【 7 】

 翌週、由布子は、定時いっぱいで自分の仕事を片づけ、夜を高杉の店のプランニング時間に当てた。彼女が現在かかえているのは、溜池の日本料理店のリピートオーダーと、恵比寿にある商社ビルの、エントランスホールのディスプレイ・デザインだった。前者は実行予算を立てて業者発注する段階、後者はパースをおこし商社の担当者に見てもらって、これでよしということになれば本契約の段取りであった。そこへ内緒の仕事が一つ割り込んだわけだから、工数を出すためには、昼休みや、眠る時間を削るしかないのであった。
 だが、そうまでしても苦にならないほど、高杉のプランニングはやりがいがあった。低予算という大制約を受けながらも、創造的にデザインすることができる。ささいなことにああだこうだ言ってくるクライアントより、あんたにまかすよと言われた方が、責任も大きいけれどその分やる気が出るものだ。高杉という男は、猿に似ているなどととんでもない、もしかしたら人使いの天才かも知れない。
 あの日、由布子は高杉から、店を買った時の契約書に添付されていた全図面を借りてきていた。それをCADマシンに入力し、さまざまなパーツを当てはめては、施工費抜きの、材料費のみを計算した。
(壁を全面クロス貼りするとして、やっぱりフローリングまでは出ないか…。コーティングを省けばおっつきそうだけど、椅子で傷がつくから省くわけにいかない。故にフローリングも無理、と…。とするとどうしても床は黒のままってことになる。ライトオークを主としたカントリーっぽい感じはこれじゃ出せない…。)
 木目をいかしたログハウス風に、多少渋さを加えた基本イメージを考えていたのだが、それは没だ。フロアが重い色の場合はよほど注意しないと、軽やかさを出すのは難しい。軽妙さイコール奇妙キテレツを、招きかねないのが黒い床のこわさなのだ。
(ライトオークのテーブルは、このタイプだと単価が十五万円…。十卓ですでに百五十万じゃ話にならないか。)
 由布子は計算書を丸めた。道を歩いていても電車に乗っていても、店のプランニングが頭から離れなかった。バスタブに浸かっている時でさえ、
(まわりにタイルを使えればな…。高級感があってしかも独創的。…だめか、半分貼るだけで二百五十万かかる。)
 入力しては消し印刷しては破り、木曜になってようやく、叩き台らしきものが仕上がった。その晩由布子は、カタログのコピーとA2のトレペ(トレーシングペーパー)をアパートに持ち帰り、前髪にカーラーを巻いた姿で、ココア片手に、型番決めとトータル金額の算出をしていた。
 プリムラの向こう側で、コロロ、コロロと電話が鳴った。時刻は八時半だった。由布子は机から腕を伸ばして受話器を取った。
「はい、もしもし。」
 ざわざわと人声の騒音をBGMに、
「あ、もしもし? 由布子さん?」
 回りがうるさいせいだろう、大きな、拓の声がした。
「よかった、いたんだ。まだ帰ってないかなーと思ったんだけどさ。」
「うん、きょうはちょっと早く帰れたの。」
 実はCAD室に口やかましい課長がいたので、何をやっているかチェックされないよう、資料を抱えて帰宅したのだった。
「あのね、もしもし、聞こえる? 今さ、渋谷なんだけど、ちょっと出て来らんない?」
「え? 今から?」
「うん。陽介がいっしょなんだ。紹介したいからさ。」
「陽介さんが。」
「そう。だからちょっと来てよ。俺、おごるからさ。」
「んー…。」
 由布子は食器棚のガラスに映っているおのが格好を見た。パジャマとガウンとヘアカーラー。出かけるのがおっくうでないと言えば嘘だ。しかし、道という道が坂となって下るその街に、いま彼はいるという。あの瞳が待っている。その独白はためらいに勝った。
「わかった、行くわ。」
 彼女はカーラーをはずした。
「渋谷のどこにいるの?」
「あのね、井の頭線沿いの、『裏長屋』。知ってる?」
「裏長屋? どっちの?」
「『奥座敷』じゃない方。」
「『奥座敷』じゃない方ね? わかった。この時間だと… 九時には着くと思う。」
「ん、了解。じゃあね。」
 由布子は大急ぎで化粧をし、ドレッサーを開いた。着ていくものをあれこれ選んでいる時間はない。ジーンズにTシャツにサファリシャツ、それにダウンジャケットをはおり、あたふたと靴を履きかけて、彼女ははたと立ち止まった。
