【 6 】

 会社のCAD室で由布子は、コンピュータに保存されている過去の資料を調べた。『ホームイング・エグゼ』で手がけた全契約の図面とプレゼンボードは、このCAD機からいつでも検索できるシステムになっている。由布子のいる第三営業部は店舗リフォームの専門部隊であるから、彼女が喫茶店の事例を見ていても不審がられはしなかった。施主名を画面にスクロールさせ、マウスでつかまえて、二十二インチのディスプレイにアニメーション表示させる。これぞと思うものはすばやく、カラープリンタで出力した。
 加えてテーブルや椅子、照明のカタログ、カーテンおよび壁のクロスのサンプルなども彼女は集めた。新年早々忙しそうだね、と部長にねぎらわれた時、由布子はお辞儀の陰で小さく舌を出した。
 
 ようやく訪れた日曜は、一段と寒さの厳しい真冬日だった。夕べから何を着ていこうか迷い、ようやくそれに落ち着いたローズ色のハーフコートに、さらにマフラーを巻いたほど、風の冷たい日であった。
 由布子は東急バスで渋谷へ出、東横線に乗った。中目黒には五分で着く。約束の三時にはあと十五分あった。まだ来ていないだろうと思いながら改札へ向かって、彼女はそこに拓の姿を見た。くわえた煙草に、両手で包んだ炎をいま移そうとしているところだった。厚い革のジャケットのせいで、体が一回り大きく見えた。行き交う女たちのほとんどは、ちらり、と彼を一瞥して改札を通っていく。由布子は小走りに出口にむかった。拓はこちらを見た。
「よ。」
 煙草を挟んだ片手を上げ、
「早かったじゃん。」
 由布子を見下ろして彼は言った。
「早かったって、先に待っててくれたくせに。」
「いや、待たしちゃ悪いと思って。こっちがお願いした立場だからさ、いちおう。」
 先導するようにゆっくりと、彼は歩き出した。さすがに歩幅が大きい。並んで歩くのは今日が初めてだった。
「こっから七〜八分のとこだから。」
 由布子の靴を見てから拓は言った。パンプスではないことを確認したのだろう。特別のお愛想を言いはしないが、さりげなく細やかな気遣いだった。それが全く押しつけがましくないのは、付け焼き刃でない証拠といえた。
「寒いね、今日。」
 道を渡りきったところで拓は言った。雑然とした商店街への入り口だった。
「本当。何だか雪でも降りそう。」
「由布子さんは、スキーとかしないの。」
「スキーねえ。学生時代はね、人並みに多少やったけど…。最近全然行ってないかな。」
「うん、仕事持っちゃうとさ、どうしてもそうだよね。」
「そうね。」
「俺も今年は、まだ一回も行ってないや。」
「ふうん。」
 当たり障りない会話をしながら、由布子は通りを観察した。ラーメン屋があり、広告をべたべた貼った不動産屋があり、パン屋があり、小じゃれたレストランに並んで美容院がある。地域的には渋谷圏だが、カラーは新宿に近い。パワフルといえばそうかも知れないけれど、コンダクターのいないオーケストラを思わせる雑多な個性があふれた結果、かえって特徴のない、俗っぽい平凡な街になっていた。
「ここ、なんだけどさ。」
 商店街の中ほどを左に曲がった三軒目で、拓は立ち止まった。二階建ての一階部分が店になっている。由布子は建物全体を見、それからドア回りに目を移した。左右にレンガの小さな植え込みがあり、痩せた庭木が風を受けてたよりなげに震えている。大きな窓から室内が見えるが、中は暗くてよくわからなかった。ガラスも埃で汚れている。拓がドアを引いてくれた。由布子は中に入った。
 黒い床、黒い壁。テーブルも椅子も、灰皿まで黒づくめ。天井だけが薄いグレイ。あちこちに下がった間接照明がてんでな方向を照らしている。広さはおよそ二十坪弱、ほぼ正方形のフラットな店内で、突き当たりの目隠し壁のむこうが調理場らしい。アクセントのつもりか左右の壁には、斜めに留めたスナップ写真や大小の絵皿がくっついている。奥のコーナーに豪華なエナメル焼の壺。そこにさされたドライフラワーは、量も長さもつりあっていないせいで、貧弱な、情けない感じになっていた。あの壺だったら、天井に届くくらいのカラーリングした枝と、造花でいいから大輪の牡丹を配したい。
