【 13 】

 終業チャイムが鳴ると同時に帰ることを『ベルサッサ』と呼ぶ。…これは何年か前にいっとき流行しかけて、いつのまにか死語となってしまったが、水曜日由布子はそのベルサッサで席を離れ、化粧室で念入りにパウダリングした。めったにこういうことのない彼女に、たまたまそこでかちあった同僚は、
「まー珍しい、菅原ちゃんがいそいそとデートなんて。」
 彼女は由布子の全身をつくづくと眺め、
「ずいぶん気合入ってるじゃないの。素敵なスーツ着ちゃって。ヘアスタイルは変えてくるし、ルージュもいつもと違うでしょ!」
 こういう時の女の眼は、男とは比べ物にならないほど鋭い。だが由布子は、不躾なその視線になぜか満足感を覚えた。
「べつにそんなんじゃないですよ。ちょっと…ね。」
「ちょっと? ちょっとどうしたのよ。ちょっと素敵な人なの?」
 由布子はそれには答えず、ポーチのチャックを閉めてバッグにおさめ、
「お先失礼しまーす。」
 手を振って化粧室を出た。
 NHKホールへは、渋谷でなく原宿駅の方が近い。会社から原宿までは山手線でおよそ二十五分。待ち合わせ時刻よりもだいぶ早く着いたが、由布子はロビーで拓を待った。
 そこここにたたずむ客たちには、やはりクラシックコンサートに似つかわしい、独特の雰囲気が漂っていた。年齢層は比較的高く、服装も落ち着いている。時々混じっているカラフルな若者は、おそらく音大生なのだろう。有名な演奏家を招いているわけでもない定例通りの演奏会に、集まるのはひょっとして、いつも同じ顔ぶれかも知れなかった。
 コンクリートの底冷えの中、由布子が立っていたのはほんの五分足らずであった。中目黒駅の時と同じように、拓は定刻よりも前に姿を現した。もっともあの時は彼の方が由布子を待っていたのだが、こちらに近づいてくる拓の姿は、由布子を陶酔させるに十分な、目を見張る華やぎに満ちていた。
 薄めのグレイに黒が織り込まれたカシミアのスーツ、東雲を思わせる濃紺のワイシャツに同色のネクタイ、それに長めのキャメルブラウンのコート。歩くたびにコートの裾と、肩に下ろした髪が揺れる。彼の一歩一歩が由布子には、スローモーションフィルムに見えた。その場所ごとにふさわしく、自分自身を演出できる人。その意味で彼はスペースアーティストとして、すでに合格なのかも知れなかった。
「よ。」
 いつものように軽く手を上げ、拓は笑った。
「ごめん、待たせちゃった? もっと早く着いてるつもりだったんだけどね。寒かったかな。」
「ううん、ほんとに今来たところ。まだ五分とたってないわよ。」
「じゃあタッチの差だったか。はいこれ。」
 拓は由布子にチケットを渡した。
「仕事、平気だった?」
「大丈夫。おとといから調整しておきました。前もって段取りしておけば、なんとかなるものなのよ。」
 ロビーから中へ入ると、暖房が体を包んだ。
「髪、変えたんだ。」
 拓は彼女を見下ろし、
「最初さ、由布子さんだと思わなかったよ。感じ変わったね。何か心境の変化?」
「ん…べつにそうでもないけど。」
 今夜あなたに会うために、とはさすがに言いづらく、
「いつも行ってる美容院でね、こんなカットはどうですかって…。センスのいいチーフだから、たいていおまかせにしてるの。パリとニューヨークで修業してきたとかで、指名する人も多いみたいよ。」
 由布子は話を美容師に振った。拓はふうん、と言ってから、
「いいじゃん。似合うよ。由布子さんに合ってる。」
「ほんと?」
 由布子は自分の声に驚いた。小娘のように陽気ではじけた声を出してしまった。だが拓は変わらない口調で、
「うん、ボブよりいいんじゃない。背もスラッと高く見えるし。」
 よかった、と由布子は思った。ニット帽にコームをさした佐々木チーフに、彼女は心から感謝した。
 シートナンバーを探しあてると拓は、先に由布子を通し、コートを脱いで隣に座った。上質の生地の、着心地よさそうなスーツだった。由布子はファッションブランドにさほど興味はなかったが、布地のよさを見る目だけは、人並み以上にあるつもりだった。
