【 1 】

 夜が明けても雪は降りやまなかった。
 寝つけないことはわかっていたから、由布子は夕べ部屋へ帰るなり、買い置きしてあったオールドをストレートであおって、無理矢理自分を眠りに引きずりこんだのである。重い頭で目覚めた時、部屋がやけに明るかった。寝過ごしたかと慌てたが、時計を見るとようやく六時になろうとするところで、もしや、と思いカーテンを引くと、外はみごとな銀世界であった。
 由布子はいつもより早く部屋を出た。交通機関は軒並みマヒして、下界は大混乱であったけれども、厚い雪雲の向こうで太陽は、いつも通りの軌道を巡っていると見える。空の灰色は徐々に薄らぎ、雪も勢いを失っていった。白い筋に見えたものが点となり、まばらになり、やがて風花ほどの弱さになって、視界をときおり舞うだけになった。由布子は窓ぎわのドラフターに体を預け、雪が衰えていくさまをぼんやりと眺めていた。
(拓…)
 面影は心に降り続いた。彼の眼差し、笑顔、オールドファッションドグラスを口に運ぶ指の形、頬に落ちかかる髪を首を振って払い上げる、その横顔…。何気ない仕種をよみがえらすごとに、風花は再び吹雪となって渦を巻き、由布子の頭を痺れさせ、思考力を奪い去っていった。
「菅原ちゃん、菅原ちゃんてば!」
 呼ばれて由布子はフロアに立ち返った。向かい合わせのドラフターから同僚の湯浅が、長いスケールで由布子の肩を叩いたのだ。その目に促され、課長席を振り返ると同時に、
「菅原君!」
 金属質の苛ついた声が耳に飛び込んできた。由布子は椅子から跳ねおりた。
「はい、すみません失礼しました。」
「何をボンヤリしてた。何度呼ばせるんだよ。」
「すみません。」
 由布子は頭を下げた。課長の浦部は彼女の直近の上司であった。親会社から出向してきている男で、もともとが銀行マンだったと言われればうなずける、非常に理屈っぽい物言いが、彼の特徴であり欠点であった。彼は骨張った額を一層強調させる上目使いで由布子を見、
「菅原君、今月の見込み客が上がってないねえ。新規は恵比寿の商社ディスプレイ一件か。今月の契約ノルマ未達だろうこれじゃ。もっと効率よく仕事してくれなきゃ困るよ。現場持っちゃうと契約がおろそかになるなんて、昨日今日の新入社員ならともかく、君はもう主任なんだから。不況だろうが何だろうが、目標にはかじりついてくれよ。ん? そうだろ?」
 由布子は、来たか、と思った。浦部の叱責は覚悟していた。会社には申し訳ない話だが由布子は正直、追加の新規契約を今月は取らずにおこうと考えていたのだ。恵比寿の商社と溜池の料亭。高杉の店の目処がつくまでは、表向きその二物件で、引っぱろうともくろんでいた。高杉店がある以上、新規客を追いかけるパワーはとても出なかったからだ。無論そんなことは浦部には言えない。ここはひたすら平身低頭して、来月頑張りますで逃げるのが得策だった。由布子は言った。
「二月と三月で取り返します。予算の関係で年度内に契約取れそうなところがいくつかありますし、足りないようなら飛び込みかけますので。」
 飛び込み、というのはその名の通り、『ごめんくださいホームイング・エグゼです』と言って訪問する営業活動だ。大抵はけんもほろろに追い返され、新人の半分はこれに泣かされ脱落していく。だが改修予定の顧客にタイミングよくぶつかれば、他社と競合にならずに短期間で、契約に持ち込めるのがメリットであった。
「だけど効率落ちてるよなあ菅原君…。なにがそんなに忙しいの。」
 しかし浦部は簡単には釈放してくれなかった。彼は由布子の日報ファイルを、ご丁寧に目の前で広げて見せ、
「溜池の料亭…『松ふじ』か? ここの利益計画と工程管理表と発注書に、なんでこんな時間かかってるんだ。まさか契約見積にミスでもあったんじゃないだろうね。」
「いえ、そんなことはありません。ちょっと…料亭の大がかりな改修は初めてなので勝手が狂いまして…」
