【 10 】

 その晩、由布子は眠らなかった。
 『素材を使って何を表現するか』。拓と交わした会話は由布子の頭に、夏雲にも似たエネルギーを吹き込んでいた。彼女はテーブルの上を全部片付け、まっ白いA2の用紙をいっぱいに広げて、思い浮かぶものをそこにどんどん描きこんでいった。
 テーブルと椅子は現状のものをそのまま使う。床には青いペンキを、わざと素人くさいムラを作って塗る。いっそぶちまけても味が出るかも知れない。壁にはハンモックに見立ててざっくりした網を貼り付け、天井の一部からシュラウド(横静索)を垂らす。帆船を連想させる遊び心だ。ランプシェードはでこぼこの銅製。安物の方が本物っぽいだろう。あまりにも単純明快なアクセントは一切置かない方がいい。例えば海図やマドロスパイプのたぐいだ。あとは食器類も、銅やアルマイトなどの荒っぽい感じで揃えたいが、…高杉はどういうわけだかブランド好きだ。ロイヤルドルトン、ミントン、リチャードジノリと集めたら、店に出したいのが人情だろう。
(ま、アンバランスでいいかもね。ギシギシ揺れる船室で、お気に入りの高級カップで一人楽しむコーヒータイム。…すごいミスマッチ。すでに高杉ワールドよねこれは。)
 ペンを走らせ、走らせ、走らせ、由布子は高杉の生きざまを、短編小説のように想像してみた。痩せて小柄で、猿のような風貌の彼は、由布子のプランニング世界でだんだんと、魅力的な愛すべき男に化学変化していった。浅い酔いが通り抜けたあとの、創造力を刺激されて興奮した脳は、普段ではちょっと思いつかないような大胆なひらめきを、紙の上にいくつも生み出していった。
 海のイメージ。船のイメージ。鴎の声。ローリング。皮膚にしみつく濃い潮風。リニューアルした新しい店で、たくさんの客の間をいきいきと動き回る高杉の姿を、由布子は、朝日に透け始めたカーテンの銀幕に映し出した。
 客は常連も新顔もみな、まるでキャビンの床に好き勝手に寝転がっているかのようなくつろいだ表情をしている。中には拓も、陽介もいた。拓はクロッキーノートを膝に広げ、次の出展のためのデザインを考えていて、陽介は現場施工図を見ながらピザをかじっている。拓は彼女の姿に気づき、軽く手を上げて呼んでくれるのだ、由布子さんこっちだよ、と…。
(画家が描いたのは船でした…)
 由布子は無意識のうち、読んだことさえ忘れていたエッセイの一部を唇に昇らせた。誰の、何という本だったかまるで覚えていないが、『創作』とはこういうことかと、妙に感動した記憶があった。葛生高明のスクールで拓が学んでいるのも、この『創作』のための一つの手段なのである。
    画家が描いたのは船でした。
    でもその絵は、観客にはただの海の絵に見えました。
    画家は説明をしませんでした。
    ある日やってきた一人の客は、その絵に船を見たのです。
    その客自身の心の中に、浮かんでいた船を。
 
 ベランダで鳴いているのは、波に舞う鴎ではなく、都会に生きぬく小さなたくましい命の群れ、スズメたちだった。由布子はペンを置いた。右手の中指に感覚がなかった。目の奥が痛んだ。口が変に乾いて胃が重かった。彼女は両腕を伸ばしてあくびをした。時計を見ると六時である。午前中は休みにしようかな…と考えて、由布子は小声で叫んだ。
「やばっ!」
 すっかり忘れていたがきょうは、十時から溜池の日本料理店で着工前打ち合せがある。契約は済んでいたが、実際の工事に入る前に、ドアの引き手の位置から障子紙の品番まで、細部にわたりクライアントの承認をもらう重要な最終打ち合わせだ。
「しまったっ!」
 由布子はローボードに手を伸ばし、メイク用の卓上ミラーをつかんで目の前に持ってきた。
「まずい…。」
 瞼ははれ、目がくぼんでいる。もちろん肌はカサカサだ。二晩徹夜しても平気だった学生時代は、当たり前だが遠い過去になっていた。
 
