【 14 】

「食事する? それとも、お酒がいい?」
 神南の交差点で、拓は由布子に尋ねた。胸の中で第二楽章をリフレインさせていた由布子は、チェロによく似たその声によって、現実に引き戻された。
「そうね…」
 開演時間を考えて彼女は、昼食を三時頃にずらして摂っていた。それほど空腹ではない。
「あなたは? ちゃんと食べるようならつきあえるわよ。」
「俺は軽く食べて来たから… じゃあ、新世界に乾杯といこうか。」
 彼は青信号を渡り始めた。由布子は小走りに追って、密かにその背中に笑いかけた。彼は『新世界に乾杯』と言った。もちろん深い意味はないだろうが、由布子にとって今の台詞は、幸運の呪文のように感じられた。
「わりと混んでる店なんだけどね。今夜はどうかな。」
 横断歩道を渡ってすぐの通りを、拓は左に曲がった。坂の町・渋谷の、このあたりが頂点である。細い坂を下り始めた位置に、こじんまりとした公園があるのだが、その公園を見下ろす細長いビルの、ファッショナブルなバアに拓は由布子を案内した。
 ドアから足を踏み入れた拓を、ピンスポットのような照明が照らした。客たちは大半がカップルだったが、戸口に視線を投げた女たちは、例外なく一瞬凍てついた。続いて彼女らは由布子を見た。あきらかな羨望の眼差しだった。
「あちらへどうぞ。」
 姿勢のよいウェイターが示したのは、一番奥、小公園に面した特等席だった。黒いガラスのテーブル一つずつにランプ型のライトが置かれており、それらは大きな窓ガラスに幾重にも映りこんで、店全体を水底のように揺らめかせていた。
 その席に、つこうとした時であった。
「…やっぱり来たのね。」
 二人の間に影が割り込んだ。しなやかで攻撃的な、猫を思わせる素早さだった。
「今晩は。相変わらず素敵だこと。」
 後ろ姿のその影は、潤いのある低い声で、ウェイブのかかった長い髪と、見事な脚線の持ち主だった。
「ああ、…何だ、いたんだ。」
 ぼそりと拓は言った。窓の外の水銀灯がちょうど真後ろにあって、彼の表情は全くの逆光に遮られていた。だが由布子は拓の気配に、まずい、という感情が露呈したのを悟ってしまった。女の声の波長にも、絡みつくような見据えるような粘稠度の高さがあった。
「ええ、いたわよ。予感がしたの。今夜あたりあなたに会えるって…。」
 一言一句が由布子の胸に、錆釘を打ち込む如く突き刺さった。一方で拓は冷淡に、
「悪い。今夜はちょっと… デートだからさ、俺。」
「えっ?」
 女は本当に驚いた様子で、勢いをつけて振り返った。長い髪がひるがえった。ライトがまともに顔を照らした。大きな目、深紅の唇、驚愕の表情に鋭い悲しみが走るのを、由布子は見逃さなかった。
「……」
 女は無言で由布子を見つめた。由布子も見返すよりなかった。派手な化粧のその女が、自分よりずいぶん年上だと知ったとき、彼女の首の後ろあたりから、すっと血の気が引いた。
(まさか…)
 吐き気がするほどの衝撃を、かろうじて由布子は奥歯で殺し、
「あ、…ごめんなさい、失礼…。」
 レストルームのプレートに救いを求め、ドアの向こうに逃げ込んだ。
 幸いそこには誰もいなかった。彼女はドアにもたれたまま、しばし動悸が鎮まるのを待った。
(あの女は多分…)
 由布子は化粧台に近づき、両手をついて首を垂れた。頭の中が膨張して耳鳴りがしていた。みぞおちに苦い不快感があった。
 気づくべきであった。あの美しい青年に、相手がいないはずはない。若い男の肉体が、女を求めないわけがない。数多くの女たちが小惑星のように、彼のまわりを巡っている。今の女が由布子を見た時、絶望に近い焦燥感が全身から溢れ出た。同性の由布子には判る。あれは単なる嫉妬と違う。彼の最も身近にあって、彼を所有するがゆえに、女は失うものの大きさに怯え、声にならない悲鳴を上げたのだ。
 由布子は蛇口をひねり、手を洗った。ソープをつけて何度も洗った。掌が冷えると体感温度が下がる。そんな雑学知識をふと思い出したからだ。
「取り乱さないで…。取り乱してどうするの…。」
 由布子は自らに言い聞かせた。
