【 3 】

 社に帰りつくと由布子は、すぐにCAD機に向かった。
 二百二十万の低予算だった高杉店に使えるアイテムを、各メーカーの分厚いカタログの中から、あれも駄目これも駄目と、洗い尽くしたのがついこの間のことである。鮮明なその記憶が由布子を助けた。『アンプリイズの壁は重厚な感じの木目調がいいな』と思うや否や、該当するボードがどのメーカーの何というラインナップにあったかを、彼女はたちどころに思い浮かべることができた。これが劇的なスピードアップをもたらし、アンプリイズのスケルトンプランは、信じられないほどの短時間で仕上がった。由布子はマシンをシャットダウンし、フロアの明かりを消して帰途についた。
 アンプリイズは現在、どうといって特色のない店だったが、由布子は改装後のイメージを、カナディアンロッキー風にしようと決めていた。馬場のあの毛むくじゃらな腕は、山男の特徴を重ね描いた時だけ、何とか嫌悪を感じずに済むぎりぎりの、許容範囲におさまってくれたからだ。一流のプランナーとはきっと、自分の趣味に合う仕事しかしない人間のことではなく、自身の嗜好までをもコントロールできる、強い意志を持った人間のことを指すのだろう。セブンイレブンの白いビニール袋を膝に置き、最終バスの窓ガラスに映る自分を、由布子は乾き気味の、しょぼしょぼする目で見つめながらそう思った。
『陽介のプレゼント、今度の日曜にでも買いに行こうよ。それまでに電話するから、何がいいか候補考えといて。』
 耳の底に拓の声がよみがえり、由布子の耳たぶは不意に、開演前の客席でイヤリングに受けた、彼の息を思いだした。
(どうしてさっき…日曜は駄目だって言わなかったんだろう…)
 今さら撤回できない選択に、由布子はほぞをかんだ。しかし水曜プレゼンでは、金曜契約に間に合わないことも事実である。プレゼンはなるべく早いうちに行い、施主には契約時までに提案内容を、十分納得しておいてもらう必要があった。由布子が選んだ台詞は、決して間違っていなかった。仕事に対しては真剣であれ。クライアントの意向は全てに優先する。今まで彼女はそうやって仕事をしてきたし、それによって評価され実績を上げてきた。
 しかし、である。
 由布子の心は揺らいでいた。絶対だと思ってきた信念が、脆くも崩れかけていた。彼に会いたい。そうつぶやくと由布子の心は、彼を除くこの世の森羅万象を、意味のない虚妄に変えかねなかった。プレゼントの見立てをこちらから頼んでおきながら、仕事を優先させるような女を拓はどう思うだろう。ヒステリックな自己満足のかたまり、時代遅れのマリオネットと思いはしないだろうか。いくつもの恋愛を経験し、仕事上のさまざまな困難を乗り越えてきたはずの由布子だったが、今彼女は、男性に対して無条件に受け身になりたがる心と、顧客への責任を果たそうとする頭の、二つの矛盾に気づいて愕然としていた。
 由布子はホームイング・エグゼの社員である。冷たいと思われがちな会社世界にも人間関係はあり、従業員は血肉の通った精神的な親密さで結ばれている。愛社精神という言葉は押しつけがましいけれど、自社の成績が伸びるのは嬉しいことだった。嫌々やるも仕事、楽しくやるも仕事なら、斜めに構えて会社を批判するより、業務に貢献して前向きな達成感を味わった方が、精神衛生上いいに決まっている。自分の仕事はそのまま社会に直結している。そう思えばこその手応えを、由布子は知っていた、経験していた。顧客からの礼状が社長宛てに届いて、全体朝礼で名指しで賞賛される喜びを、由布子は生きる励みの一つにしてきた。
 それが今、まるでガラスに映る影めいて頼りなく揺らいでいることに、由布子は衝撃を受けていた。仙台の叔母が口癖のように言う言葉…女はやっぱり好きな人と一緒になるのが幸せなのよという決まり文句も、意識の深いところから、実感を持って浮かび上がってきた。
(あのひとと一緒に過ごしたい…。そう思うならばその心に素直に、他の全てを捨てても従うのが本当なんだろうか。仕事の責任なんて、単なる言い訳の逃げ口上に過ぎないんだろうか。拓のために、彼が喜ぶように、彼に愛されるように努力するのが、正直な生き方なんだろうか…。)
 由布子は目を閉じた。亡き母の横顔が水に映る月のように心をよぎった。帰ってこない父を待って夜ごと夜ごとを、泣き明かしていた母の顔だった。
 ワンマンバスのテープがつぶれかけた声で、次の停留所名を連呼した。由布子はブザーを押した。首都高の高架を左に見送って、バスはゆるやかに右折し、停車した。薄いビニール袋が、足を前に出すたびカサカサと音をたてた。由布子はヒールを浮かせてアパートの階段を上がった。鍵をドアノブに差し込んだ時だった。かすかに鳴っている電話の音を、由布子の耳は確かにとらえた。
(うちの電話…?)