(なるほど…。)
 由布子は納得した。定番の黒を基調とした七十年代カフェバー。ビジネスマンや主婦にしてみれば、こういうムードはとっつきにくい。しかし東の代官山や西の自由が丘から流れてくる連中にとって、この中途半端さはお笑い草だ。シャープ&クールに背伸びしたものの徹しきれず、多少アットホームな気安さを混ぜたのが大失敗だった。絹のスーツに運動靴を履き、麦藁帽子をかぶったようなものである。そもそもカフェバーそのものが、こんにちでは半分死語なのだ。
「おう、いらっしゃい。」
 奥から男が出てきた。白シャツに黒のエプロンをつけた、痩せて小柄な、四十がらみの男だった。拓はレザーを脱いで身軽な姿になり、客のいない店内のまん中のテーブルについた。由布子は隣に座った。
「えーとね、こちらが、オーナーの高杉久雄さん。久だけとってキュウさんって呼んでるんだ。 …で、このかたが、図々しいお願いを聞いてくれた文殊様、菅原由布子さん。」
 拓は紹介した。むかいに座った高杉は如才なく名刺を出して、
「高杉です。いやーほんと、救いの女神様ですよ。ぜひともぜひとも、よろしくお願いします。」
 テーブルに手をつき、ぺこぺこ頭を下げた。失礼と知りつつ由布子は、猿にそっくりだと思った。
「いやあ恥ずかしながら、ご覧の通り開店休業の状態でしてね。昔はねえ、いっとき、けっこうよかったこともあるんですけどね。まったくバブルがいっちゃってからあなた、ぱたーっと客足とだえちゃって。…あ、そうそう、コーヒーでも淹れましょう。ちょっと待ってて下さい。」
 高杉は目隠しの向こうへ消えた。拓は彼に聞こえるように少し大きな声を出して、
「だからさ、あん時言ったじゃん俺。妙に迎合すんのやめた方がいいって。六本木のど真ん中っぽいバリバリに尖った店にすんなら、途中で変に丸くしちゃだめなんだって。」
「ああ確かにそうだよなあ。まったく、お前の意見聞いときゃよかったよ。ようやく目が覚めました。みーんなおじさんが悪かったねぇ。」
 高杉はトレンチにカップを三つ載せて戻ってきた。コーヒーがいい香りをたてている。どうぞ、と置かれたカップは意外にも、
「すごい、ロイヤルドルトンじゃないですかこれ。」
「あ、わかってくれた?」
 高杉はパッと嬉しそうな顔になり、
「いやあさすが専門家は違うわ。え?拓。わかる人にはわかるんだよ俺の趣味のよさが。」
「あのね、だからさ、俺が言いたいのはそうじゃなくて。…いい?こういうものにお金かけるのはいいけど、久さん少し自己満足入ってるって。ビンビンの店で超一流品置くんだったら、もっと、場所とか選ばなきゃ。中目黒のさ、ここでだよ。ちょっと無理があるんじゃない?」
「しょうがないだろう、当時ここしか買えなかったんだから。ガオカの一等地なんてお前、倍額だぞ倍額。」
「…じゃあ、この建物は高杉さんの自己所有なんですね?」
 二人の会話に由布子は割り入った。高杉は彼女を見、
「ええ、そうなんですけどね。ただ買うときローン組んだもんで抵当付いてますから、銀行が追加融資を渋ってね。」
「ああ、そうなんですか。」
「本当はねえ、丸ごと全部、ガーッと建て直して、心機一転やりなおそうと思ったんですけど…。まったく勧銀の野郎、利息ばっかり持っていきやがって。」
「出してくれただけいいじゃん。俺が支店長だったら断るね。こんな店に貸したら危なくって。」
「ッたく、うるさいよお前は。」
 軽妙なやりとりに由布子は笑った。けなす言葉に嫌味がない。以前から親しい仲なのだろう。そういえば拓は車の中で、保証人などで世話になったと言っていた。
「それで、リフォームのことなんですけど…」
 由布子はノートを取り出した。高杉は真剣な目になった。
「お店の雰囲気をガラッと変えて、ごく普通の喫茶店にしたいとうかがってますが…」
「ええ、そうなんですよ。」