「あの男は…あたしの恋人じゃない…。あたしも別に…あの男の恋人じゃない…。ちょっと知り合って…店の改装頼まれて…見積が安く上がったから…コンサートのお礼をされただけ…。年下男の気まぐれに、これ以上つきあっちゃいられないわ…。お婆ちゃんが昔言ったっけ…。顔のいい男にろくなのはいない。しかもそれを十分承知している男は、女にとって害毒だって…。このへんで目をさまさないと、とんでもないことになるわよ…。今気がついて賢明なのよ…。ここで止まれば怪我はしない。まだ誰に言ったわけでもないし、約束したわけじゃないし…。」
 由布子の胸はズキンと痛んだ。約束、という言葉のせいだった。
「あんな割り箸のお礼なんか…しなくていいわよね…。アイデア料なんて会社が出すもんですか、あたしの自腹じゃないのよ…。まだ約束はしていない、そんな話をしただけ…。」
 痛みは突如胸を遡り、涙腺に伝わりそうになった。由布子は深呼吸した。涙の圧力がかろうじて下がった。キュッと乱暴に蛇口を締めて、彼女は鏡を睨みつけた。
「そうよ、その意気よ。十五・六の小娘じゃあるまいし、毅然としてなさいよ。余裕をもって、母親のように笑えるわね?」
 不敵な笑みを幾種類か、由布子は練習した。ペーパータオルをひきぬいて濡れた手を拭き、ダストボックスに叩きこんで、
「はかない夢だったぜ。」
 スクリーンでその台詞を言ったキャラクターを真似、ふん、と天を仰ぐと、由布子は思い切り力を入れて、化粧室出口のドアを引いた。
「ひっ!」
 思わず、声が出た。
 ドアの向こうに、ドアのように、憮然とした表情の拓が立ちはだかっていた。心臓の止まりかけた由布子の腕を、彼はグイとつかんだ。不敵な笑顔など今のショックでどこかへ行ってしまった。拓は、座るはずだった特上席に由布子を押し込み、それから自分はコートを脱いで、通りがかったウェイターに渡した。
 由布子の頭は阿呆のようにぼんやりしてしまい、内ポケットから取り出した煙草をテーブルにぱしんとたたきつけ、いまいましそうに一本くわえて火をつける彼の一連の動作を、まばたきもせずに見守っていた。
「ご注文は。」
 天井に煙を吐き出し、拓は言った。
「えっ?」
「だから、オーダー。何かたのまないと、座ってられないのその椅子に。」
「……」
「コート、いいの?」
「えっ?」
「コート着たままで落ち着くの?」
「……」
「ッたくしょうがねえな…」
 拓はいったん座ったスツールから下り、由布子の襟に手をかけた。
「ほら、立って。」
 親か兄弟のような態度で、拓は由布子の白いコートを脱がせ、ウェイターを手まねいて渡しながら、
「何飲むの。こないだと同じでいい? …じゃバーボンのソーダ割り。」
「バーボンは何にいたしましょう?」
「じゃ…アーリータイムズ。」
 拓はスツールに座り直し、煙草をくわえた。由布子は無言で公園を見ていた。裸の木々を外灯が照らしているが、光の届かないところは黒々とした闇で、洞窟がぽっかり口をあけているようであった。
「さっきの女はね。」
 ウェイターがグラス二つとチョコレートを置いて下がると、拓は煙草を揉み消し、言った。
「俺のパトローネ。一緒に暮らしてる。某有名企業の会長の愛人で、平河町のマンションに住んでるんだけど、俺のために霞町にも2LDKの部屋買ってくれて、ダンナが来る時だけ平河町に帰ってる。このスーツも、あのコートも、ぜんぶあの女のゴールドカード。こうやって贅沢させてもらう代わりに俺は、夜毎あの女の欲望を二度・三度と満たしてやってるわけ。」
 由布子は虚ろに告白を聞いていた。全てが想像通りであった。……と思いきや、さにあらず、
「って言うと思った?」
 由布子は目の焦点をグラスに合わせた。氷、コースター、テーブル、灰皿の順に視線を動かして、手首から肘、肩、最後に拓の目をそっと見た。
「思ってたんでしょ。」
「でしょって…」
「まったくな。女ってのはどうしてこう、同じような発想をするんだろ。ねえ、自分でさ、それ考えた時、ありきたりだなって思わなかった? どっかで聞いた話だなって。平凡すぎません? 忙しいふりだけで実際は、会社で昼メロ観てるんじゃないの?」
 拓はチョコレートを口に放り込み、
「見てよ、ここ。」
