【 8 】

 翌日からまた由布子は、図面や計算書と顔を突き合わせ、電卓を叩いては数字と格闘する日々を送った。さらに数日を費やして、ほぼこれで行ける、というプランまでこぎつけたその時、シャープの電卓はとんでもない問題を表示した。どうあがいても総額が、三百万を切らないのである。
 最初にフローリングをあきらめ、次にクロスのグレードを落とし、テーブルも椅子も、仕方なくワンランク下げたというのにおさまらない。テーブル数を減らせばおのずと総額も下がるが、あまりにもスカスカの店内では、正方形でフラットな造りだけに、何とも間が抜けてしまう。
「ああもう、どうしてっ!」
 電卓を叩き壊したい衝動をかろうじておさえ、CADマシンの前で由布子は頭を抱えこんだ。
 さすがプロだね、と言ってくれた拓の言葉、食い入るほど図面を見ていた陽介の目。それらが頭の中にあらわれては消え、由布子は自分の能力のなさに苛立った。火の鳥を見つけたことに安手の運命などを感じ、高杉にはおだてられて、いい気になってしまったのかも知れない。木に登ってしまった豚が、下りられずに震えていると同じだ。何とぶざまなことだろう。思考がマイナーに空転すると、由布子の胸の内を、悪酔いの吐き気に似た嫌な苦さが満たし始めた。大塚、の記憶である。
 今まで、つい去年まで、由布子は仕事に行き詰まると必ず、大塚に助言を求めてきた。大なり小なり彼の意見に従ってきた。『この場合は座標をもっと下げて重厚な感じにした方がいい。逆に、こういう時はもっとカーテンを派手にして、うんと軽やかな、はずむような雰囲気にした方がふさわしい。』…インテリアについて大塚は、確かに鋭い感性を持っていた。彼はそれらを、惜しみなく由布子に教えてくれた。オフィスで、客先で、あるいはベッドの中で…。由布子は下唇を血の出るほど噛んだ。大塚がいたから、私はやってこられたのだろうか? 私自身には何の実力もない、猿回しの猿にすぎないのだろうか?
『店の中央に、大きなテーブルを置く。これはね、囲炉裏の発想と同じなんだよ。』
 大塚の言葉が、耳の底に響いてきた。
『囲炉裏というのは、その家の中心なんだ。家族の大黒柱、あるじの席を示す場でもある。おのずから生まれる場の倫理のようなものがね、その店に落ち着きを与え、客をホッとさせるものなんだ。』
 由布子はCAD機を凝視した。何ということだろう。自分は無意識のうちに、高杉の店に大型のテーブルを置こうとしている。囲炉裏の発想。場の倫理。大塚が説いたそれらのエッセンスが、今なお由布子のデザインを支配しているのだ。そしてそのテーブルの中央に私は、花を飾れと言ってしまった。拓に。あの青年に。オレンジ色のリボンをくれた、私のあのひとに。由布子の全身を震えが走った。彼女は反射的にマウスを握った。
『全体削除』、矢印は赤い文字のボタンをさした。コンピュータは忠実に尋ねてくる。『削除した情報は元に戻せません。削除しますか?』
「YES!」
 画面を光線が横切り、デザインはこの世から消えた。黒くなった画面に初期メッセージがあらわれ、カーソルが入力を促して点滅した。『新規登録・施主ナンバーを入力して下さい』。由布子はぼんやり文字を見ていた。すると背後の、入り口のところで、
「おや菅原ちゃん、まだいたの。」
 振り向かなくてもCRTに影が映っている。隣の第二営業部の、新井という女性課長だ。売上高で部門トップ、社長賞常連の花形IPであった。
「新井さんこそ、まだいらっしゃったんですか。」
「うん、今終わったとこだけどね。何よ、なんかけっこうハマってるっぽいじゃござんせんか。」
「ええ…。ちょっと、予算が少ないお客様だもので。」
「ありゃま、そりゃ大変だ。どう、少し休憩したら。」
 新井はコーヒーの缶を魔法のように出し、由布子に渡した。マシン室は禁煙&飲食禁止なので、二人はパントリーに行きテーブルに座った。
「今月の契約はどうですか。」
 プルトップを起こしながら由布子は尋ねた。新井は煙草に火をつけ、
「ああ、だめだめ。今月はだめだわ。予定してたお客さんが二件とも来月送り。完工のでかいの抱えちゃってるから、どうしても気持ちがそっち行っちゃってね。」
