【 11 】

 その夜由布子が眠ったのは、けっきょく夜中の一時だった。
 竹輪屋の担当者を電話で呼んで、由布子は陽介の作品を見せた。飾り棚の壁面いっぱいに、上質の和紙で作ったこのオブジェを貼りつけ、左右下方からライトアップする。それが彼女のひらめきだった。
 上質とはいえ素材はつまり紙であるから、防火加工をほどこしても価格はたかが知れている。ライトはごく小型のものでよい。従って追加費用は、きちんと利益をもらっても三十万で足りる。計理士はホッとするだろう。
 由布子はベッドに入って考えた。このアイデアは陽介がくれたのだ。何かお礼をしなければなるまい。着るものがいいか、他にほしいものがあるだろうか。また拓に聞くことができてしまった。それから高杉の店のプランは、あとは積算して金額を出せば…。
 そこまで考えるのがやっとだった。由布子は泥のような眠りに落ちた。
 
 毎日三〜四時間ずつしか眠らぬまま、一週間が終わった。
 陽介のオブジェを壁飾りにする提案を、綿貫も計理士も大喜びしてくれた。アイデアにも価格にも文句はないという。いつ着工して完工するかの工事スケジュールについても、何ら変更なく承認を得られた。つづいて実行予算をたて、全ての発注書を切り、業者の工程表を作る。IPはデザインだけでなく工務監理も行わなければならないのだ。
 しかも、その合間に高杉の店のプラン仕上げが入る。この一週間で由布子の体重は、じつに五キロ減っていた。
 金曜の夜、…正確には土曜日の午前二時。部屋に戻った由布子は、留守電に拓の声を聞いた。
「由布子さん? まだ帰ってないんだ。遅くまでお疲れさまです。えーとですね、できたら明日、会いたいんだけど忙しいですか? こないだ話した、スクールの展示会に出すやつについて、見てほしいところがあるんですが。もし時間あったら携帯に電話下さい。無理だったら、いいです。それじゃ、以上です。」
 メッセージは終わった。記録時刻は午後九時過ぎだった。
(もし時間あったら携帯に…って、今からかけるわけにいかないじゃない。)
 草木も眠る、まさに丑三ツ刻。夜型人間にとっては絶好調かも知れないが、昼間バイトしている拓にとっては、迷惑な電話になる可能性が高い。
(明日にしよう。)
 由布子は電話の前を離れた。電話の隣にはプリムラがあった。買ったとき満開だった花茎は現在一〜二輪になっていた。しかしまだ目立たないけれど、葉の間からは次の蕾が、いくつも上がってきていた。
 
 翌日、由布子は十時過ぎに出社し、会社から拓に電話をかけた。
「はい、もしもし?」
 いつもの口調で出た彼は、由布子とわかると、
「ああ、ちょっと待って。どっか車停めるから。」
 そう断って少し黙った。なるほど周囲から入りこんでくるのは車の音だ。交通量が多そうである。
「ごめんごめん、OKだよ。今どこ?」
 しばし後に、彼は言った。歩道の脇にでも一時停車したらしい。
「いま会社よ。高杉さんのお店の最終積算してるの。」
「えっ、そうなんだ。ああ、じゃ今日忙しいかな。」
「ううん、もうほとんど目鼻はついたから。おかげで今週はひさびさに目が回るほど忙しかったけど。」
「ふうん。…なんかさ、どうもすいません、って状況だよね。」
「ほんとにそうだぞ、もう。」
 笑いながら由布子は言い、
「ところでスクールの方はどう? 見せたいものがある、って言ってたけど。」
「うん、それなんだけどさ、俺、きょうはこれで日比谷戻ってバイト上がりなんだ。二時とか三時くらいに、どっかで会えない? 車だから近くまで迎えに行くよ。」
「そうねえ…」
 高杉の店の積算は、あと二時間もあれば終わるだろう。食欲はないので昼食を軽く済ますとして、
「二時半、なら大丈夫よ。」
「二時半ね。了解。どこまで行けばいい? 会社の前に行こうか?」
「うん、そうしてくれる? でもこの前みたいに、正面玄関のまん前はよしてよ。もう少し先に行くと、ちっちゃな公園があるから、そのあたりにいてくれるとベスト。」
「ん、わかった。じゃあ二時半にね。」
 由布子は静かに受話器を置いた。
 コーヒーではなくホットミルクを淹れて、彼女は計算書に向かった。
「さて、と。」
 前回は総合計を出そうとして、ここで壁に突き当たったのだ。今回は、概算ではクリアできるはずなのだが、さあいくらと出るだろうか。由布子は電卓を叩き始めた。計算違いをしたら何にもならない。値をぶつぶつつぶやきながら、彼女は全ての数字を打った。
「メモリ、オーケイ。サマリ、イコール!」
 パン、とキーを叩き、由布子は液晶部分を見た。
『1,976,553』
「いち、じゅう、ひゃく、せん、…」
 桁数を数えても、出ている数字は七つだけだ。百九十七万円…。
「やった!」
 誰もいない休日のフロアで、由布子はパチンと指を鳴らした。税込みで二百万を切っている。これなら借り入れの剰余分を、店の運転資金に回すことができる。
 借金は、借りられたからとホッとしてはいられない。返済はすぐに始まる。二十万という差額は小さいけれど、ゼロ円とは大違いだ。新しい店に狙い通り、客が入る保証はない。オープンの月末から支払いにキュウキュウしたのでは、高杉もやる気を失うだろう。兵糧はあるに越したことはないのだ。
 
