【 2 】

 ビルかげに積み上げられた汚れた雪が、排水溝の金網に清水のような澄んだ流れを細く落としている翌日の午後、由布子は新宿店の水野とともに、八重洲のアンプリイズに赴いた。水野はおととし入社したという男子社員で、由布子とは初対面であった。ひょろひょろと背ばかり高く頼りなげな彼に、由布子は優柔不断そうな印象を受けた。
 アンプリイズには三組の客がいた。高杉店ほどさびれてはいないらしい。奥の事務所に通されて、待つほどもなくオーナーの馬場が現れた。これまた高杉とはうってかわった、血色のよい巨漢であった。脂でてかてかした顔に、ばかに大きな彫りの深い目をつけていた。
「こちらが、今後私に代わりまして馬場様をご担当させて頂く、第三営業部の菅原でございます。」
 水野に紹介され、由布子は名刺を出した。馬場は初め、ほう女か、という表情で名刺を見、それから由布子の全身をつくづく眺めて、満足げにうなずいた。派手な水色のシャツの袖口から、濃い体毛が指先まで繋がっている。襟元に注がれてくる無遠慮な視線を感じつつ、由布子は彼の向かいに座った。ミニスカートで来たことを後悔した。
「まあこの店もあっちこっちくたびれてきたんでね。」
 世間話から本題に入ったところで馬場は言った。
「ここらで思い切ってインテリアを全部とっかえようと、そう思ったんだよ。ホームイング・エグゼさんがちょっと高いのは知ってるけど、その分センスがいいだろうと思ってね。おたくにお願いすることにしたよ。」
 水野はへつらうような笑い方をして、
「はい、本当にありがとうございます。精一杯やらせて頂きますので、ご希望はいくらでも上げて下さい。できる限りご対応させて頂きます。」
 すでに言うだけの立場である水野は気楽なものだが、この先契約を実際に進めるのは由布子である。馬場もそれはわかっているのか、大きな体を由布子の方に向けた。
「じつはねえ菅原さん。できるだけ早く契約したいんだ。来週末からカナダに行くんでね、それまでに全部決めちゃって、俺が帰ってきたらもう店はできてると。そういう感じに進むとすごく助かるんだな。」
「来週末?」
 驚いたのは水野だけだった。由布子は言った。
「わかりました、けっこうでございます。一週間頂ければ何とかできると思います。」
 月内に決めろと浦部に言われているし、いつでも施工にかかれる高杉店を考慮すれば、なるべく早く契約にもちこみたい。あまりせかすと不信感を持たれるが、施主が急ぐと言うなら願ってもなかった。棚からぼたもちのこの仕事は、何から何までツイていた。唯一、自分に対する馬場の、むき出しの好奇心だけは不愉快だったが。
 由布子はノートを開き、それでは、と切り出した。
「早速なんですが、いくつかお話を伺わせて頂けますか。急いで図面をおこしまして、まずは概算のお見積をご提示させて頂きますので。」
「あ、ああそうか。はいはいいいよ。何でも聞いて下さい。」
 馬場は座り直した。巨大な尻の下で、椅子のレザーがぎりっと鳴った。軽く組んだ馬場の手に、太い平打ちのマリッジリングが光っていた。体毛の草むらに埋もれた、金色の墓碑銘のようだった。
 由布子は馬場に、さまざまなインタビュウを行った。資金調達の確認や、この店をどのようにリニューアルしたいかなど決まりきった質問にとどまらず、高杉店で経験した通り、馬場の趣味や嗜好、さらに生き方の理想にまで言及した。それらのクエスチョンに、馬場は初めとまどったふうを見せたが、やがて断然興味を増した顔になって、しまいには身をのりだしてきた。こういう質問をされるとクライアントは、まるで自分を主人公にした脚本でも書かれている気になるのだろう。彼の口はどんどん滑らかになり、登山の魅力と仲間の素晴らしさを滔々と語ったあと、カナダには牧場を持っている友人に会うために行くこと、自分は学生時代山岳部にいて、今でもOB会には必ず参加していることなどを、次々と由布子に話した。彼は店のマッチを持ち出し、
「これ…この店の名前って、何て意味か菅原さんわかるかな?」
 茶色地にオレンジでスペルが書いてある。すでに書類で確認済みだ。彼女は答えた。
「アンプリイズ…。冒険、ですね。」
 すると馬場は大きな目をさらに丸くして、
「アンプリイズ? 違うよ違うよ、エンプライズ。『影響』でしょう。類は友を呼ぶっていうような、回りに与える影響力のこと…」