「具体的に、考えてらっしゃるイメージなどはありますか? こんな風にしたいな、という…。」
「イメージですか。」
「ええ。ご希望でけっこうですよ。こだわり、というか。」
「こだわりねえ…。うーん…。こだわって失敗してるからな…。今回はあんまり、こだわるまいと思ってるんですよ。」
「素直じゃん。」
「やかましい。…むしろね、プロの菅原さんのご意見をお受けして、『こうした方がいいですよ』と教わったら、その通りにしようと思って。」
「私のですか? …何だか責任重いですね。」
「どうなんですかね。どんな店にした方が、お客さん入ってくれますかね。大入満員なんて贅沢は言いませんよ、まあそこそこ、常時回転してるくらいの…。」
「そうですねえ…。」
 由布子は考えをまとめ、
「場所柄からすると、ターゲットは、あまり絞り込まない方がいいと思います。買い物に来るごく一般のお客様が、気楽に入れる雰囲気ですね。それに、近場にわりあい銀行がありますから、ビジネス層を呼ぶことも考えて、…高杉さん、お料理の方はいかがですか?」
「料理?」
「ええ。軽食が出せればランチタイムを作れますでしょう。ビジネスマンにはランチタイムがないと。」
「うんうん、それは大丈夫ですよ。今までだって酒の後の食事類は、この店で出してたんですから。」
「じゃあ安心です。工夫次第でボーダーラインは確保できると思います。商店街の、メインストリートから一本折れてますけど、それほど奥まった感じはしないし、両隣も店舗ですしね。」
「そうですか。それは心強いや。なあ、拓。見違えるようにはやっちゃうかもな。」
「すぐにそうやって浮かれないの。今度しくじったらマジでやばいでしょ?」
 拓はコーヒーカップを取り上げて、
「だいたいさ、ランチタイムが十一時半から二時で、七百五十円から千二百円でしょ。コーヒー一杯は四百円てとこかな。それにモーニングサービスとか、あと、三時頃にはクッキーか何か添えてさ、ティータイムサービスとかもいいんじゃない。」
「おっ、それいいいね。ぜひ行こう。たまには拓もいいこと言うな。」
「ほら、そう思うならメモとってメモ。とったらすぐに飲んで。」
 拓は掌に文字を書き、それを口に入れるふりをした。
「おっ、そうだそうだ。メモとって、飲んどかないと。」
 高杉も同じ動作をした。歳の離れた兄弟のようだ。由布子はコーヒーで唇を湿らせてから、さていよいよ本領に入った。
「コンセプトはほぼそんなところとして、ではお店の造りですけど、全体にもう少し、明るい軽いトーンにしましょう。天井だけが白っぽいとお店の下半分に重量感が出すぎて、回転率が下がるんです。」
「へえ、そうなんですか。そりゃいかんわ。コーヒー一杯で二時間ねばられちゃ上がったりだ。」
「できれば床は張りかえてナチュラルにして、壁もオフホワイトにすれば、せっかくあんな大きな窓があるんですから、外から見ても明るくていい感じだと思いますよ。」
「うんうんなるほど。」
「テーブルはやっぱりナチュラルで、ライトオークがいいと思います。少し大きめのサイズにして、ええと全部で…」
 由布子は店を見回し、現在のテーブル数を数えた。
「いま十五卓ですけど、少し減らしましょう。ちょっと間が狭く感じますものね。あの角にあるエナメル焼の壺、あれはすごく素敵ですからそのまま使いましょう。コーナーじゃなくて壁のこのへんに、七十センチくらいの飾り台を一つ作って、倒れないようにはめこんで…」
 高杉はニコニコ聞いていたが拓は、カップをソーサーに置き、ぼそりと言った。
「それって… なんかけっこう、金、かかりそうじゃん。」
 由布子はハッとした。そうだ。イメージをふくらませるのに夢中で、大事なポイントを忘れていた。高杉は拓に向かって、
「いいって少しくらい。銀行がだめでも、保険会社にも当たってみれば何とかなるよ。」
「何言ってんだよ。それが危ないんだよ久さんは。ハイリスク・ハイリターンをさ、狙っていい時期じゃないでしょ、今は。」
 高杉は苦い顔をし、だが反論をやめた。由布子は静かに言った。