 午後二時半、図体が大きいからすぐにそれとわかるRVの運転席で、由布子の顔を見るなり拓は、
「由布子さん、痩せた…。なんか、このへんゲソッとしてんじゃん…。」
 心配そうにのぞきこんで言った。
「そんなことないでしょ。」
 由布子は顎を引き、彼の視線を避けた。頬がこけたかどうかはともかく、肌荒れはひどいはずだ。
「体、だいじょぶなの?」
 車を走らせて拓は尋ねた。
「うん、平気平気。」
「ならいいけど…。こないだ久さんに言ったんだ。由布子さん、会社の仕事もだいぶ大変みたいだよって。そしたら久さんも悪がってて、よろしく言ってくれってさ。そんな、仕事に障るほど無理しなくていいからね。」
「別に、無理なんてしてないわよ。これくらい慣れてます。」
「そうかなあ…。由布子さんてさ、変にリキ入れて限界まで頑張っちゃうんじゃない? なんかそんな感じがするな。」
「がんばっちゃう…?」
 由布子はつぶやいた。以前、同じことを言われた記憶がある。ホームイング・エグゼに入社して、新人研修を終えたばかりの頃。比較的気が合って何回かデートした、同期の男子社員が最後に言った言葉だ。
『なんでそんな、肩に力入れるんだよ。女のくせに強がるなよ。さも頑張ってますって感じが正面に出すぎてて、今どき嫌味だぜそういうの。鼻につくつうか、疲れるんだよなお前といると。いちいち張り合ってこられるみたいで。』
「…どしたの。」
 暗い沈黙をいぶかしんだか、拓は尋ねた。
「え? ああ、ううん何でもない。ごめん、ちょっとぼんやりしちゃった。」
 由布子は、ふっ、と息をつき、
「そうね。あなたの言う通り、少し疲れてるかも知れないわね。」
「すぐ帰る? このまま、まっすぐ送っていこうか?」
「まさか。病気ってわけじゃないんだから。話があるんでしょ、出展するやつについて。私もね、ひとつ、疲れなんかどっか行っちゃうくらいのグッドニュースがあるのよ。」
「ほんとに? じゃあねえ…」
 拓は遠くの空を見て、
「よし、じゃあ、あそこ行こう。気分がスッキリするよきっと。」
 彼は楽しそうに言った。いったいどこへ行くのだろうと、考える間もなく車は到着した。おそらく日本で最も有名な展望台のある場所に…。
「確かに気分は爽快だわね。」
 十五年ぶりに上った東京タワー特別展望室の、低い手すりに両腕をかけて由布子は言った。こうして眺めると関東平野はさすがに広い。現代日本の大繁栄を、支えているのはこの広さかも知れない。家康には先見の明があったのだ。穏やかに晴れた冬空のもと、はるか西方に鎮座する純白の霊峰は、たけ低い山々を従えて、みやこの賑わいを見つめているのだろうか。
「昔、できたばっかの頃は、マンモスタワーって呼んでたんだってね。傾いてきてるとかいろいろデマがとんで、関係者は大変だったらしいよ。」
 どこで仕入れるのかそんな話をしつつ、拓は案内板の説明と風景を見比べていたが、
「じつはね…」
 やがて切り出した相談とは、『彗星が通り過ぎたあとに残る金砂子には、雪柳と小手毬のどちらがふさわしいか』であった。白い小花を全身にまとって枝をたわめる点は同じだが、両者は花のつき方が違う。雪柳は枝全体が一つの細長い花房になる。対して小手毬は名前の通り、丸い手毬がぽこぽこと固まって咲く。
