら、三人寄れば…」
「文殊の知恵?」
「それっ!」
 彼は人差指で、ピッと由布子の方を差した。
「それでね、俺もさ、たのまれちゃって…。普段さ、保証人とか何かでけっこう助けてもらってるから、こういう時に恩返ししないと、俺ただの不届者じゃん? でも花とかグリーンとかだったら俺で一応何とかなるけど、そのオーナーが一番ほしがってるの、店の中の、インテリアのアドバイスなんだよね。なるべく安く上げなきゃなんないんだけど、さもチャチっぽいのもおかしいって、難しいんだ注文が。家具屋とか行くと、つまりは家具を売りつけられちゃうし、プロのデザイナーだと、予算からして相手にしてくれないと思うんだよね、普通だったら。」
 なるほど、と由布子は思った。それで自分を思い出したのか彼は。
「…でもってね。俺、こうやって文殊探ししてるわけ。」
 青年は、肩をすくめたあと熱っぽい口調になり、
「あそこの、新橋のレストラン。俺、すげーいいと思う。ビルの谷間でさ、しかもあの店自体貸しビルの中だから、建物そのものをあんまり好き勝手にはいじれないじゃん? それをインテリアでさ、…テーブルの配置とか絵の大きさとか、そういうので奥行きが出せるんだよね。感動しちゃったよ。あれ、プランニングしたんでしょ?」
「ええ、まあそうだけど。」
 由布子は無意識に、耳の後ろに髪をかける仕草をしていた。もっともショートボブなので、彼の方が長いのであるが。
「それで、さ。こっから先が本題なんだけど。」
 彼はいったん言葉を切って、
「インテリアの専門家として、個人的に、お力を貸していただけませんかっ。」
 発声練習のように言い果たしてから、彼は横目で由布子を見た。個人的に。その副詞を彼女は反すうした。女として彼のために? いやいや違う。もっと現実的な話だ。つまり会社を通さないで、ということか。
「それはちょっと…」
 言いかけた由布子をさえぎり、
「はい。はいわかってます。そんな義理はありません。それほど親しくもありません。ふざけるな。まったくおっしゃる通りです。」
 べつにそこまでは言っていない。青年は顔に垂れてきた髪を、大きく後ろにかきあげた。ラインのはっきりしたおとがいが強調されると、厚みのある、肉感的な唇が目を引く。
「でもさあ… 『ホームイング・エグゼ』って大手じゃん? たぶん相談するだけで赤字になっちゃうと思って。」
「相談にはお金取らないけど…」
「だけど、べつに相談だけってわけじゃないんだから。」
「ああそうか。」
 由布子は考えた。『ホームイング・エグゼ』、つまり彼女の会社は、利益率が十八%を割る仕事は、リピート受注以外、基本的に請けない。喫茶店の改装で契約するには、やはりそれなりの桁の額がいるだろう。
「場所はどこなの。」
 由布子は尋ねた。リフォームというのは、現況がどうであるかによって、費用に大幅な差が出る。表通りに面した一戸建てなのか、狭い路地の雑居ビルなのか、そのくらいは知りたいと思っての質問だったのだが、
「えっ、引きうけてくれる!」
 彼は大きく目を開き、笑顔を輝かせた。その瞳。大人の男と少年が同居した、のめりこみそうな艶をもつ褐色の瞳。
「超ラッキー! 言ってみるもんだよ。よっしゃっ、これでもうこわいもんはない!」
「いえ、まだ…」
 言いかけた言葉を由布子はのどもとで止めた。こぶしを握り会心の笑みを浮かべて、小躍りせんばかりの彼を見ては、その瞳を悲しげに曇らせたら、神の怒りにふれそうな気がしたからだ。
(だけど、困っちゃったな…)
 由布子は密かに呻吟した。規程でアルバイトは禁止されている。金品を受け取ろうが受け取るまいが、行為そのものを認めないと社則に明記されているのだ。まあ会社にしてみれば当然のことである。IPの持っているノウハウこそが、企業にとっての商売道具だ。個人的に行使させるわけにはいかないだろう。由布子の沈んだ様子を察知したか、彼はゆっくりとこちらを見、
「…力、貸して…くれます…よね…?」
 不安そうな眼だった。極上の美青年のくせに、何だか仔犬みたいだ。そう思ったとき、彼女の胸の深いところを、純粋で鋭い、蜜の氷柱で刺されるような痛みが貫いた。大脳ではなく彼女の心が、由布子の首にうなずけと命じた。
「だけど、わかっててほしいことがあるの。」
 観念の溜息をつきつつ、由布子は言った。
「会社に知れるとまずいのよ。へたしたらクビ。…アドバイスはするし、お手伝いもするけど、絶対に私の名前は伏せるって約束して。あなただけじゃなくて、そのオーナーの方にも、ここのところ、よくわかってもらわないと困るから。」
「OK、OK。わかった約束する。そいつにもちゃんと話しとくよ。でもよかったぁ聞いてもらえて。汗かいちゃったよ、ほらっ。」