「ごめんなさい。それが第一条件でしたよね。」
「いや、由布子さんが謝ることじゃないよ。俺そういう意味で…」
「うん、わかってる。でも最初に予算をうかがうべきだったもの。」
 拓はテーブルに身をのりだし、
「久さん、俺も正確には聞いてなかったけど、銀行にいったいいくら借りられたんだよ。」
 高杉は小さな目を上目使いにした。
「それをちゃんと言わないとさ、由布子さんだって真剣にやってくれてんだから。」
 高杉は組んだ腕をほどき、左手でVサイン、右手でもVサインの、蟹のような格好をした。
「四百万? 四百万しか借りらんなかったの?」
 拓と由布子は顔を見合わせた。二十坪のオール・リフォームに四百万。これでは文殊集めをしたくなるはずだ。しかし高杉は首を振り、
「四百じゃないよ。二百と、二十万。」
「にひゃ…」
「にひゃくにじゅうまん?」
 二人は思わずハモってしまい、同時にドサリと椅子の背にもたれた。高杉は片頬だけで笑い、
「だから言ったろうよ、予算はないって。」
「ないって久さん、こりゃむちゃだよ。二百万でこの店改修? ガラッと雰囲気を変える? 文殊が何百人いたって、無理に決まってんじゃんそんなの。」
「やっぱそうかね…」
「そうだよ。椅子とテーブルとっかえるだけで、それくらいの額行っちゃうでしょ?」
「うん…。そう…かも知れない。」
「ほーら。誰だってそう思うって。」
「やっぱりだめか…。」
 高杉はがっくり肩を落とし、細い体をますますちぢこまらせた。
「いっそ、あきらめて売っちまうかなあ…。だけど今手放したって、買ったときの値段じゃ売れないし…。自分の店持つのが長年の夢で、やっと持てたと思ったのに、ローン抱えて職探しか…。この歳でそれはかんべんだよなあ…。どっかのガレージセールで、ロイヤルドルトンでも売っ払うか。ヴェッジウッドもリモージュもあるし、へたすりゃ店売るよりいい金になったりしてな。」
 すてばちの冗談に、拓は笑わなかった。由布子も答えられなかった。彼女は目だけで店内を見回した。時流を読めなかった高杉の夢が、あちこちで埃まみれになっている。エナメル焼の豪華な壺が、夢の墓標になるのだろうか。由布子は壺を見つめた。うす汚れたこの店内で、沈黙という確たる自己主張をしている壺。あの存在感は断じて安物でない。ブランド好きらしい高杉が、ひときわの思い入れをもって飾っているに違いない。上質な漆に似た表面には、いま気づいたのだが何かの絵が描いてある。いや描いたのではなく焼き付けのようだ。水流をかたどった模様だろうか。下から上へ、はねあがる曲線。そばに何か丸いものもある。やがて由布子はその正体を知った。
(…あれは、火の鳥…?)
 壺に宿っていたのは、翼をひろげ、尾羽をなびかせ、炎の粉をきらきらと撒き散らす不死鳥だった。この店に入った時から不思議と気になる壺だった。隅っこに捨ておかれたただの物体と、無視することができなかった。由布子の心は、つっ、と動いた。
 あきらめた方がいいですよ、と、いま言えば高杉は決心するだろう。長年の夢より現実は重たいはずだ。ここで断れば由布子も楽だ。会社に隠れてごそごそやらなくてよくなる。NO、の一言だ。きわめて簡単なことだ。だがその簡単さが、何ともスッキリしなかった。舌裏にざらつく飲みにくい粉薬の苦さ。たやすくNOと言えるなら、もっと先でもいいのではないか? 簡単ではないYESの方に、思いがけない活路はないか。あんなに暗い、墓場めいた床の上で、火の鳥はまだ飛んでいる。それを自分は見つけたではないか。
「高杉さんて、お顔はひろいですか?」
 火の鳥の冠羽には、黒曜石が嵌めこまれているらしい。尾羽の先に光っているのは水晶かも知れない。
「顔ですか? …まあ、ひろいってほどでもないですが、人づきあいは苦手じゃないから…。」
 高杉はうつろな表情で言ったが、拓の方が先に、何かを感じたらしく顔を上げた。
「お知り合いに、日曜大工が趣味の方はいませんか。いえ玄人ならばなおけっこうです。クロス屋さんとか、一人親方で、利益抜きで協力してくれる人…。」