「エンプライズ? 英語なんですか?」
「英語なんですかって…じゃあ何だと思ってたの。ロシア語? 中国語?」
 由布子は笑わずに答えた。
「いえ、フランス語ですが、早とちりいたしました。英語ならたしかにそうかも知れません。」
 馬場は妙に甲高い声を出して、
「へえええーっ、おフランス語かあ! こりゃすごいわ大したもんだ。綺麗なだけじゃなくて博学なお嬢さんだねえ。そりゃ知らなかった冒険かあ。」
 馬場はマッチを手に取ってもてあそび、
「じゃあリニューアル後の店名はそっちに変えるか。スペルは同じで読み方が変わる。こりゃいいや。えっ水野君。いいと思うだろ!」
 話しかけられてようやく、それまで黙っていた水野が口を開いた。出番だとばかり気負った調子で、
「では馬場様、ご契約の方は来週の今日、金曜日でよろしいでしょうか? それまでにご融資の段取りもこちらでつけさせて頂きますので、次回委任状をお持ちいたしますから、ご捺印をお願いできれば…。」
「ああいいよ。そういう面倒な話は俺、苦手だ。全部そっちに任せるよ。融資って、東京中央銀行でいいんだろ? いちおううちの口座はそこなんだけど。」
「はい、結構でございます。幸い私どものメインバンクも東京中央でございますので、比較的便宜を図ってくれるものと思います。」
「ああそう。はいはいわかった金曜契約ね。うん、それならこっちも助かるわ。心置きなくカナダに行けるよ。」
 二人の会話を聞きながら、由布子は手帳のカレンダーをめくった。
「それでは、金曜日のご契約の前に再度お打ち合わせをしたいのですが、そのお時間を…そうですね、月曜の午後に、取って頂けないでしょうか?」
「月曜の午後?」
 馬場はやはり手帳を開き、事務所の壁に下がったカレンダーと見合わせ、ぶつぶつ言っていたが、
「ああ、悪い。ちょっと駄目だ。月曜と火曜は時間とれないや。月曜は店の定休日で出かけるのと…火曜日は、さっき言った山岳部の集まりだ。」
「となりますと…」
 由布子は日にちを目で数えた。水曜日では遅すぎる。月・火が使えないなら土曜か日曜をあてるしかない。今日がすでに金曜、いくら何でも明日は無理だ。馬場は言った。
「あさってはどう。日曜日。この日の午後なら都合いいんだけどね。そうだな…三時頃なら最高。」
 確かにそれしかないと由布子も思った。あす一日を使ってプレゼン資料を作り計算書をまとめる。月曜には法務局と銀行へ行って融資の申し込み。内諾が取れるのがおそらく木曜日。その間に正式図面と見積書を作成して、金曜日に契約完了。あざやかなスケジュールであったけれども、由布子の中で時計の針は、突然ぴたりと回転を止めた。降りしきる雪が記憶を満たし、由布子に返事をためらわせた。
 今度の日曜。拓はあの時そう言った。陽介に似合いそうなプレゼントを、二人で探す予定であった。由布子の頭は、馬場に対する正反対の回答を、同時に二つ組み上げた。『わかりました、では日曜の午後三時に。』『まことに申し訳ございません、日曜でなく水曜日の朝一番に、お時間を頂けませんでしょうか。』…拓と歩くのは表参道、いいやそれとも道玄坂。彼に会いたい。会えるならすぐにでも飛んでいきたい。長く感じたが実際は、コンマ何秒のとまどいだった。一つしかない由布子の口は、前者の答を選びとった。
「…わかりました。では、日曜の午後三時に。」
「おや、いいんだ日曜日で。」
 馬場は真顔になって体をおこした。
「ごめんねえ無理言って。もしかしてデート、キャンセルしなきゃなんない? 申し訳ないな。じゃあその分ね、僕がお相手するよ。」
 馬場はそう言って自分で笑い、水野に向かって、
「なあんてね、これ言うとセクハラなのかな。まずかった?」
「いえいえまあまあ。」
 意味不明の応じ方をして水野も笑った。由布子はノート類をバッグに収めた。長居は無用の相手だった。
「それでは本日はこれで失礼いたします。あさって資料を持ってまたお伺いします。」
立ち上がって由布子は一礼した。水野もそれに習った。
 アスファルトの舗道に出ると、北風が吹きつけてきた。さっきまで薄日の差していた空は、すっかり雲に覆われていた。今夜はもしかすると雨かも知れない。冬の雨は雪よりも冷たい。由布子はコートの襟元をかきあわせ、東京駅へ向かって歩き始めた。

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