 煙を吐き、コーヒーをすすって、煙草の灰をトントン叩いて落とす。まるきり男と同じ仕草が、ぴたりと決まる女課長だった。ショートカットに眼鏡をかけた、お世辞にも美人とは言えない容姿だが、切れ味のよさが全身に出ていて、溌剌としたオーラを感じずにはいられない。由布子は唐突に、高杉の店のプランを、この新井に相談してみようかという気になった。第二営業部は、一般住宅の大規模な増改築が担当であり、店舗は扱っていない。内緒の仕事の相談には、うってつけの先輩かも知れなかった。
「…新井さんは、お客さんの予算が極端に少ない場合、どういう風にプレゼンしますか。」
 核心よりも若干遠いあたりから、由布子は話を切り出した。
「極端に? 十万とか二十万とか?」
「ええまあ。ふつう考えたら五百万かかるところを百万、くらいの…。」
 例えを上げつつ由布子は、新井が、そんなのムリだよとケラケラ笑うのではないかと思ったが、予想に反して彼女は、過去帳の懐かしいページをめくり返したかのような甘酸っぱい笑顔になった。
「ああ、あるねえそんなことも。子供三人に夫婦二人、プラス親夫婦の七人家族で、子供が大きくなっちゃってね。六畳の狭い部屋を、なんとか二つに分けたいって言われた。…そんなことも昔あったっけ。」
「へえ。」
 切羽詰まった顧客に哀願されて、うなる新井の困り顔が目に浮かんだ。たしか新井は、リピート・オーダーの件数でも社内ナンバーワンだった。客の心に入り込み、信頼の糸を張ることができるIPなのだ。
「あとは… あたしも最初の頃は店舗関係やってたから、その頃の話だけど、はやらなくなっちゃった居酒屋をパブにしたいって相談受けてね。」
「パブ、ですか。」
 由布子は復唱した。似ている、今回の高杉のパターンと。
「そう。田舎っぽい感じの気さくな店を… まあ、気さくって言えば聞こえはいいけど、要はごちゃごちゃしたきったない店を、もう少し『ハイカラにしたい』ってオーナーが言うのよ。もう爺さんのくせに。これが予算最低で、ほんっと苦労した。でも今思うとなつかしいな。」
「ふうん、面白そうですね。低予算でハイカラにしたい、か。ハイカラなんて言葉、今どき使いませんよね。でもなんかオーナーの言いたいこと、わかるなあ。どんなふうにリフォームしたんですか?」
 意識的に強調した興味深げなさまが功を奏して、新井は、当時自分が考えたことを、順序立てて要領よく話してくれた。トップIPだけあって新井の思考回路は、非常に論理的にできている。由布子はうなずきつつ真剣に聞いた。いつしかコーヒーの缶を握りしめていた。
 話の中で由布子を一番啓示したのは、新井の語り口も熱っぽくなった、次のようなくだりであった。
「…つまりね、提案がハード面にかたよると、どうしても価格の足枷から逃げられなくなるのね。床がああだとか窓がこうだとか、そんなことにばかり目が行っちゃうからいけないわけよ。お店がはやるかはやんないかなんて、容れ物には関係ないんだって。要はその店の雰囲気が、オーナーに合ってるかどうかなのよ。オーナーのタイプ、趣味、嗜好と全然合ってない店作っちゃったら、たとえ一千万かけようと一億かけようと失敗する。逆に、狭くてボロボロでも、へんに居心地のいい店ってあるでしょう。…
オーナーによっては、壁のひび割れなんか新聞紙貼ってごまかしたっていいから、そのかわり百万かけてオリジナルのコースター作って、来た人に名刺代わりに持って帰ってもらうとか、ジャズの名曲の、マニアがよだれ垂らすようなレコード揃える方にお金かけるとか、…そうした方が活きるタイプの人がいるのよ。店の見てくれより、そのオーナーがどういう人かっていうソフト面に、どこまで入り込めるか。かかわれるか。それが重要なんだってこと、あたしもその時の経験でわかったかな。ハードじゃないの。大事なのはソフト。ビル・ゲイツだってそれがわかってたから、大成功したんだと思うよ。」
 
 新井が帰ったあと、由布子はひとり作業に戻った。全体削除した高杉の店の現・平面図を再度スキャナにかけ、彼女は、ゆっくり吸い込まれていく紙を眺めた。
(ハード面なんか二の次ってことか…)
 フロアにはとうに誰もいなかった。コンピュータのファンの回転音は、こうして聞くとずいぶん大きい。ディスクにアクセスする独特の乾いた音。スキャナの吸引はリズミカルだ。疲れて濁った頭の中で、自分であって自分ではない声が、淡々とした調子でつぶやき始めた。