 もちろん嘘である。効率が落ちたのは、高杉店に時間をとられたせいだ。浦部はしきりに首をかしげ、
「それにしたってなあ…。商社の方はこんなに簡単にいってるのに、ちょっと松ふじに工数かかりすぎだろう。工事業者は内山建設なんだし、問題ないと思うがなあ。」
 鋭い指摘であった。虫の好かない上司ではあるけれども、ベテラン管理職のチェック能力はやはりさすがと認めざるを得ない。由布子はもう一度頭を下げた。
「申し訳ありません。」
 浦部は日報をポンと机に放り、
「慣れてなくてわからないって言うなら、一人で抱え込まないで誰かに相談するとかさ、そういうふうにやってよ。自分で納得したいのはわかるけど、仕事は趣味や道楽じゃないんだからね。その点もう一度よく考えるようにね。」
「はい。」
 収束の口調に由布子はホッとした。やれやれお小言は済んだ、と思いかけた矢先、
「そうしたらね。ちょっとこれを担当してくれ。新規客だ。」
「はっ?」
 意外な流れに、由布子は顔を上げた。彼は一冊のフラットファイルを差し出し、
「新宿支店から回ってきた。新聞広告の資料請求で上がってきて、初回面談は新宿が済ましてる。施主の住所は新宿なんだけど、建築場所はうちのテリトリーだったんだな。たいした額面じゃあないが競合してないから、楽に取れる契約だろ。これを速攻でまとめちゃってくれ。」
 由布子はファイルを受け取った。ホームイング・エグゼにはテリトリー制度というものがあり、工事場所によって整然と、担当支店が分けられている。例えば客が新宿支店に来店したとしても、工事場所が新宿店のテリトリー外だった場合、契約は『支店間紹介』という形で、工事場所の担当支店に回される。支店間紹介の書類はまず課長の手に届くので、その契約を部下の誰に任せるかは、課長の采配ひとつに委ねられていた。課長からもらえる契約権は、ノルマ未達の社員にとって涙が出るほど嬉しいのだが、しかし今回は大番狂わせであった。さりとて断るわけにもいかず、
「わかりました。」
 彼女はとにかく返事をして、ドラフターでなく自席についた。
(全く何でこんなときに…)
 内心深く溜息をつき、由布子はファイルを読み始めた。
 クライアントの名は馬場啓一、五十三歳。工事内容はインテリアリフォーム。物件所在地は中央区八重洲、店の名は『EMPRISE』とあった。生意気にフランス語など使ってと、八つ当たり混じりに読み進んでいくうち、由布子はおやっと思った。店の広さ二十坪、ほぼ正方形のフラットな店内、イメージを一新してリニューアルしたいという要望も、すべて高杉店にそっくりだった。ひょっとしたらこの仕事には、高杉プランの方法論を、まるきり流用できるかも知れない。他社競合なし・初回面談済み、しかも高杉店とは違い、資金面の心配は皆無であった。どれほどの不況下であっても銀行は、抵当権のついていないきれいな土地が担保差入可なら、右ひだりに金を動かしてくれる。由布子の気持ちはがぜん肯定的になった。大番狂わせだなどととんでもない。これは所謂『おいしい仕事』であった。
 さらに何よりもありがたいことに、アンプリイズは喫茶店だった。今まで由布子は高杉店のプランや見積を、口やかましい浦部の目を盗み盗み、こっそりと作成しなければならなかった。商社と料亭しか抱えていないはずの彼女が、喫茶店の図面を書いていてはおかしいからである。このアンプリイズを担当してしまえば、高杉店もやりやすくなる。今月度ノルマ達成プラス、高杉店の隠れ蓑。こういうのを渡りに舟、または一石二鳥というのだろう。
 由布子はさっそく受話器を取り、新宿店の短縮ナンバーを押した。初回面談を担当した人間と、打ち合わせの段取りをするためだった。

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