【 9 】

 電話を切り、CAD機をシャットダウンして、彼女は会社を出た。建物はすべてオートロックなので、戸締まりをして回る必要はない。早足で、さらに時々走って駅に着くと、タイミングよく電車がやって来た。さすがの山手線も十時を過ぎれば多少間隔があくのだが、一分と待たなかったのは幸運であった。
 『花籠』は、道玄坂と玉川通りにはさまれた中央街の奥にある。アルコールが主ではあるが料理にもたっぷりボリュームがあって、団体の隣にさえ座らなければそこそこ話もできる、好都合な店であった。南口を出て東急プラザの脇をすりぬけ、由布子は店にたどりついた。学生とサラリーマンが半々くらいの店内に、足を踏み入れるなり彼女は拓を見つけた。髪を束ね、黒を着ているせいか、この前会った時よりも一層、体つきがしなやかに見えた。
「ごめんね、けっこう待たせちゃった?」
 由布子は言いながら椅子を引き、座った。彼は煙草をもみ消し、
「いや。ほんの十分くらいだよ。」
 灰皿を見たので伏し目になったその顔を、天井から丸く光を落とすライトが照らしている。今夜の彼は、ひどくアカデミックな雰囲気だった。
「もう食事は済んでるの?」
「うん、バイト終わってから、いちおうね。由布子さんはまだなんでしょ?」
 由布子はうなずいた。六時過ぎにインスタントのカップスープを一杯飲んだだけで、ずっとCADにはりついていたのだ。彼女はウェイターにパエリアとバドワイザー、拓はマリネとバン・ムスーを注文した。
「きょうね、夕方からずっと積算してたの。予定ではきょうか明日で実施設計まで終わるはずだったのよ。それなのにどうしても総合計が予算におさまらなくて、また一からやり直し。それでね、となりの部の先輩なんだけど、その人に話を聞いたらね…」
 彼女はスプーンにパエリアをのせ、飲み下しては話し、話しては飲み下した。さすがに子供の頃からうるさく言われた『口にものを入れたまましゃべってはいけません』の教えは破らなかったが、話したいこと、聞きたいことに対する思いは拓に電話した時からおさまってはおらず、由布子はつい早口になった。拓は、脚の長いタンブラーを口もとに持っていったまま、彼女の様子を見ていたが、
「ねえ、話はちゃんと聞くからさ、…それ、とにかく食べちゃえば?」
 最後の方で軽く吹き出し、
「なんかさ、きょうの由布子さん変だよ。なんかあった? さっきの電話でもさ、こう、…変に気負ってるっていうか、興奮してるっていうか…。」
 確かにそうかも知れない。由布子は体を起こし、口の中のものをゆっくりと噛んで、鼻だけで深呼吸した。拓はおかしそうにそれを見ている。新井に、自分の欠点をバチッと教えられたせいで、身の置きどころなく浮き足立ってしまった。べつに新井は由布子を責めたわけではなく、おのれの経験を語ってくれただけなのだ。我ながら落ち着きがなかったな、と由布子はバドワイザーで胸を鎮めた。拓はシーフードをフォークに刺し、口に運んでいる。年下のこの青年に、まるで妹にでも言うような感じで諭されてしまった。
(そういえば…)
 由布子の頭は、全く別のことを考えた。
(この人、いったい幾つなんだろう。)
 パッと見は二十四〜五歳というところだが、数日前長屋門で耳にした陽介との会話に、一つだけひっかかるものがある。陽介は拓が、すごい大学に入った云々と言っていた。それに対して彼は、一年でやめた旨を口にしたのだ。普通高校三年で十八歳だから、大学へ一年行ったとすると十九歳。一浪くらいしたとして二十歳。そうすると、今二十四としてあとの四年間、いったい何をしていたのだろうか。
 マリネの皿から、拓は顔を上げた。見つめていたので由布子は彼の視線と出会った。彼は苦笑し、
「こんどは何だよ。…ほんとに由布子さんどうかした? もしかして疲れてるんじゃない? こんな遅くまで仕事して。」
「え?」
 由布子は我に返った。
「え、…ううん、仕事で遅いのは慣れてる。それは平気だけど。」
「ほんとに? 無理はしない方がいいよ。体こわしたら何もできないんだから。…つって、忙しくしてんのは俺か。あんまり偉そうなこと言えないね。」