 彼は手の甲で大げさに額をぬぐった。くるくるとよく動く目だ。由布子はまたも、つられて笑った。
「あ、お礼とかはさ、なるべくするってそいつ言ってるから。ほんのご笑納くらいだと思うけどね。」
「ああ、それはいらない。」
「えっ?」
「お礼はもらえない。もらっちゃったら、ほんとに商売になっちゃうもの。あくまでも、個人のつきあいレベルで話をした。そういうことにしないと。」
「そう? …でも、そう言われちゃうと何か悪いな。予算ないって言っといて変だけどさ。…じゃあ、メシおごってもらってよ。ホテルのレストランとか、うんと贅沢言っていいよ。俺が嫌とは言わせないから。」
「本当にいいってそんな。」
 由布子はふと、軽い肩すかしを感じた。見たこともないそのオーナーのためにOKしたわけではないのだが…。
 車はいつの間にか、246号に入っていた。常時自然渋滞している道だ。彼はノロノロ運転しながら、片手で器用に、ジャケットの胸から手帳を取り出した。ハンドルの上で何か書きつけ、小さく破いて二本指にはさんだ。
「これ、俺の携帯。何かあったらここにかけて。今日これからそいつんち行って話するから、そしたらいついつって連絡するよ。休みの日ならだいじょぶ? 平日の方がいい?」
「そうね…」
 彼女は考えた。仕事がつまっている時は休出して図面を書いたりするが、今のところ逼迫した予定はない。
「日曜日なら大丈夫かな。平日は、夜ならいいけど時間は決められないの。急に呼び出されたり、打ち合せが延びたりするから。」
 由布子は答えた。男性への答えは、見栄で飾られることが多い。休みはヒマと言ってしまって、相手もいない女と値踏まれたくない。そこで約束もないくせに金曜は駄目などと嘘をつく。いいカッコは誰しもしたい。だが、彼は知っているはずだ。男と別れたばかりの由布子に、さしあたり仕事以外の用事はない。由布子はこのタクにだけは、何を気取っても無駄なのだった。
「じゃあ、いちおう日曜日あけといて。時間はおっかけ電話するから。」
「そうね、そうしてくれる?」
「ん。」
 彼はうなずき、正面を向きかけて、あっ!と大きな声を出した。
「名前伏せとけって言われてもさ、俺、そもそも名前知らないじゃん!」
 彼は首を反らせて、あっはっはと笑った。
「なんかさ、俺、すっげー図々しくない? 名前も知らない人に、『金は払わないけど協力しろ』? チョー失礼。信じらんねー。」
 自分でよほどおかしかったらしく、彼はクックッと笑い続けた。名前を教えていないことに、由布子も言われて気がついた。ずっと昔から知っているような、この錯覚はどこから来たのだろう。
「いちおう、名刺渡しときましょうか。会社はまずいって言っといておかしいけど。」
 渡された紙片を、彼は読み上げた。
「ホームイング・エグゼ株式会社、第三営業部、主任IP、菅原由布子。へえ、主任なんだ。すごいじゃん。」
「すごくなんてないのよ。部下がいるわけじゃなし。入社して五年もたてば、たいていその名前はもらうかな。そんな言葉がくっついてるだけで、お客様は安心するのよね。」
「ああ、なるほどね。ふうん。菅原さんか。電話番号はこれ…。あ、でもさ、ここにかけたらまずいんでしょ?」
「ああそうそう。そうよね、ごめん。」
 いったん渡した名刺の裏に、由布子は少し迷ってから、自宅のナンバーを書き入れた。彼はもう一度表を見、
「菅原って奴、仲間うちに一人いるんだよね。こーんな太っててさ、頭薄いおっさん。菅原っていうと、どうしてもあっち思い浮かべちゃうから、…そうだな、由布子さん、でいい?」
 ユウコサン。彼に呼ばれたその名前は、自分のものなのにひどく新鮮に響いた。
「いいわよそれで。だけど、私だってあなたの名前知らないんだから。」
 由布子は言った。タクと呼ばれているでしょうとは、耳年増の台詞だと思い、言わないでおいた。
「そっか、そうだよね。なんだ由布子さんも変じゃん。名前も知らない男の言うこと、OKって聞いちゃうなんて。しかもお礼はいらないとかさ。もしかして、すっごくいい人?」
 彼女は笑い、首を横に振った。
「あんなに真剣に頼まれたら、断れないわよ。」
 これも本音だった。彼は由布子の口からなぜか、正直な心をするすると引き出していく。
「サンキュウ。…あ、俺の名前はタクでいいよ。みんなにそう呼ばれてるから。」
「タク、だけでいいの?」
「いいよ。」
「タクってどんな字? もしかして、開拓の拓?」
「ピンポン! 当ったりー! すっげえ一発で当たった。」
 じつは由布子はプリムラを買ったあと、部屋で古い事典をめくり、タクという漢字を探したのだ。中で最も気に入ったのが『拓』。フロンティア・スピリットを意味する字。荒野をひらいていく人間の手をあらわす文字だった。
 三宿を過ぎたあたりで拓は言った。