「そうだ、ついでに。」
 テーブルへ戻り、ひろげたトレペを筒型の図面ケースにおさめ、由布子はそれを持ってバス停へ急いだ。
 店に着いたときは、九時を五〜六分まわっていた。小さなエレベータで上り、店内に入る。満員であったが、すぐにカウンターの拓と目が合った。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった。」
 由布子は彼の隣に座った。拓は通りかかった店員に、
「とりあえずビールでいい? じゃ中ジョッキひとつ。」
 注文しておいてから、向こう隣に、隠れるように座っている青年の背をポンとたたき、
「こいつがね、こないだ話した陽介。廣沢陽介。…ほら、ちゃんと挨拶しろ。」
 言われた彼は首をのばし、一瞬だけ由布子を見て、
「こんばんは…」
 聞き取れないほど小さな声で言った。拓が言っていた通り彼の髪は、金色というより黄色であった。今どきのアイドルを真似てか、前髪がちょうど目にかかるあたりにきている。
「なんだよ、『こんばんは』だけか? 相変わらず人見知りだなお前。」
 由布子のジョッキが届けられた。拓は自分のビールを持って、
「じゃあ、もういっかい乾杯しよう。ほら、陽介もいいか? じゃあね、そうだな、…三人寄れば文殊の知恵を祝して、乾杯。」
「かんぱい。」
 カチリ、と音をたててジョッキとグラスがぶつかった。
「あ、好きなの頼んでいいから。こっちのもさ、適当に手のばして食べて。」
「うん、ありがと。でも食事済ませちゃったから、軽くね。」
「陽介も酒が飲めない分、遠慮しないで食えよ。何か追加するか? 自分で選んで、勝手に注文しろ。」
拓はメニューを渡した。陽介は前髪ごしに笑って、
「じゃあ、ピザたのんでいいすか。」
 浮かべるのは本当に子供っぽい笑顔だった。しかしよく見ると彼の顔立ちは、なかなか端正に整っている。すぐにそうと気づかなかったのは、背を丸め、顔を伏せがちにしていたためと、もう一つ、拓と並んでしまうとどうしても、引き立たなくなる故であろう。
「久さんがね、すぐにこいつに連絡とってくれたんだ。こいつも喜んで手伝ってくれるって。由布子さんのプランニングが上がり次第、バイト調節して工事するって言ってるから。」
「うわ、それじゃ急がなきゃね。」
「いや別に急がなくたってさ。それにこないだの話で、だいたい決まったようなもんじゃん。」
「それがね、床を張りかえるのはちょっと無理みたいなのよ。材料費だけで予算オーバー。」
「オーバーって、材料費だけでそんな行っちゃう? 工事全部こいつにやらせても?」
「うん。壁のクロスを全面張りかえるでしょう? 椅子とテーブル取りかえるでしょう? それだけで二百万軽くこえちゃう。」
「マジかよ…。」
「だから、床は黒のまんまでいくしかないんだけど、細かいところで苦労してるのよ。」
 由布子はケースをあけ、トレペを抜いた。丸めてあったのでひろげにくい。
「何これ。図面?」
「そう。ちょっとそっち持ってくれる?」
 拓は手を伸ばしたが、その向こうから、陽介の手がぬっと一辺をつかんだ。目は真剣に図面を見ている。
「こんな感じにね、ちょっと余裕をもってテーブル配置して、フロアのまん中に大きなテーブルをどん、と置いたらどうかと思って。」
「へえ、いいじゃん。あんまりテーブル同士近くてさ、笑ったら後ろの人の頭にぶつかった、なんて嫌だよね。」
「それでこのテーブルの中央に、どさっと花を活けるのよ。生花じゃなくても、ドライフラワーでもいいし、果物でもいいかもね。パースで見るとこんな雰囲気。」
「…それさ、もしかして俺の担当?」
「そう。花はあなたの責任ね。」
「はい、わかりました。きちんとやります。」
「…で、問題は十卓のテーブルなのよ。ここをいかにセンスよく、かつリーズナブルに上げるかで、予算をクリアできるかどうかが決まるの。」
「ふうん。」
 拓は相づちを打ったが、自分の肩口に頬をくっつけるようにして、図に見入っている陽介に、
「なに、お前えらい真剣に見てるな。そうかお前、図面読めるんだ。」
「いえ、読めるってほどはないすけど… だいたい、わかりますから…。」