 やがてウェイターが皿を下げに来た。二人はそれぞれバーボンのソーダ割りを追加した。由布子は、意識して肩の力を抜き、なぜ会いたかったのか、その理由を彼に話した。
「…ハードじゃなくて、大事なのはソフト。高杉さんがやるんだから高杉さんに似合う店にしなくちゃだめ。考えてみれば当たり前なのに、私全然気づかなかった。そんなこともわからないで何がプロだ、って思ったら、いてもたってもいられなくなっちゃって…。だから、遅まきながらだけど、高杉さんのこと教えてほしいの。本人に聞けばいいのかも知れないけど、突然『今晩は』って尋ねて行って、あなたはどんな人ですかって聞いたら変でしょう。」
「うん、そりゃ久さんびっくりするよ。」
 拓はグラスを持ち上げた。キュービックアイスの回りに細かくつきまとう泡が、酒といっしょに彼の口に流れ込んでいった。
「ね、高杉さんて、もともと東京の人なの? あそこは買った、って言ってたわよね。」
「うん。…俺もね、そんな昔っから知ってるわけじゃないんだけど。ああ、でも、もう四年? …かれこれ五年になるのかな。へえ、けっこうたったんだ。」
 独り言めいて彼は言った。彼の年齢に対する先程の勘定からいくと、ちょうど大学をやめた頃に知り合った計算になる。
「久さんてね、船乗りだったんだよあの人。」
 拓はいきなり、意外な経歴を語った。
「船乗り?」
「うん、外国航路の船の、エンジニアだったんだって。横浜とか神戸から、けっこうあっちこっち、世界中回ったんだって。俺もさ、最初『マジかな…』ってちょっと疑ったんだけど、久さん、あんな小柄で痩せてんのに、めちゃくちゃ喧嘩強いんだ。ほら、こないだ話したっけ、陽介の奴、就職した会社飛び出してあっちこっちフラフラしてて、新宿でボコボコにやられてっとこ久さんに助けられたんだよね。そん時に久さん、一人で男五人のしちゃったんだって。」
「男五人…? ほんとに?」
「うん。やられてた陽介が言うんだから、ほんとだと思うよ。」
「へえー…。全然そうは見えないけど…。」
「でしょ。それにね、ボディ・ランゲージで誰とでも話しちゃうんだ。こっちが無理してカタコト話すから、相手は通じると思ってまくしたてるんだって。むこうが英語なんだから、こっちはガンとして日本語しゃべった方がいいんだってさ。」
「なるほど、それはそうかもね。」
「俺、いっかい見たことあるんだ、久さんがガイジンと話してるとこ。なんかね、羽田はどうやって行くんだって聞いてるらしいんだけど、相手が『Where?』とか言ってんのに久さん、『あんたは、どこいきたいの? あん? ど・こ・い・く・の? えっ?』てさ、すげえハキハキ質問してんの。そばで見てて笑っちゃった。でもって最後にさ、むこうも何とかわかったみたいで、『ドモ、アリガトウ』とか礼言って握手求めてきたら、久さん、『Oh、not at all! Good travel、チャオ!』だって。」
「うまーい、相手が日本語で来たら英語で返すわけね。」
「うん、ほんとうまいよ。ああいうの見てると、あ、この人ほんとに世界中回ってたんだな、ってわかるよ。物怖じしないんだよね、言葉以前に。」
 こういった調子で、拓は次々と、面白いエピソードを聞かせてくれた。
 船員時代高杉は、同じ船の仲間うちで、一番女にもてた(らしい)こと。男ばかりで長いこと航海していると、多少いけない雰囲気になってくることがあるが、そんな時でも高杉は、次の港にいる女のことを考えるだけで、けっこう楽しんでいたこと。いちど麻薬の運び屋をやらされそうになって、断るのにひとほね折ったこと。奥さんは長崎の人で、コケティッシュな美人であること。その奥さんと一緒になるために、高杉は船を降りたこと…。
「久さんね、奥さんには頭上がらないんだ。多分、世界中で一番おっかない相手じゃないかな。もちろん、一番大切な人でもあるし。」
「ふうん…。」
 由布子は二杯めのグラスをあけた。うっすらと、かすかにしのびよる酔いの気配とともに、ぼんやりと新しい店のイメージが浮かびかけていた。海。テーマは海か…。
「でも高杉さん…久さんて、もう二度と海には戻らないの?」
 由布子は聞いた。高杉の胸に、消そうとして消せない回帰の思いがあるとしたら、それを思い出させるようなデザインは、逆効果であり酷かも知れないからだ。だが拓は即座に、