「太子堂っていったら、もうぼちぼちでしょ。家の前まで送るから、カーナビやって。」
「あら、近くまで行ってくれればいいわよ。うちのアパートの前、走りにくいかも知れない。」
「いいよそんなの。頼み聞いてもらってさ、せめて運転手くらいはやらせていただきます。…えーっと、ここは右車線に入っちゃってよろしいんですか由布子さま?」
 様づけとは、嬉しいことを言ってくれるではないか。気持ちの弾みにあわせて由布子も、時代劇調のジョークを返した。
「うむ、道なりに右へ曲がったら、二つ目の信号を今度は左折じゃ。」
「かしこまりました。」
 不思議なくつろぎだった。美貌の人間の中には時々、相手に居心地の悪い緊張感を持たせてしまう人がいる。ところが拓の態度には、余計な力みがいっさいない。さりとて隙があるわけでもなく、ましてや軽薄とはほど遠かった。
 由布子のアパートは、車二台がようやくすれ違えるくらいの、細い道の途中にある。拓はなめらかにハンドルをあやつって、路地に車体をすべりこませた。
「あ、そこの、30って標識の先。あの二階建てのアパートがそう。」
「あの外灯の当たってるとこ?」
「そうそう。」
 由布子はシートベルトをはずした。ドライブはゴールにさしかかっていた。拓はRVを停めた。
「ここで大丈夫だね。」
「うん。送ってもらってどうもありがとう。」
「どういたしまして。」
 彼女はバッグをつかみ、下りた。
「じゃ、近いうち連絡するから。」
 拓は小指と親指を立てて、耳もとで受話器のサインを示し、続いて小さく手を振った。
 くねくねと曲がった道は、すぐにテールランプをさえぎった。由布子は深く息を吐き、階段を上り、ドアの鍵をあけた。明かりをつけるとまっ先に、プリムラが目に飛び込んできた。やわらかなサーモンピンクの花が、『お帰り』と言っているように見えた。由布子は靴を脱ぎ、テーブルの上にバッグを置いて鉢を見下ろした。
「妙なことOKしちゃったよ。みーんなお前のせいだぞ、拓め。」
 彼女は床に座り、あひるの首のリボンをつついた。

 
 拓からの連絡は、翌日の留守電に入っていた。なるべく早く帰宅したかったのだが、急な打ち合せで抜けられず、そのままクライアントの誘いで新年会になってしまったのだった。酔うことのできない接待酒は、面白くも何ともない。しかし断るとどうしても角が立つ。ジャパニーズ・ビジネスにおいて、古い因習は健在なのだ。午後十一時半、由布子は部屋へ帰るなり、電話の再生ボタンを押した。
『こんばんは。』
 機械は、記憶しておいた拓の声を流した。
『えーと、きのうの件ですけど、こんどの日曜、午後三時、東横線の中目黒駅前で待ってます。よろしくお願いします。…あ、それで、時間とか都合悪かったら電話下さい。合わせます。…ということで、じゃあ、以上…です。』
 ピーッと音がしてメッセージは終わった。一分足らずの短い時間だった。
(やっぱりかかってきてた、か。)
 由布子は受話器に軽く触れた。きちんと連絡があってホッとすると同時に、もっと早く帰っていれば直接話せたのにという、淡い悔しさもわいてきた。店の場所や雰囲気を、さわりだけでも聞いておけば、日曜までの五日間のうちに、一つ二つラフ・アイデアをこしらえておけるかも知れない。新橋の店のしつらえを、拓は熱っぽく誉めてくれた。今回まとはずれなプランニングをして、がっかりされたくはなかった。
(中目黒か。わりとごちゃごちゃしたところだな。七十年代カフェバーは、ちょっと似合わなかったかもね。)

 由布子は冷蔵庫からポカリスエットを出し、グラス一杯、一気に飲み干した。電話の並びにプリムラが置いてある。彼女は両方を見た。淡い悔しさの原因が、花冠の後ろに浮かびはじめた。―――店のコンセプトなんかどうでもいい。私はあのひとと話をしたかったのだ ―――
 由布子は電話の前に戻り、テープを巻き戻して、再びボタンを押した。
『こんばんは。えーと、きのうの件ですけど……』
 若い男にありがちな、ぺらぺらした早口ではない。一句一句を区切るような話し方だが、声質そのものには透明感がある。歌ったら多分テノールであろう。表情も声も豊かに変わる青年だ。由布子は目をとじた。きのうの拓のふるまいを思い出した。
 図体の大きなRVを、自在に走らせていた彼。顔の前に垂れてきた髪を、大きくうしろにかきあげるしぐさ。銀色のピアスがのぞく。反らせた首の、くっきりした腺…。
 由布子は目をあけ、頭を振った。想像がだんだんと肉感を帯びていく。彼女はあわててそれにブレーキをかけた。
「やっぱり少し酔ってるか、あたし。」
 口に出して由布子は言い、シャワーを浴びるため立ち上がった。

第1部第1章その6へ
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