 由布子はカウンターに肘をついて首を傾け、
「ねえ、陽介さんどう思う。何かいいアイデアないかなあ。」
 彼は由布子の方を途中まで見たが目を戻し、曖昧な笑いを浮かべた。人慣れしていないこの雰囲気を、東京のすれっからしどもはいちはやく嗅ぎわけ、恰好ないじめの標的にしたのだろう。
 そこへ大皿にのってピザと、他に二〜三、追加した品が運ばれてきた。カウンターがにぎやかになった。
「汚すといけないから、ほら、たたもうこれ。な。」
 拓は陽介に言い、手早くトレペを巻いた。それを筒のケースにおさめている由布子に彼は、
「そんだけ出来上がってんなら、急ぐことないじゃん。」
「まだまだ半分よ。積算して、原価出さないと。」
「へえ、めんどくさいもんなんだ。」
 拓は大根サラダを口に入れ、しゃきしゃきといい音で噛んだ。由布子は話を続けた。
「でも、やればできるものね。白状すると、この前高杉さんのお店に行ったとき、あきらめた方がいいって言おうかと一瞬迷ったのよ。」
「あ、やっぱり?」
「やっぱりって… いやだ、バレバレだった?」
「いやそうじゃないけど。二百二十万て聞いたとき俺も、こりゃだめか知んないって思ったから。」
「そうよね、普通。」
 由布子は拓の目を見てクスッと笑った。同じ笑みが、彼のまなざしにも浮かんでいた。瞳で交わす感情。至福の、最高の、極上の会話である。拓と自分との間にそれが成立することを、…少なくとも自分にはそう思えることを、由布子は胸にしみる喜びとして感じた。
「頭使えばさ、世の中、何とかなるよね。人間、先にあきらめた方が負けだ。こら陽介、聞いてるか?」
 拓は肘の先で、陽介の腕をこづいた。いっとき話に入ってこなかった彼は、見ると割箸の袋を折って、きれいなオブジェを作っている。
「あら、何それ。」
 由布子は言った。山折り谷折りを組み合わせた立体的な、矢羽根型の紙細工ができあがっていた。
「こいつ、手先器用なんだよね。どれ見してみ。へえーっ、どうやって折ったんだよこんなの。」
 拓はその細工を由布子によこした。ただの割箸の袋とはとうてい思えない。
「ほんとだ、すごいじゃない。どうやって作るの?」
「かんたんっすよ、そんなの。」
 陽介は照れたような怒ったような複雑な顔で言った。手先が器用ということは、おそらく丁寧な仕事をする、いい技術者の卵であったのだろう。地方出身で中卒だなどと、そんな馬鹿げたことでいじめられなければ、腕のいい本物の『大工さん』が激減している現代、貴重な人財になりえただろうに。
「これ、もらってもいい?」
 由布子の頼みに陽介は、
「えっ… なんで…」
 目をぱちぱちさせていたが、また曖昧な笑顔になり、
「いっすよ。」
 それだけ言って、皿の上の春巻きをばくりと噛み切った。
「…お前もう、大工やめちゃうのかよ。」
 魚をむしりつつ、拓は何気ない口ぶりで言った。
「もったいないぜ。昔から、いろんなもん作るのが好きだったんだろ? お前のこと、暗いとかむかつくとか、そんなこと言う奴らはほっとけよ。学歴なんてのは、それがなくちゃ生きて行けない奴のためにあるもんなんだから。言い訳だよ言い訳。」
「そんなこと言ったって…。」
「何だよ。」
「拓にいさんは、すげえ大学入ったじゃないすか。」
「入ったんじゃねーよ。前に話したろうが。俺は行きたくなんかなかったから、一年でサヨナラしたんだって。」
「だけど…」
「お前な、人のことはいいから。とにかく久さんの店ちゃんと直してやって、もしうまくいったら、もう一回よく考えろ? ま、焦るこたないから。いいきっかけだと思って、久さんの役に立ってやれよ。」
 陽介は黙ってうなずいた。二人の話を聞いていた由布子は、母親にも似た暖かな気持ちになった。男同士の語らいは、無愛想でそっけなくて、だが限りなく深厚だ。若い拓と、まだ少年の抜けきらない陽介の間には、外側は硬いのに中は真っ白で柔らかな、ドイツパンのような近しさが介在している。親元を離れ仲間も得られず、泣きたいほど孤独であるだろう黄色い髪の十七歳。彼にとって拓は実の兄貴以上に、慕わしい存在に違いなかった。

第1部第1章その8へ
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