「戻らないって言ってるよ。船乗りって、こうやって話してる分にはカッコいいけど、実際はやっぱ体力つかうし、歳とってまで続けるのは大変だって言ってた。ほら、お金ためてさ、船長とかになっちゃえば別だろうけど、久さんあの調子じゃん? あんまりお金とかたまんない性格だと思うよ。」
「あ、それ、同感。」
 由布子は氷だけになったグラスをウェイターに示した。拓のグラスにはまだ一口分ほど残っている。拓は少し大きな目をして、
「由布子さんて、お酒強いよね。」
「あたし?」
「うん。こないだもさ、『裏長屋』で顔色ひとつ変えないで飲んでたでしょ。」
「顔色って、いやだ、そんなに変わるほど飲んでないわよ。」
「いや、変わる奴は変わるよ。テレビでやってたけど、アルコール分解する酵素には二種類あって、ひとつも持ってないのが下戸で、両方とも持ってる人は顔に出ないんだって。」
「あなただってちっとも変わらないじゃない。」
「うん、まあ俺もさ、弱い方じゃないとは思うけど、…なんか由布子さんには負けそうだな。」
「そんなことないわよ。」
 由布子はウェイターのトレイに、あいたグラスを交換で置いた。
「あ、じゃあ俺ももう一杯だけ…」
 拓はカラン、と氷を鳴らして残りをあけ、腕を伸ばしてウェイターに渡した。その時、腰をずらした拍子に、彼の椅子からバサリと何かが落ちた。二人は同時に床を見た。クロッキーノートのようだった。
「いっけね。」
 拓は体を屈めて拾い上げた。
「それ、何?」
 由布子は尋ねた。裏、表と表紙をひっくり返していた彼は、
「あ、これ?」
 手を止めて彼女を見、ほんのわずか考えてから、
「…見る?」
 ゆっくり、テーブルごしにそれを差し出してきた。由布子は受け取って、一枚目を開いた。
 静物画…いや違う。ディスプレイ・デザインでもなさそうだ。2Bくらいの濃い鉛筆線で、花瓶と、そこにいけた花つきの枝と、バックにあしらわれたオブジェ風の物体が描かれている。影をつけ質感を変えているところは静物画の手法そのものだが、ただ明らかに違っているのは、枝、および花のわきに矢印で名称が書き込まれているのと、背景のオブジェに、縦横のサイズと色番が記入されている点であった。                            
「きょうね、俺、スクール行った帰りだったんだ。」
 彼は言った。視線で示された裏表紙を見ると、『Takaaki Kuzuu フローラル・アート』のマークが入っていた。
「葛生高明のスクール行ってるの!」
 その名は由布子も知っていた。有名なフラワーアーティストである。洋蘭の大展示会でメインホールのデコレーションを手掛け、協会美術賞を獲得した男である。業界誌に写真がでかでかと紹介されていた。
 由布子は描かれたスケッチと、正面の拓とを目で往復した。彼がなぜ日比谷フラワーセンターにいるのか、おぼろげながらわかるような気がした。そしてそれは当たっていた。彼は続けて次のように言った。
「俺さ、今はフラワーアート習ってるけど、最終的には、スペース・アーティスト、…やりたいんだよね。」
 スペース・アーティスト。言い換えれば、空間を総合演出するデザイナー。建築家とも違う、もう少しトータライズされた意味合いのデザイナーである。ホールなりウィンドウなり、また町並み全体といった広い空間なりを、ある一つのコンセプトに基づいてクリエイトしていこうという、新しい概念のアーティストである。もちろん建築やインテリアとの縁は深いし、ファッション、音楽、伝統美術も無関係ではない。ある空間を、建築やファッションや音楽といった異なる要素で総合的にデザインするには、既存にとらわれないドラスティックなセンスとともに、あらゆる応用に耐えるだけの確実な基礎知識が必要になる。その一つが『花』…。彼は今、それを学んでいるというのだ。
「葛生高明のスクールなんて、人気あるんじゃない? 入るの大変だったでしょう。」
 尋ねつつ由布子は二ページめをめくった。今度は、五線紙に並ぶ音符さながら、さまざまなミニ容器にさされたスイートピーの行列が描かれていた。
「ああ、そうらしいね。…俺、ちょっとコネがあったから、わりとすんなり入れた。」