(この服着てきてよかった…。)
 今夜彼女はアイボリーを選んでいた。拓のスーツともコートとも、偶然よく合う色だった。
「あ、そうだ、久さんがね、こないだの図面見て感激してた。ぜひぜひこれでお願いしますって。」
「ほんと? じゃあ、あれで進めちゃっていいのね?」
「うん。もう今から隣近所に自慢してると思うよ。気が早い人だから。」
「陽介さんのバイトは?」
「夜以外ならいつでもいいって。バイクの修理は夜やって、昼間は久さんとこやる気だよあいつ。」
「いやだ、一昼夜働くつもり? いくら十代だってそれは無理じゃないの?」
「うん、俺もそう言ったんだけどね、やるって言うんだ。やりたいからやらせてくれって。ガキのくせに頑固でさ、こないだの図面全部借りてったから、自分で書き写してるんじゃないかな。」
「んまあ…。」
 由布子のCAD図面を陽介は、手書きでトレースしているのだろうか。大工になりたいという上京時の夢が、彼に甦ってきたのかも知れない。
「俺、それ以上止めなかった。久さんの船ちゃんと作ったら、あいつにはもう一度、何をやりたいのか考えさせたいしね。これをきっかけに大工の勉強をやり直したいって言うなら、それがベストなんだよあいつには。」
「そうね。私もそう思う。」
 由布子はうなずいた。陽介が本気で施工技術者を目指すのならば、就職先については力になれる。取引業者に直施工子会社と、使えるルートはいくらでもあった。大手のホームイング・エグゼ紹介とあらば、どこに入ろうと苛めはないだろう。十年、十五年。陽介にはみっちり技術を身につけてもらい、やがて将来スペースアーティストとなった拓の、右腕になりえる実力を養っておいてほしい。
 そこまで考えて、由布子はあっと思った。
「そうだ、陽介さんにお礼しなきゃならないのよ。覚えてる? この前『裏長屋』で会ったときのオブジェ。」
「オブジェ?」
「そう。ほら箸袋で折ってたじゃない、矢羽根型の、折り紙みたいな…。あれをちょっと流用させてもらって、溜池のお店に飾ることになったの。」
 由布子はいきさつを説明した。拓は感心したように、
「へえーっ、あんなもんが役に立ったんだ。陽介の奴びっくりするだろうな。」
「今もう工事が始まってて、内装関係の最後になるから、さ来月くらいにはできあがるかな。高級料亭だけど陽介さんにも、一度見てもらおうと思って。もちろんアイデア主だから、ちゃんと正規のマージンを払うつもりよ。」
「いいよいいよマージンなんか。それよりその店で夕飯でもおごってやれば、かえってその方があいつも喜ぶって。」
「そうかしら。何だか悪くない?」
「ないない、そんなことない。利用してくれただけで満足なんじゃないかな。」
「でも…せめて何かプレゼント…。陽介さん、欲しがってるものない? 洋服とか、趣味のものとか。」
「そうだなあ…。あいつもほら、アイドルファッションとか真似たい年頃じゃん? だから、しゃれたセーターとか喜ぶかも知れないな。帽子とか…それに靴なんかもいいかな。」
「アイドルファッション? うわあ苦手な分野…。」
「苦手なの? あんまり好きじゃない?」
「好きじゃないっていうか…縁がなかったかも知れない。」
 由布子は一瞬ためらったが、
「悪いんだけど、今度、一緒に見立ててくれない? あんまり変なもの選んで、何だよこれって思われたら悪いでしょう。高杉さんのお店の工事、よろしくお願いしますって意味も含んで、近々会ったときに渡せるように…」
 拓は二つ返事で快諾した。
「ああいいよ。そうだよね、久さんの船、とりかかる前に顔合わせしなきゃね。また久さんとこで集まるとして…。」
 拓が言った時、すうっと客席照明がダウンされた。いつしか舞台には楽団員が揃ってい、チューニングも静まっていた。
「またあとでね。」
 耳元で、拓は言った。彼の息をイヤリングに受け、由布子は甘美な戦慄におののいた。
(新世界か…。)