 徹夜疲れをなんとかメイクで誤魔化して、由布子はクライアントとの打ち合わせにのぞんだ。こちらは由布子一人だが相手は、オーナー社長と女将と計理士の三人だった。きのうと今日の区切りのない、オーバーヒートぎみの頭は、ケアレスミスを犯しやすい。由布子はそのことをよく知っていたから、いつも以上に細かくメモをとった。
 図面とサンプルをもとに定石通りの説明をし、一つ二つの手直しがあって、由布子が図面に赤鉛筆で修正を記入している時だった。社長の綿貫は、太った体を椅子に押しつけるように座って、レジ横の待合いスペースのイメージ図を眺めていたのだが、
「これ、だけどなあ。ちょっと、洋風すぎやしないかな。」
 そのしゃがれ声に、由布子は顔を上げた。女将は社長の手元をのぞきこみ、
「あらそうですか? 私はいいと思いますよ。和洋折衷で、今風で垢抜けてますよ。若い人にも入ってもらおうと思って別館を改造するんですから、あまり日本日本してるよりこの方がいいわ。」
「うーん…それはそうなんだけどな…ただもうちょっとね…どこか一箇所だけ、『和風!』ってとこがほしいじゃないか。」
 由布子は赤鉛筆を置き、綿貫の見ているものと同じ資料を、図面の上に出してみた。
 丸テーブルに革のソファー、大理石の飾り棚に花をいけられるスペースをもうけてある。純日本風の活けこみをすれば和風に、トロピカルフラワーを飾れば洋風にと、どちらでも映えるよう考えたのだが、確かに何も飾らない素の場合には、日本料理店らしさがどこにもないかも知れない。
「このへんにな、丸窓でもつけてもらって、桟をはめこんだらどうかね。」
 綿貫は図面の上を、ころころした指先で撫でた。女将はそうねえ、とつぶやいたが、反対隣の計理士は、
「あんまり凝ったことして、お金かけないで下さいよ社長…。うちは決して、左うちわじゃないんですから。」
「んなこた言われなくてもわかってるよ。俺が一番身に沁みてるんだ。」
 由布子と女将はクスッと笑った。社長の言いたいことはよくわかった。あまり大きな変更でなく、どこかにもう一点、日本情緒を感じさせるものを加える。由布子はCADパースを見て考えた。日本を感じさせる存在を、どう表現すればいいだろう。
「わかりました、考えてみます。」
 彼女は話を引きとって答えた。社長の希望はそれだけだったらしく、以降はむしろ計理士からの、費用的な確認がほとんどであった。
 打ち合わせが終わったのは午後一時半だった。十時からぶっ通し、三時間半の長丁場だった。
「まあまあこんな時間まで、大変お疲れさまでした。」
 時計を見上げて女将は言い、
「社長、このままお食事にしませんか。ねえ、お昼も抜きで、きっと菅原さん、おなかすいてらっしゃるわよ。」
 今にも調理場へ内線を入れそうな女将を、由布子は腰を浮かせてとどめ、
「いえいえ、お言葉だけ頂戴します。申し訳ありません、ちょっと用がありまして…。」
 徹夜明けの胃を、漢方胃腸薬でなだめている今、まともな食事ができるはずはない。咽喉を通るのはせいぜいお茶だけだろう。クライアントの好意を辞して、由布子は店をあとにした。
 道の途中で、彼女は眩暈を感じた。足元がふわふわしている。血圧が下がっているかも知れない。早く会社に戻らないと、貧血で倒れる可能性がある。由布子はタクシーを停めた。千円、二千円をけちっている場合ではなかった。駅長室に担ぎこまれる騒ぎは避けたい。彼女は運転手に芝浦と告げて、シートにもたれ目を閉じた。
(日本風な何かって、どうしようかなあ…。)
 彼女は思案した。綿貫が言ったように、壁の一部を切り取って丸窓をはめこみ、竹製の桟を付ければ、しっとりとした和風情緒を出すことができるだろう。しかし計理士は言った、あまり追加費用を出してくれるなと。高杉といい今の店といい、世の中不景気なのである。
 もちろん景気にかかわらず、『金はいくら使ってもかまわない』という仕事はめったにない。いや現実においては、絶対にないと言い切ってもよい。IPは常に予算と創作意欲を両天秤にかけている。予算という制約を受ける、それがプロの仕事なのだ。
 『船乗り』も同じだ。言葉で言うぶんには何だか粋で格好いいが、実際に船乗りで一生食べていくのは、そんなにたやすいことではない。夢物語と現実の差である。ドラマや小説で『インテリア・プランナー』だの『建築家』だのというと、ひどく現代的な、トップレベルの職業に思われがちだけれど、実際の由布子の仕事は、毎日が費用との戦いなのである。
 会社が近づいてきた。由布子はバッグを開けた。胃薬と目薬が入っているため普段より中身が多かった。サイフを探して手を入れたが、いつもの場所にそれがない。彼女はあわてて中をかき回した。
 ガサッ、と何かが指に当たった。つまみ出すとそれは、放り込んであったのでだいぶよれていたが、長屋門で陽介が折っていた、割箸袋のオブジェであった。この忙しい時にこんなもの、とバッグに戻しかけて、由布子はその手を止めた。
 非常に、日本的だ。
 表面が少し毛羽立った感じの和紙で作ったら、柔らかく光を散らす障子のような雰囲気の、品のよいしつらえができる。西洋の建物は『石の文化』といわれ、比べて日本は『木と紙の文化』と称される。石は光をさえぎり、濃い闇を作る。紙という素材にそれはできない。ただ、どんな強い光でも、障子を通すと性質が一変する。石と違って木と紙は、異質なものを拒絶しないのだ。自分の中に取り込んで、いつのまにか相手を変えてしまう力を持っている。和紙のオブジェ。これはいけるかも知れない。
 タクシーは会社の前で停まった。サイフはバッグの底にあった。彼女は車を降り、建物に入って、フロアの自席へ急いだ。
「お帰りなさーい。」
 迎えてくれる声に答えつつ、由布子は座るなり受話器を取った。かける相手は紙工芸の専門業者、『竹輪屋』であった。

第1部第1章その11へ
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