 上着の前を大きくめくって、裏を見せた。指差すところに目をこらすと、丁寧につくろってはあるが、斜めに大きなかぎ裂きが入っているのがわかった。
「俺ね、自慢じゃないけど友達多いよ。いろんな奴がいてさ、美容師もいるし、道楽で外車のバイヤーやってる奴もいるし、イラストレータに脚本家、写真家、コンピュータのエンジニア、それに、輸入ブランドの代理店に勤めてるデザイナーの卵。…輸出してね、運んで、輸入して、運んで、荷物ほどいて、また詰めて、そんなことしてる間に、一着や二着は傷物が出るの。そういうのはね、ほとんど只同然の値段で関係者の手に入るんだって。これ、いちおうMASATOMOのオートクチュール。キアヌ・リーブスとかが着てるやつ。でもご覧の通り、裏地が破れただけで商品にはならないの。こういうのをそいつは、五千とか一万で知り合いにさばいてる。あのコートだって、後で見てみりゃいいじゃん、袖の内側んとこ、違う裏地がついてんだから。」
「……」
 由布子はまじまじとかぎ裂きを見た。そんなルートがあるとは全然知らなかった。
「それにさ、俺、どこに住んでると思う? 平河町? 霞町? 夢のまた夢だってそんなの。俺のアパートは板橋区成増、ユニットバスの1DK、川越街道を一本折れた商店街のはずれ。金持ちのパトローネがいる男が、成増には住まないでしょ普通。…ほら、証拠品。」
 彼はパスケースをちらりと見せた。『成増』の二文字が確かに記されていた。
「まったく、…せっかくドボルザークに乾杯しようと思ったのに、ぶっ壊しじゃないかよ。こんないい席、めったに空いてないんだよここは。」
 由布子はグラスに目を落とした。頭はまだ混乱していた。今の女とは何でもないと、拓はそう言いたいのだろうか。しかしあの女の苦しげに歪んだ表情は、断じてただごとでないだろう。
「何で、いまの人のことでそんなにムキになるの? あたしは何も言ってないし、尋ねてもいないじゃない。なにを一人で訂正してるのよ。」
 皮肉な口調で由布子は言った。こんな言い方は嫌味だと責める声も自分の中にあったが、そうか何でもないのかと100%納得するほど、彼女も無垢ではなかった。
「ムキになってるわけじゃないよ。そうじゃなくて、すごく…」
 拓はバーボンを一口飲んだ。
「すごく…腹立ったんだよ、由布子さんの態度に。」
「私の?」
 由布子は彼を見た。人をこれだけ驚かせたりとまどわせたりした揚げ句、何と心外なことを言い出すのか。彼女は初めて、拓に怒りを感じた。だが彼は斜めに由布子を見、
「さっきの態度、何だよあれ。まるで自分が悪いことしてるみたいに逃げ出して。」
「逃げ出した?」
「逃げ出したじゃん。人の顔色見てさ、気をきかしたつもりだろうけど、何だよ人を頭から悪者扱いして。」
「悪者って… 知らない店に入っていきなり、知らない人に睨みつけられたら、驚くに決まってるじゃないのよ。」
「驚くなって言ってないだろ。俺だって驚いたんだから。そうじゃなくて…」
「第一ね、あなたがすぐに紹介してくれればそれで済んだことじゃないの。私はね、あなたがしまったって顔をしたから、まずいのかも知れないと思って気をつかって…」
「ほらだからそれが!」
 拓はグラスを乱暴に置いた。バーボンがはねて、コースターを濡らした。
「それが腹立つんだよ。由布子さんね、俺、殴られんの覚悟で本当のこと言うよ。いい? 由布子さん、ハッキリ言ってその愛人慣れ、やめろよ。」
 ズキンと、由布子を貫いた。
「そうやって、男の気持ち先くぐりして、都合のいい立場に自分から立つのやめろよ。さっきの態度、何だよあれ。まるで本妻に怒鳴りこまれた愛人じゃんあれじゃ。」
「やめてよ!」
 由布子はかぶりをふった。大塚の妻に泣かれた時の、ナイフをつきつけられるような気持ちが背骨に甦ってきた。
「やめてよはこっちの台詞だよ。嫌いなんだよ俺ああいう女の人の態度。かばってるつもりかも知れないけど、こっちはかえってたまんないぜ? 何でもっと堂々としてないんだよ。由布子さん何か悪いことしたの? 俺、別に所帯持ちでも何でもないし、パトローネもパトロンもいないし、ただの貧乏な苦学生だぜ?」
 彼はテーブルに両ひじをつき、口元で両手を組んで、親指の関節を噛んだ。