 落ち着くために彼女は、舞台全体を見回した。正面にチェロ、手前に指揮台。左翼にバイオリン。コンサートマスターの席。一番奥は打楽器。ティンパニの胴が光っている。右手はビオラ。サイドにダブルベース。フルオーケストラの配置の中に、スイス人常任指揮者が登場した。慣れた拍手が起きた。
 由布子がこの曲を初めて聴いたのは、たしかラジオの音楽番組であった。名曲の解説をしてくれるその番組に、彼女は時々、周波数を合わせていた。その日の曲目はたまたま、
『それでは、ドボルザーク作曲・交響曲第九番ホ短調作品九十五、“新世界から”です。カラヤン指揮、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団の演奏でどうぞ。』
 気楽に耳をあずけていると、ダイナミックな第一楽章に続いて、静かでシンプルな第二楽章の主題を、イングリッシュ・ホルンがつややかに奏で始めた。由布子は動きを止めた。聴き間違いではないかと思った。覚えやすいなめらかなメロディーラインは、彼女の記憶を一気に、小学生時代の夏まで巻き戻した。
 林間学校は、菅平だった。
 実行委員になった由布子は、メインイベントであるキャンプファイヤーの、総合演出に取り組んだ。教師も生徒も一緒になって、キャンプファイヤーの二時間をいかにドラマチックに盛り上げるか考えた。
「火を消したあと、全員で合唱しよう。」
 委員会の決定をうけ、教師はある曲を教えてくれた。旋律も言葉も美しく、由布子はうっとり聴き惚れた。
   遠き山に日は落ちて…
 キャンプファイヤーは大成功だった。一般生徒たちが宿舎に戻ってから、教師は委員だけを集めて、花火大会をやらせてくれた。ひとしきり騒いだあと蝋燭を消すと、あたりは太古の暗闇にとざされた。
   遠き山に日は落ちて 星は空をちりばめぬ
   今日のわざを成し終えて 心かろく安らえば
 誰からともなく、その歌を歌いだした。たった一つの懐中電灯を車座に取りまいて膝を抱え、ふと夜空を見上げた時だった。由布子の全身に、鳥肌が立った。漆を思わせる黒い空に、鉄橋から見た利根川のような、銀色の星の川が横たわっていた。図鑑で見たのと寸分変わらない宇宙が、頭の上に広がっていた。銀河というものがこれほど美しく、巨きく畏ろしいものであることを、彼女はその時知ったのだった。
 ラジオから流れていたのは、まさにその曲だった。あの優しく平易なメロディーが、シンフォニーの第二楽章だとは。重厚長大・難解至極なものと思っていた『交響曲』のイメージが、ガラガラと音をたてて崩れさった。
 それ以来由布子の頭には、ドボルザークの新世界イコール銀河、の連想方程式ができあがってしまったらしい。チェコ音楽院からニューヨーク・ナショナル音楽院院長として就任したドボルザークの、新天地アメリカでの名声を確たるものにしたのがこのシンフォニーであるとか、主題とは関係ない旋律が随所に見える点を、曲構成の焦点がぼけるといって嫌う専門家もいるとか、技術的には易しい部類に属するがゆえに、指揮者の力量を歴然とさせてしまう作品である、などの知識が増えてきても、この曲は由布子の大銀河であった。
 新しい何かを為そうとする人間たちを、このシンフォニーは讚美しているのだ。フロム・ザ・ニューワールド。海を越え空を越えた、新たな希望の大地から届く曲。力強いティンパニの響きと、変幻自在の主題のメロディー、繰り返し繰り返し音階を下るオーケストレーション。指揮者の額から汗が飛び散るのが見える。それ自体が一つの生き物のように、動きを同じくするバイオリニストたち。本物のオーケストラが持つうねるようなエネルギーに、由布子は全身を浸していた。隣に息づくもうひとりの存在をも、音楽は不思議な力で攪拌し、由布子の耳から、左半身から、確かな実在を伝えてきた。第四楽章のコーダが消え、割れんばかりの拍手がとって変わった時、由布子は思った。このひとはもしかしたら、私の新世界になるかも知れない。

第1部第1章その14へ
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