(私は五年前にこの会社に入社した時から… 自分はIPという技術者だって気持ちが、すごく強かったかも知れない…。お茶汲みOLとは違うんだって思ってた。男を見つけてやめていくキャピキャピどもを軽蔑してた。あんたたちとは違うんだと思ってた…。)
 男女平等。雇用均等。そんなものを本当に信じているのは、就職活動前の学生だけだろう。現実は違う。全く違う。同期で入った同い年の男女が一つのプロジェクトに加わった時、メインの仕事は例外なく男に行く。それはおかしいと反論しても、ヒステリーだね、いや生理じゃないの、と、下卑た笑いに葬られるだけだ。
 しかし、である。由布子は思う。女が軽く扱われるのは女のせいでもあるのだ。男が買い手の市場において、自分に高値をつけるテクニックを、女たちはそうたやすく手放さない。仕事においても結局は、男より引いた立場を自分で選ぶ。弱い方が喜ばれる。その特権を一番よく知っているのも女なのだ。由布子はそれを狡いと思った。技術を盾に、自分は、決して男より下がるまい。そう思って仕事をしてきた。
(IPとして、客と対等に張っていけるだけの知識が、何よりも私は欲しかった。だからその知識を持っている大塚さんに、あんなにも魅かれたんじゃないだろうか。自分のプランに、箔をつけるためのデコレーション。専門用語のカッコよさ。…そんなものだけ、追っかけてたのかも知れない…。)
『床がああだとか窓がこうだとか、そんなことにばかり目が行っちゃうからいけないわけよ。』
 ああ、まるで私のことだ。床がああだ壁がこうだ、テーブルが椅子が、どうだこうだと。私は高杉の、いったい何を知っている? 火の鳥が運命? 自惚れにもほどがあるぞ菅原由布子。ログハウス風の渋いナチュラル? なんだその絵に描いたモチは。高杉に似合うのか? 新橋の店を誉めてくれた拓に、応えられるだけのプランニングをしているとでもいうのか?
(拓…!)
 由布子は立ち上がった。CAD室を飛び出して自席へ走った。アドレス帳に、はさんだメモの切れはし。RVの中で拓が書いてくれた携帯の番号がそこにある。彼女は電話に手を伸ばし、プッシュホンで彼の文字をなぞった。
 コール音が始まった。一回、二回。彼は今どこでこの音を聞いているのだろう。三回、四回、五回。由布子は電話機の横の小さなマスコット時計を見た。二十二時四十八分。まさかまだ眠ってはいないだろうが…。七回目が鳴る直前、
「はい、もしもし?」
 拓の声だった。あわてて出た様子が伝わってきた。
「もしもし、ごめんなさい、何かしてた?」
「…あれ、由布子さん? そうだよね。」
「あ、うん。そうだけど…」
「なに、今どこ? もしかしてまだ仕事してんの?」
「そう、まだ会社。」
「へえ、こんな時間までやってんだ。大変じゃん。」
 拓の声にかぶせてその時、なじみのある発車メロディが耳に届いた。ドアが閉まります、のアナウンスもはっきり聞こえてきた。
「あら、ひょっとしたら電車の中?」
「ん? いや乗ってたんだけど、もう降りたから大丈夫だよ話してても。じつは今さ、バッグに携帯入れたまんまで居眠りしてたんだよね。どっかでピピピ、ピピピって鳴ってて、誰だようるせーな、早く出ろよ、とか思ってたら、俺だった。」
「じゃあ、途中下車させちゃったんだ。ごめんね。」
「いや別に、全然。」
「どこで降りちゃったの?」
「ここ? ここはね、大崎。大崎駅の、渋谷方面行きのホーム。」
「大崎?」
 それはまた、ずいぶんと近くではないか。由布子の声は真剣になった。
「ねえ、今から一時間くらい、時間とってもらえない? 聞きたいことがあるの。高杉さんのお店のことなのよ。どうしても教わらないと進めないの。」
 突然の話に驚きもせず彼は、
「ああ、俺はいいけど。どうせ帰って寝るだけだし。由布子さんこそすぐ出て来れんの?」
「ええもちろん。」
「じゃあねえ、どうするかなあ。…そうか、由布子さんどうせ渋谷だよね。じゃあ渋谷で待ってるわ。」
 拓はそのあと、駅で待つと言ってくれたが、由布子は『花籠』を指定した。すでに大崎にいる彼のリード分を考えると、どんなに急いでも十五分は待たせてしまう。今夜はまた、一段と冷え込みがきつい。駅では風邪を引くに違いなかった。

第1部第1章その9へ
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