【 12 】

 二人は駐車場からRVに乗った。冬の日差しは既に淡く、影は長くなっていた。拓はすぐにヒーターをオンにし、
「あ、そうだ。」
 ギヤを入れかけて手を放した。何か思い出したらしい。ポケットから手帳を取り出して、
「ねえ、由布子さんさ、今度の水曜日、夜、ひま?」
「水曜日?」
「うん。もし空いてたらコンサートでも行かない? ご招待するよ。チケットぴあに知り合いいるんだ。そいつの伝手で取ってもらえるから。」
「へえっ、いい知り合いじゃない。何のコンサート?」
 拓はページをめくり、
「えっとね…枠があるのが…リンドバーグと、河相我聞と、海砂利水魚のライブと…」
「すごい選択肢ね。」
 由布子は言った。取ってもらう以上贅沢は言えないけれども、何の関連性もない、バラエティに富みすぎたラインナップだ。
「それとあと…N響の定演? ドボルザークの…交響曲第九番…」
「新世界?」
 由布子の声が弾んだのを、拓はすぐにとらえたらしく、
「えっ、ドボルザーク好きなの?」
「ううんそういうわけじゃないけど…。ただ新世界は好きな曲だから。」
「へえー。じゃあこれにする? 意外だったなN響がいいなんて…。」
「あ、でも、もしあなたが苦手なら、他のでもいいわよ。クラシックって、嫌いな人は嫌いだと思うし…。」
 気を回して尋ねてみたが、拓は、
「いや、そんなことないよ。爆笑問題だったら譲らないけど。それじゃ水曜日の七時にNHKホールでいい?」
「ん、わかった。」
 拓はサイドブレーキを戻した。
「今日のうちにこの見積、久さんに見せるよ。久さんと…あとは陽介にも連絡して、さっそくバイトの調整させないとね。」
 車を走らせながら、うきうきと彼は言った。
「ええそうね。あなたもバイトとスクールの掛け持ちで大変だと思うけど、実現まであと一歩よ。」
「俺なんか大変じゃないよ。一番大変なの由布子さんじゃん。仕事と、それに体と、うまく配分して無理しないようにした方がいいよ。」
「うん、そうね。」
 答えたはものの、そうも言っていられないと由布子にはわかっていた。会社の仕事の手は抜けないし、高杉の方もいい加減にはできない。第一、ペンキその他の材料手配からして、いつものように注文書一枚で済ますわけにいかないのだ。
(仕事っていうのも…いろんな人のネットワークに助けられて、成り立ってるってことか…。)
 由布子は瞼を閉じた。寝不足のせいか、眼球が熱く乾いている感じがした。ただでさえ由布子は眼が弱く、気をつけないとすぐに充血する。
(水曜日…N響の新世界か…。初めてあの曲を聴いた時、ほんとに驚いたっけ…。『山に燃えしかがり火は ほのお今は静まりて 眠れやすく憩えよと 誘う如く消えゆけば…』)
 子守歌のようなメロディーを脳裏に奏でるうち、不覚にも由布子はうとうとしてしまった。予算内に収まった見積作業、大喜びしてくれた拓の笑顔。それらが由布子を放心させた。拓の話に相槌をうっていたつもりが、いつの間にかその声が遠くなり、車の音はフェイドアウトし、眠りはなめらかな下降線を描いて、彼女の意識を包みこんでしまった。
『由布子さん、ねえ、由布子さん。』
 時間の感覚を失った耳に、やがてある声が届いた。かすかだったものが次第に大きくなった。ついに最後の一言は、まともに鼓膜を振動させた。
『由布子さんてば! おい! 由布子!』
 吸う息で返事をし、彼女は飛び起きた。
「あ…ああ、えっ、それで?」
 完全に的外れな返事が口をついて出た。拓は由布子の右肩から手を放し、苦笑いして、
「そんな無防備な顔して寝んなよ。もうちょっとで、あぶなかったからね今。俺だっていちおう男なんだからさ。」
拓はクスクスと笑い、姿勢を直し正面を向いた。
(俺だって…男なんだから…?)
 由布子の頭の中で、その言葉が波打った。波はうねり、たぎち、高まった。わずか二十センチの距離に男の肉体はあり、密室は彼に支配されて走っていた。
「今夜はゆっくりお風呂入って、早く寝た方がいいよ。あしたも仕事だなんて言わないで、お昼くらいまでよーく休んで。ねっ? そうしないとこれからもたないよ。」
「ん…ああ、そうね。高杉さんのお店もさっそく、とりかからなきゃならないし。」
 RVは三軒茶屋から太子堂に入った。一度来ただけの複雑な路地を、拓は正確に覚えていた。アパート前の細い道にさしかかった時、彼は軽く舌打ちをした。
「おいおい、なんだよあの車…。」
 見ると、ぴかぴかのベンツが走って来ていた。ぎりぎりすれ違えそうな道幅はあるが、運転手は中年の女性であった。RVは十分減速しているのに、今ごろ気づいてガクンと急停車している。何とも稚拙な運転技術だった。
「しょうがない、どいてあげますか。」
 拓はギヤをバックに入れた。五メートルほど下がったところに砂利敷きの駐車場がある。いったんそこに退避して、向こうを通してやるつもりらしい。拓は体をひねり、後続車がないことを確認すると、助手席のシートを左手で抱いた。
 由布子の心臓が、音をたてて跳ねた。
 後退するときの当たり前の姿勢だ。教習所でこう教えるだけだ。わかっていてもこの距離と位置関係は、気持ちさえあればたやすく移れる抱擁の形を、想像させずにおかないのだ。
 拓の肩口で、ぱらりと髪が揺れている。由布子は衝動的に、その髪をくしゃくしゃにしたいと思った。両手で彼の頭を包み、襟足から、上へむかって。髪は彼女の指の間をこするだろう。冷たい絹糸。あるいは星の砂。
「よし。無事に回避回避。」
 ベンツをやりすごして、拓は腕を元に戻した。いきなり由布子を襲った暴力的な津波は、幸運にも、かつ悲しくも、引き潮となって去っていった。
「それじゃ、水曜日。七時、NHKホールね。」
 RVのドアをあけた由布子に、拓は言った。彼女はうなずき、
「ロビーで待ち合わせね。」
「うん。楽しみにしてるよ。仕事でキャンセル、は勘弁だからね。」
「じゃあ高杉さんによろしく。」
 返事の代わりに拓は、片手を軽く上げた。
 