 思うなり由布子は短く叫んだ。拓かも知れない。キーを回してドアを引き、彼女は中に飛び込んだ。靴を脱ごうとして左足をひっかけ、キッチンで転びそうになった。コール音は途切れ、留守番電話のメッセージに切り替わった。ただいま外出しております、と言いかけたその『ます』のところで、回線はブツリと切れた。パンプスを片方、手にぶら下げて、由布子は呆然とした。受話器を取ってみた。切れている。当たり前だ。再生ボタンを押した。伝言は一件もなかった。
 誰からの電話だったか、実際そんなことはわかりはしない。間違いだったかも、悪戯だったかも知れない。しかし由布子は確信していた。わかるのだ。待っていた相手からの大切な電話は、鳴った瞬間のベルの音が違うのだ。電話の隣の置き時計がカチリ、と小さく音をたてた。四つのゼロが行儀よく並んだ。シンデレラの魔法の解ける時刻だ。由布子は受話器に指をのせた。ベルが鳴るとこの物体は微かに振動する。ルルル、と軽いコール音よ、鳴ってくれたのむ今一度。最後のボタンを押してから、着信音が届くまでに何秒かかるのだろう。すきまなく張り巡らされた神経網、NTTの有料回線。日本のレントゲンをもし撮ったら、電線はおそらく列島の形を描くに違いない。由布子は下唇を噛み、全神経を指と耳に集めた。拓はどこからかけてきたのだろう。部屋からだろうか、駅からだろうか。もしかしたらまたいつかのように、これから出てこいよとの幸せな誘いではなかったろうか。もしもし由布子さん? と尻上がりに、私を呼ぶ彼の声。鳴らない電話などこの世に必要ないのだ。あの青年は、私の愛しいひとは、いまこの地上のどこにいるのだろう。
 体がすっかり冷え、受話器にあてた右手が痺れてきたころ、由布子はようやくそこを離れた。壁のスイッチを入れると、明かりがともりエアコンが動き出した。暗闇に慣れた目には、蛍光灯がやけに眩しかった。
 由布子は夕食の弁当を半分だけ食べてから、留守電を解除し、仕切りのドアを少しあけたままバスに入った。シャワーを幾度も彼女は止めた。錯覚のベルが鳴るからであった。由布子はバスタブに体を沈め、溜息をついて天井を見た。
(あのひとはどんなふうに女を抱くんだろう…)
 由布子は水面に右腕を出し、内側の柔らかい皮膚に湯の糸がつたうさまをじっと見つめた。手首に唇をつけ、舌先で水滴を舐め取った。
『きれいだよ、由布子。』
 大塚の喘ぎ声が思い出された。大塚と別れてから由布子は、しばらく男と体を重ねていなかった。それまでは週に一度、ないし十日に一度、由布子の体は習慣的に悦楽を与えられてきた。女の心と頭は別だという。だが心と体もまた、間違いなく別物であった。恥も誇りも投げ捨てて、今大塚に電話をしたら、彼は来てくれるに違いない。死ぬまで愛人でも構わない。あの厚い胸に抱きしめてもらえるならば。おぞましくも卑劣なその願いは、自虐的な悦びをも秘めていた。由布子は長いことバスタブに浸かっていたが、真冬の寒さは段々水温を奪っていく。由布子が素肌にガウンをまとい、ベッドに身を横たえたのは一時を回った時刻だった。
(今夜はもうかかってこないかも知れない…)
 コードをいっぱいに伸ばしてサイドテーブルまで持ってきた電話を、由布子は虚ろに眺めた。あと二秒早く受話器を取っていればと思うと、自分を殴ってやりたかった。拓はメッセージを残さなかった。またかけるつもりだったからだろう。であればそろそろリトライしてもおかしくないはずだ。面倒臭くなって眠ってしまったのだろうか。由布子は肺を全部吐き出してしまいそうな深い溜息をつき、両手で顔をおおった。カチリ、とデジタル盤が二時を知らせた、その時であった。
 ル、と空気が震えた。由布子は電光石火で受話器をつかんだ。耳に運ぼうとして指がすべった。受話器はサイドテーブルに落ちてはずみ、ガチャガチャと騒がしい音をたてた。つかみ直して耳にあて、
「もしもし!」
 思わず必死の声が出てしまった。回線の向こうの驚きが伝わってきた。
「なに、どしたの。由布子さん? もしもし?」
 拓の声だった。由布子の全身から力が抜けた。彼女は両手で受話器を包み、
「ああ…ごめんなさい。ちょっと手が…。すごい音したでしょう。驚いた?」
「驚いたっていうか…今、ベル、鳴った? 呼び出し音全然しなかったよ。」
「あ…」
 由布子は咄嗟に言葉を選んだ。今か今かと待っていたと、白状することを羞恥が拒んだ。