「頼むからやめてくれよ…。苦手なんだそういうの…。」
 彼のこめかみに、ギュッと筋が浮き上がった。横顔の眉が震えていた。由布子はふと怒りを忘れ、その表情に宿る何か重苦しいものに心を奪われた。場をとりつくろうための芝居とは到底思えない、ひどく大きな苦しみに耐えているように見えた。たとえば過去に犯した取り返しのつかない過ちであるとか、もしくは自分にはどうすることもできない、生まれついての運命のようなものに対して。
(このひとは…)
 由布子は新たな疑問を抱いた。
(いったいどういう人生を歩いてきたんだろう…。大学も一年でやめたって言ってた…。それまではどこに住んで、どんな家庭で育ったんだろう…。)
 言葉だけを聞けば今しがたの拓は、まるで由布子に好きだと告白しているようにもとれるが、そういう意味ではないことが、当の由布子にはよくわかった。彼が吐露したのは、もしかしたらもっと深いこと。拓の人生に根底からかかわるような、重くて、大きい、枷めいたことかも知れなかった。
 拓はバーボンを喉にぶつけ、溜息をひとつついた。
「悪い。…ちょっと、言い過ぎたね俺。愛人だなんて、ひでえこと言っちゃった。ごめん…。」
 由布子は思わず首を振った。カラのグラスに指をかけてうつむく彼は、無防備で虚無的で、ひどくやつれた人のように思えた。前髪が額から頬にこぼれて、水銀灯の光が影を落としている。全てを打ち消して余るほどに、なんと美しい青年なのだろうか。
「ひとつだけ…聞いていい?」
 由布子は拓の指先を見て尋ねた。長いけれども関節の太い、男らしい骨っぽい指だった。寝たい男か寝たくないかの決定的なポイントは手だと、ある女流作家は繰り返し書いていた。
「なに。」
 拓は顔を由布子に向けた。少年のようなまなざしだった。この瞳を釘付けにしたい。由布子は突然そう思った。この瞳をよぎる女は、片端から火あぶりにしてやる。その指が触れる女の肌は、ジャックナイフで八つ裂きにする。黒褐色のこの瞳に、魅せられた女はどれほどの数か。由布子は唇を開いた。アナタニトッテワタシハナンナノ…そう言いかけた彼女の脳裏を、さっきの女の、声にならない悲鳴がフラッシュした。
(あの女は、この男をしっている。)
 由布子は確信した。パトローネではないのかも知れない。一緒に暮らしてはいないのかも知れない。だがあの女が自分を見た時の、どす黒い嫉妬は尋常でなかった。由布子の持つ『二十代』の時間だけは、死んでさえ手に入れられない中年の女。拓は由布子に、嘘をついてはいないだろう。だが決して、真実をも語ってはいないのだ。
「だから、何だよ。」
 重ねて彼は聞いた。由布子は我に返った。質問する気は失せていた。だが何か言わなければおかしい。ううん何でもないの、では、彼も気分が悪いだろう。
「ドボルザークは、好きになった?」
 結果的に彼女は、極めて小粋な台詞を吐いた。彼はぽかんとし、まばたきをしたあと、鼻に皺をよせて笑い、参ったなと髪をかき上げた。
「そうだな、少なくとも、…新世界は、いいね。」
「いいわよね。第四楽章のリズムって、第一と同じでしょう。クラシックっていいながら、すごく現代的な構成の曲よね。」
「そこまではわからないけどね俺は。」
「ねえ、乾杯してないわよまだ。新世界に乾杯でしょう? 何よ一人で飲んじゃって。」
「え? ああ…そっかそっか、ごめん。」
 拓はウェイターを呼んだ。由布子はグラスを空けた。
「同じものでいい? それとも…何か他のにする?」
「そうね…」
 由布子はメニューを一瞥し、
「ソーダで割らない、ストレートのバーボンは? 新世界を目指して船出した、荒くれ男たちのように。」
「いいねそれ。バーボンの、何にする?」
「アーリータイムズが好きなの?」
 由布子は聞き返した。拓はうなずいた。
「じゃあそれにしましょうよ。今夜の乾杯にふさわしいかも知れない。」
「ふさわしいって?」
「ふさわしいわよ。新世界の夜。いろんな意味でね。」
「いろんな意味、ね。」
 拓は片方の眉を上げてウインクした。

第1部第1章その15へ
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