【 15 】

 一時間ほどで、二人は店を出た。階段を下りて公園通りに出た時、拓は空を見上げてあれっと言った。
「ねえ、雪だよ雪。ほら。」
「えっ?」
 由布子は彼のコートを見た。キャメルの表面に六角形の結晶が、一ひら二ひら貼りついていた。
「ほんとだ。今降りだしたみたいね。」
「寒かったもんね、昼間。」
「そうね。もしかして、積もるかしら。」
「どうかなあ。…寒くない?」
「大丈夫。かえって気持ちいいくらい。」
「またすぐそうやって強がる。」
「強がってなんかいないわよ。年下のくせに、生意気言わないの。」
「あれ、今は年下、はやりなんだよ? 観てたでしょ? ロング・バケイショーン!」
「何言ってんだか。」
 舞っていた雪はどんどん勢いを増し、パルコの前を通り過ぎた頃は、思いがけず強い降りとなった。
「きれいねえ…。」
 由布子は両手をひろげ、空を仰いだ。何千何万の羽たちが、由布子をめざして次々と落ちてくる。眺めているとまるで自分の方が、天に昇っていくかのような錯覚にとらわれた。
「由布子さんて…自分で知ってるのかなあ、けっこう、綺麗だよ。」
 背後で拓は言った。
「何年つきあったのか知らないけど、あんな親父のことはきっぱり忘れたんでしょ? そしたらもっと由布子さんのよさがわかる、いい男見つけろよ。大丈夫だって。絶対見つかる。だからもう愛人きどりはやめて、安売りはしない方がいいよ。次の男が見つかるまで、寂しかったら俺が代理になってやるから。」
「代理?」
 由布子は繰り返した。優しいようで残酷な言葉だった。本気の相手にはなれないというのか。そのことを決して忘れるなというのか。拓は街灯の明かりに丸く、照らし出された中宇の雪を見ていた。無数の粉雪が髪に舞い降りていた。その目は誰をも見ていなかった。
「あっ、タクシー来た。」
 急に、彼は手を上げた。降りしきる雪の紗幕をすかして、赤い空車の文字が近づいてきた。車はウィンカーを点滅させた。由布子は視線で拓の横顔に抱きついた。今夜このまま帰されるのが、何だかとても理不尽な気がした。雪の公園通り。恋人たちのスポット。抱擁もなしに、口づけもなしに、私に一人、帰れというのか?由布子は後ずさった。ただっ子のように走りだしたら、彼は追ってきてくれるだろうか。雪に閉ざされた二人だけの空間で、嬌声をあげてはしゃぎまわったら。子犬のようにじゃれあえたら。
「ほら、乗って。」
 拓が由布子を呼んだ。彼女は五〜六歩離れた位置で、明かりの消えた西武デパートの屋上のライトを見ていた。
「こら、風邪ひくよ。早く帰んないと、あした会社があるんでしょ。おい、こら、ゆーこ!」
 ユーコ。彼にこう呼ばれるのは二度めであった。彼女は無言で車に乗り、体をシートの奥へずらした。拓は乗らずに、運転手に向かって、
「太子堂まで。」
 そう言って会釈し、由布子に笑いかけた。
「気をつけてね。ああそうだ、陽介のプレゼント、今度の日曜にでも買いに行こうよ。それまでに電話するから、何がいいか候補考えといて。」
 タクシーは無情にも、音をたてて自動ドアを閉ざした。運転手はアクセルを踏んだ。由布子は背もたれに両手をかけ、歩道の彼を見た。長身のロングコートがシルエットになって手をふっていた。タクシーは渋谷駅前を通り過ぎ、右折して246に入った。
「急に降りだしましたねえ。」
 初老の運転手は、由布子に話しかけてきた。
「お嬢さんの恋人ですか? 今の人。いやあ、えらいハンサムさんですねえ。あたしゃ芸能人かと思いましたよ。」
「恋人…?」
 由布子はつぶやいた。ついに聞けなかった質問が、再度唇に昇ってきた。
『あなたにとって、私は何なの…?』
 ワイパーはいそがしく雪をかき落とし、雪はウィンドウの枠にしがみついて、崩れ、ゆがみ、振り落とされていった。
(とんでもない新世界かも知れない…。)
 テールランプの赤を滲ませ、雪はなおも激しく降り続いた。

第1部第2章その1へ
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