「…こっちはちゃんと鳴ったわよ。たまたま電話のそばにいて…。ううんそれよりもしかしてさっき、十二時ちょうどくらいにかけてきてくれた?」
「うん、かけた。…なに、いたんだあのとき。」
「違うの違うの。出ようとしたら切れちゃって…。ちょうど帰ってきたところで、ほんとにタッチの差だったのよ。」
「なんだ、そうだったんだ。俺、すぐ切っちゃったからね。ごめん。嫌なもんだよね出ようとして切れるのってさ。」
 由布子の胸に熱い波が走った。これほどの気遣いを彼は、どうして咄嗟に出せるのだろう。滲みかけた涙を振り払うように、
「ううんこちらこそ。でも留守電にメッセージ入れといてくれればよかったのに。もう二時よ。あしたのバイト、きつくないの?」
「ん、まあ…あれなんだけど…」
 彼は少し言葉を切ってから、
「ちょっと…さ、気になったからいろいろ。直接、話…したいかな、って。」
 由布子の心臓は全身の血液を、激しく流動させ始めた。頬がたちまち熱を帯びた。今しがたの寒々しい自虐心など、熱湯に落ちたドライアイスも同然だった。
「そんな。気にすることなんて何かあるの? そうだ、まだお礼言ってないじゃない。この前は本当にありがとう。あんなに楽しかったの久しぶりよ。」
「ほんとに?」
「もちろん。すごく楽しかった。誘ってくれて、ほんとにありがとう。」
 由布子は素直に、純粋な感謝をこめて言った。すると拓は、
「よかった、それ聞いて安心したよ。…ところでさ、こないだ言ってたあれ、陽介のプレゼント。何にするか決めた?」
「あ、あああれね。」
 現実に戻ると再び、溶けないビー玉をしゃぶっているような後悔が、喉と舌を圧迫した。だがもう、致し方のないことだった。由布子は思い切って言った。
「ごめんなさい…。日曜日、三時にアポ入っちゃって…」
「え? 仕事? 休みなのにまた?」
 短い復唱に、非難の調子はなかった。由布子は言い訳がましく弁解しようとしたが、拓は笑いを含んで遮った。
「いいってそんなの。それより実は久さんがね、今度の水曜日、キックオフをかねて店で夕食会やろうって言ってくれてるんだ。もちろん主役は由布子さんだから都合は合わせるけど、日曜はともかくこっちは大丈夫? もちろん陽介も来るよ。」
「夕食会?」
 由布子の声は弾みを取り戻した。水曜あたりはちょうど銀行の内諾待ちで、動きのない日になるだろう。
「うん、水曜は大丈夫。伺えると思う。」
「ほんと? そのために前の晩、徹夜しなきゃなんて言わない?」
「言わない言わない。日曜をのりきっちゃえば次の山は金曜。」
 しかし水曜の晩に陽介に会うなら、それまでに品物を用意しなければならない。由布子は考え、
「ねえ、買い物、月曜の晩は駄目? ほんの一時間で済むと思うんだけど…」
 だが彼は即座に、
「ごめん、俺、月曜日ってあかないんだ。スクールとか…あるから。」
「ああ、そうなの。ううんこっちこそごめんなさい。日曜日、ってあなた言ってくれてたのにね。」
 あらかじめ使える日を教えてくれていたのにと、由布子はまた自己矛盾を責めたくなったが、受話器を通した拓の声は、明るくけろりとしていた。
「いいって。仕事なんでしょ? じゃあしょうがないじゃん。それに陽介の好みなんて、あんまり悩まなくていいと思うよ。何もらっても喜ぶよ陽介は。女の人からの贈り物なんて、初めてじゃないかなあいつ。」
「女の人だなんて…陽介さんにしてみれば、あたしなんて女の人のうちに入らないんじゃないの? ちょうど十歳違うのよ。」
 言ってから由布子はしまったと思った。本当の歳をまだ、拓には言っていなかったのに。
「まあたそういうこと言う。」
 拓はしかし、逆に彼女をたしなめた。
「関係ないってそういうの。由布子さんはこだわりが多すぎるよ。歳だとか、そんなんじゃなくて。大事なのはやっぱ、その人自身じゃん? 俺はそう思うよ。」
 由布子の胸に、その言葉は滲みた。
「じゃあさ、水曜日にね。久さんの店で待ってるよ。いちおう七時開始ってことになってるけど、多少の遅刻は認めるから。それと陽介には、由布子さんがいいと思うものを選んでやってよ。きっとそれが一番だって。」
「そうね。うん、きっとそうよね。」
 由布子は言った。陽介の好みだけでなく、その前の拓の言葉に対しても、彼女はうなずいた。深夜二時過ぎ、回線を通して届いた声は、最後に『おやすみ』と穏やかに告げた。

第1部第2章その4へ
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