「私は本で特集されてるの読んだだけだけど、何だかけっこう面白い、ちょっと他ではやらないようなデザインのコースもあるんでしょう?」
「うん、俺が今やってんのがそれ。『アレンジメント・ディレクティング』。」
「何だっけ、素材を指定されて、これこれを使って何々を表現しろ、とか言われるって…」
「うん、そういう課題があるんだ。こないだなんてね、参っちゃった、『向日葵を使って夜を表現しろ』…向日葵でだよ。あの真夏の向日葵。あれでどうやって夜を表現しろって言うんだよ。」
「へえ、面白そうね。」
「あとはね、薔薇を使って雪を表現、とか、コスモスで雨上がり、とかだね。いきなり素材使うんじゃなくて、最初はそんなふうにイメージ描いて、葛生先生に見せるんだよ。それでアドバイス受けて、OKもらった奴だけ実際に作れんの。難しいよ。三回に一回くらいしかOKくんないもん。」
「へえ…。」
 由布子は一枚ずつ丹念に拓のデザイン画を見ていったが、
「あっ、これステキ。」
 ある一点を見て思わずそう言った。斜めに張った紗の布を背景に、撫子とデルフィニウムをガラス瓶にあふれさせ、手前に紙風船と折鶴を配した作品だった。色鉛筆で部分的に彩色されてい、拓のものではない字でコメントが記入されているのは、葛生高明の添削であろう。
「あ、それね。」
 拓も笑って、
「それ、けっこう気に入ってもらった。『遠い記憶』ってテーマでね、実際に作らしてもらったんだよ。」
「ふうん、素敵だったでしょうね。撫子とデルフィだったら両方ともパステル調の柔らかい色よね。一種類で青のグラディエーション作れる花はデルフィしかないって、確か高橋永順さんが言ってた。」
「うん。青い花って、やっぱ他の色に比べると少ないよね。どっちかっていうと野生の方に多い気がしない?」
「あ、そうそう。いわゆる野の花の方が多いかも。つゆくさでしょ、桔梗でしょ、矢車草に、それに朝顔? 朝顔は生け花やアレンジにはあんまり使わないわよね。」
「うん、切ったら最後、二時間もたないよ朝顔は。薬使ってもだめだってね。だいいちこのアレンジメント・ディレクティングの絶対条件に、薬とテープと芯の針金は使わない、っていうのがあるんだ。」
「へえ、そうなの?」
「うん。切ったり折ったりバラしたりすんのは構わないけど、いったん落とした蕾を別んとこにテーピングしたり、茎に針金通したり、スプレーもカラーリングもバツ。なるべく素材のままでアレンジしろって言われるよ。俺もその意見には賛成だけど。」
「うん、そうね。針金で形作っちゃったら、花でやる意味がないわよね。」
「そうそう。つまりそんなふうにさ、ある空間を、花を使って、…他のもんじゃない、花を使ってどう構成するか、演出するか、それを考えなきゃいけないんだよね。このコース、週に二回なんだけど、けっこういろんなとこから受講者集まってて、みんなそういう『表現』ていうのを考えてる人ばっかなんだ。美容師とか、洋服のデザイナーとか、劇団の舞台演出やってる人、和菓子屋さん、それにダンス教室の先生もいるよ。いろんな業界の人がわーって集まった感じで、話してるだけで面白いんだよね。」
「じゃあいい勉強になるんじゃない? スペースアーティストなんていったら、感性の他に情報量が勝負ってところもあるでしょう。」
「うん、それと基本がね。葛生先生にさ、俺、基礎があるとないじゃ大違いだって言われて、今まじめに、…華道も習ってんだぜ。」
「えっ、お花もやってるの?」
「やってるよ。純・正統派の池坊。柳とかこうやってタメて、ここにシン、これがソエ、…って。」
 拓は背筋を伸ばし、枝を剣山に刺す動作をしてみせた。由布子はその仕種を見つめた。匂い立つほどの藍染めの和服も、この青年にはさぞや似合うことだろう。
「次はお茶もやった方がいいかなって、ちょっとマジで考えてるんだ。…あれっ、何かおかしい?」
「ごめん。だって趣味は何ですかって聞かれたら、お茶とお花って答えるのかなって思ったら…」
「カッコいいじゃんすごく。それにお茶ってさ、建築やるんだったら避けて通れないでしょ。」
「まあ、それは確かね。私も形だけはやらされたかな。」
「あれっ、それじゃこんど教わろうかな。」