「……」
 高杉の目に生気が戻った。真意を理解してくれたのだ。彼女の顔を見守っていた拓は、半身を由布子の方に向け、
「もしかして、何とかなりそう?」
「…わからないけど、つまり二百二十万におさめればいいんでしょう? 考えてみれば二百二十万て、決してはしたな金額じゃないわよ。足りないのは文殊の方かもしれない。もう少し、集められれば…」
「うんうんうん。」
 拓は細かくうなずき、すぐに妙案を思いついた様子で、
「久さん、久さんあいつは。陽介。あいつ二年間修業したんじゃん。りっぱな大工の卵だよ。」
「お、そうか、あいつがいたか!」
「今どこにいるんだよあいつ。連絡先とかわかる?」
「ああわかるわかる。今は小杉のバイク屋で、修理のバイトしてるって言ってた。」
「久さんが声かければ、あいつ絶対来るって。…陽介ってね、まだ十七のガキなんだけど、福島から出てきてさ、こっちの建築会社に就職して、本人まじめにやってたんだけど、やっぱ中卒ってことでいじめられて、会社飛び出しちゃったんだよね。髪の毛とかまっ黄色に染めて悪ぶってるけど、すっげー気の優しい奴なんだ。ケンカで袋叩きにされてっとこ、たまたま久さんに拾われてさ、何か、なついちゃったんだよね久さんに。」
「ああ。一カ月くらいウチにいたかなあ。」
「久さんてさ、妙にああいう奴に好かれるよね。陽介とか、…俺、とかさ。」
「ばかやろう人徳だ人徳。」
「じゃあその陽介さんて人、あてにしていいのね。」
「うん、OKOK。由布子さんのプランニングで、あいつに作業やらせんでしょ。適役だよ。何だっけ、さっき言ってた、壁をオフホワイト、床はナチュラルだっけ?」
「うん。予算内におさまればね。床と壁とテーブルと、あとは、もっとも重要なポイントが一つ。」
「重要なポイント?」
「お店の雰囲気をね、一番変えるのって、何だと思う?」
「一番変えるもの? …壁紙とか?」
「ううん。それはね、椅子なの。椅子を変えないで壁と天井を貼り変えた場合と、逆に壁や天井をそのままにして椅子を全部取り変えた場合とで、どっちが雰囲気変わるかっていうと、あとの方なんだから。」
「ええ、そうかなあ。だって天井を白から黒にしたら、まるっきり別の空間じゃないの。」
「うん、舞台装置とか、大きなホールならね。だけどたとえばこのお店の中で、一番数が多く揃ってるものって椅子でしょう。喫茶店に入ってきた人間は、自分の座る場所をまず探すわけじゃない。まっ先に目につくのは椅子。…だから、今度どこかのお店に入ったとき気にしてみてよ。最先端の店はみんな個性的な椅子置いてるから。女子学生相手のペンション風な店だと、たいていこのへんが木目調。」
 拓は黙って、大きな目をしていた。高杉はへえーっと感心して、
「なるほど言われてみりゃそうだなあ。ポイントは椅子かあ。」
「…だから、そんなわけで、椅子をどうするかが最大の問題なのよ。」
 由布子はコーヒを飲みほした。調子に乗って、説法臭い言い方になったかな、とふと思ったが、
「すっげえ。」
 拓はニヤリ、と笑い、
「やっぱ由布子さんプロだわ。さすが。だてじゃないよ。見てるとこが玄人だもん。」
「ああ。こんな若いお嬢さんが大したもんだよ。拓、お前、なんでこんなプロフェッショナルと知り合いなんだ? いったいどこで知り合ったんだよ。」
 高杉は聞いた。由布子にとっては触れられたくないところだった。できれば二度と、拓に思い出してほしくない自分の姿だ。拓は彼女を見ずに、
「それは内緒。機密事項。」
「おやっ、おやおやっ、気になるなあ。」
「あのね、若者のね、そういうとこが気になるのはおっさんの証拠なの。…ね、もう一杯もらっていいかな。…由布子さんも飲むでしょ?」
「あ、ああ、ええ、できればいただきたいです。」
「おっと気づかなかった。すいませんねえ気がきかなくて。これだから店が傾くんだね。」
 高杉はカップをトレンチに集め、厨房へ歩いていった。