「どっち使っても、それなりに雰囲気は出ると思うんだけどね。ニュアンスが全然違うから、どうしようか迷っちゃって…。由布子さんだったらどうする? 絶対どっちかにしろって言われたら、どっち選ぶ?」
 由布子は迷わずに答えた。
「雪柳ね。」
「なんで?」
「うーん…感覚。どっちか一つって言われたら、雪柳の方が好きだもの。たしかに小手毬もかわいいけど…。」
「そう?」
「雪柳って、あの枝垂れた花が満開になると、ものすごく優雅で上品で、豪華でしょう。誰がつけてもあの花の名前は、雪柳になるでしょうね。…でも彗星の忘れ物なら、満開よりは、咲く前の蕾の状態で、一つ二つぽろぽろって、ほころんでる時がいいわね。」
「むずかしいよそれ。温度高いとすぐ咲いちゃう。」
 拓は微笑し、
「でも…そうだね。雪柳の方がいいかな。…うん、よし、決めた! 雪柳でいこう!」
 彼は体を返して手すりにもたれた。
「やっぱさ、一人で悩んでるより、人に相談するとまとまるね。由布子さん、さすがセンスいいし。サンキュ。聞いてよかったよ。」
「やだそんな、センスいいなんて。」
 由布子は首を振った。拓は、ちょっと待って、と言い残し売店に歩いて行った。缶コーヒーを買って戻ってくる姿を、彼女は見守った。お手玉のように缶をはずませ、隣に立つと彼は、一本を由布子に手渡した。
「…んで? 由布子さんのグッドニュースってなに。疲れなんかどっか行っちゃうくらいなんでしょ?」
 コーヒーをすすり、彼は聞いた。
「ああ、それね。」
 由布子は開けかけた缶を脇にはさんで、バッグから無地の書類袋を出し、はい、と彼に差し出した。
「これをあなたから高杉さんに渡して。お待たせしました。ついさっき仕上がりました。」
「えっ! もしかして…あれ?」
拓は表情を輝かせた。
「そう。あれ。」
 彼は受け取りながら自分の缶を由布子によこし、袋を開けた。ダブルクリップで止めた束の、一番上に見積書が乗っている。
「百九十七万…。」
「ねっ、安く上がったでしょ。そのプランで高杉さんがオーケー出してくれたら、すぐに施工にかかれるわよ。」
「すっげえ…。二百万切ったんだ…。」
 拓はガサガサと紙を広げ、立面パースに目を止めた。
「うわあ、いいじゃんこれ! こうなるんだあの店! へええーっ、まるっきり別もんじゃん! このイメージって、もしかして、船? 久さんの乗ってた、船のイメージってこと?」
 彼は即座に気づいてくれた。由布子は深くうなずいた。
「すっげえ! 久さん泣いて喜ぶぜこれ見たら! しかも百九十七万でしょ? 文句ないじゃん! OKOK、絶対これでOK。もう注文なんてあるわけないって!」
 拓は図面をぱしんぱしん叩き、しまったという顔で手を止めた。
「そうかな。それで大丈夫だと思う?」
「思う。完璧。これでいこう。決定。決まり。」
「よかった…。そう言ってくれてホッとした。」
 由布子は首をそらして目を閉じた。これだけ喜んでくれれば、五キロの減量もしがいがあったというものだ。
「ホッとした? ほんとに? じつはけっこう、自信作なんじゃないの?」
 彼女は横目で拓を見た。誘い出すような悪戯な笑顔があった。
「ま、…少しは、ね。」
それを聞くと拓は吹き出し、声を上げて快活に笑った。

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