「いやだ、人に教えるほどは知らないのよ。」
「それでいいって。正式に習う前のオリエンテーション。」
 拓はバーボンのグラスを両手で持ち、底に片手を当てて、
「こうやって、…どっち回すんだっけ、こう?」
「ちがうちがう逆。奥から、手前。」
「こっち?」
「そうそう。二回半手前に回して、器の正面がむこうに向くようにして、それで飲むの。」
「こう、か。」
 うやうやしく、彼は中身を一口飲んだ。グラスから離した唇が、濡れていた。お茶席では皆、同じ器に口をつけて飲む。九十度ずつ飲み口をずらし、指でぬぐい懐紙で拭くとは言っても、考えてみれば茶道とは、伝統的な間接キスの場なのだ。由布子は拓の唇を見ている自分がまばたきをしていないことに気づき、あわてて話題を変えた。
「でも、まあ、あれね。確かに基本は大切だけど、必要なものを全部一から習うのも大変なんじゃない? ひょっとしたら一生かかるわよ。」
 クロッキーノートを閉じて返すと、彼はそれを受け取って、こともなげに言った。
「うん、かかるだろうね。まだまだやることいっぱいあるし。…でも俺、まだ二十四だから、この先十年かかったって三十四じゃん?」
 二十四歳。やはり三つ年下か。
「でね、お花とお茶が一通り終わったら、今度は建築と、由布子さんとおなじインテリア・プランニングの勉強始めようと思ってさ。最低でも二級建築士は取らないと通用しないでしょ?」
「まあ、二級はどうしてもね。だけど建築士は受験資格があるでしょう。専門学校行くか、でなきゃどこかの建築事務所で7年間もバイトしないと…」
 話していて由布子は、いきなり思い出した。高杉の店でバイトに来いと誘われていた時のことだ。
「ねえ、もしかして、来月出展するって言ってたのは…」
「え? 何?」
「ほら高杉さんのお店で言ってたじゃない、来月一つ出展する予定だって。あれはもしかして、この葛生高明のスクールの…?」
「あああれね。うん、そうそう。スクール内の製作発表会。内輪は内輪なんだけど、先生が有名だから、雑誌とかも取材に来るんだ。三つのテーマの中から好きなの選んで、先生にOKもらったら出展していいんだよ。『彗星』かね、『春の夜の夢』か、あと一つ、『走る雲』。彗星で一つ、ベースデザインのOKもらえたんだけど、いま一歩、何か足んなくてさ、実は俺も、今ハマッてんの。きょうもずっと教室残って、ディティール詰めてたんだ。」
「そうなんだ。…彗星って、ヘール・ボップか何かのイメージ?」
「あ、やっぱそう来るか。」
「違うの?」
「…っていうか、それだとありきたりじゃん? 連想ゲームで彗星、って言ったら、今じゃたいていの人がヘール・ボップって答えるよ。だからね、ちょっとひねって、彗星が通り過ぎた後の忘れ物を表現してみようかと思ってさ。ちょっと変わってるでしょ。」
「忘れ物…」
「うん。彗星がね、何億光年の彼方からこう、ザーッて来てさ、太陽に近づいて、尾っぽ引いて、またずっと遠ざかっていって、そのあとに、キラキラッて光ってる尻尾のかけら?」
 拓の言葉は由布子に、天文写真で見た大彗星の姿を思い出させた。白く輝く頭と、光の粒子をはけで刷いたような長く薄い尾。通り過ぎた後にはおそらく、白金に光る真砂が残るのだろう。凍った道に朝日が当たると、コンクリートのあちこちで氷の結晶が煌く。夕べこの道を通ったのは、夢の中を走ったあの白い彗星なのだろうか、と。
「…彗星そのものじゃなくて、あとに残った星屑で、より鮮やかに本体を表現する、ってことね。」
 由布子は言った。星のイマジネーションを語るうちに、並行して高杉の店のイメージが、すう…っと一本の糸にまとまっていった。それは、有機物をとりこんで成長する微生物が、徐々に立体化し、色彩を帯び、やがて歩き出す過程に似ていた。
(そう、船がいい。高杉さんの心の中の船を表現してみよう。高杉さん自身が『この店は俺の船なんだ』って思える店を作ろう…。)
「どうしたの。」
 グラスを握って目を輝かせている由布子に、拓はまた尋ね、そして言った。
「なんか、豪華な笑顔だったよ今…。」

第1部第1章その10へ
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