「でもさあ久さん。心機一転オープンしたら、従業員とかどうすんの。今みたくこんなヒマならいいけど、久さんひとりじゃランチタイム無理でしょ。」
「ああ、そうしたら昔通り、カミさんに手伝わせるよ。」
「奥さん今どうしてんの。」
「店がこんなだからな、食品売場のパートに出てもらってる。なさけない親父だねえ俺も。」
「でも奥さんと二人だってさ、ちょっときつくない? 誰かバイトやとえば?」
「そうだなあ…」
 高杉は戻ってきた。
「お前が来てくれりゃな。少々の不景気はふっとぶんだがな。」
「俺がぁ?」
「おおそうさ。お前がいりゃあ女性客が、砂糖にむらがる蟻みたいに寄って来るよ。いまのその店…なんとかセンター、そこだってお前が来てから、けっこう客がふえたんじゃないか?」
「知らねーよそんなの。」
 拓は笑いもせず熱いコーヒーを飲んだ。由布子は、銀座で跳びはねていたあの三人娘と、胡蝶蘭を抱えていた毛皮の女を思い出した。たしかに銀座店には、拓目当ての客が十人や二十人いてもおかしくない。
「オープンの時のな、せめて一週間でもいいから来てくれたら助かるんだがな。」
 案外冗談でもなさそうに高杉は言った。拓は煙草をくわえた。
「だーめ。俺は忙しいの。来月になったらすぐ、一個出展する予定だから。」
 出展。由布子はその言葉に耳をとめた。だが、何のことかと質問する前に拓は、
「だいいちさ、俺が手伝いにくると、女じゃなくて男が集まっちゃうんだって。」
「なに? なんだよお前とうとうバイになったのか?」
「ちがうちがう、そうじゃなくって。」
 拓は煙を吐き、思い出し笑いをした。
「去年さ、人手が足りなくて、俺、青山店に助っ人に行かされたんだよね。クリスマスが近かったのかな、みんな出払っちゃってて、俺一人で店番してたの。そしたら店の前にいきなり、ぴっかぴかのジャガー停まっちゃって。ベンツなんかじゃなくて、クラシックジャガー。思わず、すっげー、とか思って見てたら、下りてきたのがさ、もう、芸能人か、さもなきゃコレもん? タキシードに白い絹のスカーフこうやって下げてて、そいつが店ん中入ってきたんだよ。いらっしゃいませ、とか言ったら、こうやって、キザな手つきで、『この薔薇、ジョセフィーン・ブルースだね?』…。」
「ジョセフィーン・ブルース? なんだそら。」
「いや俺も知らないけど、多分種類の名前でしょ。『はあ。』とか言ったら、その男が、『じゃあこれをね、そうだな、三ダース。花束にしてくれるかな。花と同じ色の深紅のリボンを結んで。』とか言うの。もう、半端じゃないキザ。俺いっしゅん、主宰かと思った。」
「『調理の鉄人』のか。」
「でもって、言われた通りに包んでやって、『お待たせしました』って渡したら、ふところから、こうやってスッ…と、いい? こうやってスッ…とだよ、万札取り出してさ、一本五百円だから、三ダースだと一万八千円じゃん? 万札二枚指に挟んでさ、その花束の中から薔薇を一本、キュッ、って抜き取ってさ、万札といっしょに俺に渡すの。『お釣りはとっておきなさい。それからこれは、私から君へのプレゼントだ。』」
「へええーーっ! 気に入られちゃったのか主宰に!」
「そうみたい。俺、マジでびっくりした。生まれて初めてだもん、男にそんなこと言われたの。」
「で、そいつはどうした。」
「ジャガー乗って、行っちゃったよ。」
「馬鹿だな電話番号聞きゃよかったのに!」
「うん、じつはそう思った。」
「いいパトロンになってくれたぞきっと。そのもらった花はどうしたんだ。」
「ウチ持って帰って花瓶にさした。」
「ちゃーっ、惜しいなあ! なんで番号聞かないかなあ。お前の頼みなら何でも聞くぞそういう男は。『知り合いの店直したいんです』って言やあ、ポンと四〜五千万出してくれたのによ。」
 高杉が心底残念そうに言ったので、拓と由布子はそろって大笑いした。

第1部第1章その7へ
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