 由布子は一人の部屋に戻った。
 靴を脱ぎ、荷物をテーブルに置き、コートを着たままで、由布子はダイニングを抜けた。見慣れたベッドが部屋の隅にあった。彼女はそれに腰を下ろし、あおむけに倒れた。体の芯の、ずっと深いところで、燠(お)き火のように赤くくすぶっているもの…。由布子は両手で、肘を抱いた。
「駄目だよ…。これ以上は絶対まずい…。」
 あえて声に出して、彼女は言った。
「あんな男に惚れたら最後…気の休まる時がないってば…。」
 アジアンタムの向こうからあらわれた瞳。通りの反対側で待っていたRV。笑った顔。不安そうなまなざし。煙草をくわえた唇の厚み。頭ひとつ由布子より背が高くて、それで…
(俺だって男なんだからさ。)
 さっきの言葉が胸を疼かせた。甘くとろけそうな切なさ。焼けつく期待と警鐘。矛盾する両極の感情。ああ、どうしてさっきRVの中で、あの首にしがみつかなかったのだろう。昔なら。分別も恐れも知らぬ学生時代の私なら。間違いなくあの瞬間、思いきり彼を抱きしめていた。
「やめようよ…。よした方がいいって…。あんな男は…。あんな美形は…。」
 誰もいない空間に由布子はつぶやき、しばらく天井を眺めていた。
 
 火曜の晩、由布子は美容院に行った。
 行きつけのその店は道玄坂のほぼ頂上にあり、有名な和菓子屋のビルの二階で、夜十一時まで営業している。ホステスも主婦も、時に芸能人も来る店で、常連客に決して馴々しくしない雰囲気が、由布子は気に入っていた。
「ちょっと気分を変えようかな、と思って。」
 いつもはボブの裾を揃えてもらう程度なのだが、ぽつりと言った言葉をチーフは聞き逃さず、毛先にシャギーを入れた、表情豊かなショートカットで由布子の髪を彩ってくれた。
「ムースで流れの方向を変えると、ボーイッシュになったりエレガントになったり、色々遊べますよ。できればイヤリングでリズムをつけて下さい。」
 店を出てから由布子は、夜の公園通りを楽しんだ。行き交うのはアベックばかりだが、目障りどころか応援してやりたい気分であった。流行のファッションに身を包んだどんな男たちも、私の拓には見劣りする。彼の持つ天鵞絨(びろうど)のまなざしを知ってしまった女は、もう他の男を相手にしない。
 ショーウインドウで、由布子は足を止めた。百合の花のイヤリングがそうさせた。カーブした茎と葉のデザインが個性的で、明日着る予定の服にぴったりだった。
「包装はけっこうです。今していきますから。」
 冷たい風が、気持ちよかった。

第1部第1章その13へ
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