【 4 】

 日曜日、プレゼンが一通り終わった時、時刻は七時半になっていた。由布子の作った資料と説明に対し、馬場は異議なしだと言った。前回行っておいたインタビュウの内容に、彼はよほど好意を持ったらしい。先輩・新井のアドバイスは、ここでも効果を上げたわけだが、もっとも馬場の好意は由布子にとって、ひどくうっとおしいものであった。提案そのものを気に入ってくれたというより、男の興味は彼女本人に向いている。相手がクライアントである以上、礼儀正しく無視するしかなかったが、これを持続させるにはかなりの精神力を要する。しかし他に方法がないことも、由布子はよく承知していた。
「しかしたったの二日間で、よくここまでまとめたねえ。あの水野君が手伝ったわけじゃないんだろ? ほんとに感心しちゃうよ、女の人なのになあ。」
 馬場は店の従業員に淹れさせた三杯めのコーヒーを満足げにすすった。
「でもって銀行の方は? 問題なく借りられそうなの。」
「はい、おとといの晩、融資課に電話を入れておきました。先ほど頂いた委任状を添えて、あした申し込みを致します。内定が下りましたら銀行の正式な書類をお持ちしますので、直筆のご記入とご印鑑を頂ければ…。」
「ああそう。もう完璧だね菅原さんの仕事は。」
 馬場はカップを片手に計算書をめくって、
「それじゃ、金曜までにこっちで用意しとくのは、店の権利証と印鑑証明と住民票、それにこの金額でいいんだね。残りは全額銀行融資と。そういうことだね。」
「はい、お出かけ前で恐縮ですが、よろしくお願い致します。」
 由布子は深く頭を下げた。馬場はこれでよし、とつぶやいて資料を封筒にしまい、立っていって机の引き出しに入れた。ちょうどいい帰りどきである。由布子は書類ケースとバッグを持ち、腰をうかせた。が、彼は机から戻ってくる途中で、椅子の背にかけていた上着を手早くはおり、コートを取って腕にかけ、
「さて、じゃ、食事に行こうか。」
「えっ?」
 そんな約束をした覚えはなかったが、
「いやなに、せっかくの休みを仕事させちゃったからな。せめてものお詫びに席をとってあるんだ。ちょうど時間もいいし、さ、行こう。」
 彼は由布子の背中を軽く叩いて、さっさと事務所を出ていった。困りますと言うためにも追わなければならなかった。店を出たところで、馬場は空車を停めていた。
「あの、馬場様、そんな…。」
 軽い抗議の口調にも馬場は平然として、
「さあ乗って。クライアントの好意は素直に受けろって上司に言われてないの。客の顔を立てるのも大事な営業だ、ほら。」
「いえ私は…」
「それともこの後、何か予定ある?」
 由布子は思わず言葉につまった。その隙を彼につかれた。馬場は半ば押し込むように由布子を車に乗せ、一丁目の『西洋銀座』までと告げた。
 中央通りを直進し高速をくぐって、銀座の始まる地点でタクシーは停まり、馬場が入っていったのはレストラン『パストラル』であった。予約を告げテーブルに案内され、アペリティフを選んでしまったらもう逃げられない。気の進まないディナーが始まった。
 ナプキンを膝に広げた時、由布子は、こうなったからには食事とワインを楽しもうと心に決めた。嫌々食べては消化にも悪い。少しでも気持ちを引き立たせるべく、彼女は専門であるインテリアを見回した。グルメ雑誌に巻頭カラーで紹介されるような有名店ではなかったが、一丁目という場所柄もあいまってか、隠れ家を思わせるこの雰囲気は貴重かも知れない。しつらえは平凡だがまあまあの合格点で、それは料理も同じだった。
 馬場はひとり上機嫌で、いろいろな話をした。彼の態度は手慣れている。フランス料理にも女遊びにも、そうとう月謝を払ってきた男だろう。冷静な由布子に手応えを感じたのか、時おり、まるで猫が戯れに爪をかけるように、男女の話題を振ってよこす。しかし彼女は大塚とのことで、薬指にリングをしている男はもう懲り懲りだった。由布子は仔牛のローストを口に運びながら、今ここに坐っているのはクライアントであって、馬場という個人ではない、さっき馬場自身が言ったように、これは時間外の営業活動なのだと自分に言いきかせた。馬場はクロ・ド・ブージョで唇を濡らし濡らし、カナダの牧場がどんなに素晴らしいかを諄々と語り続けた。由布子はシルバーを皿に置き、顔を少しそむけてワインを飲んだ。手が切れそうに薄いガラスを、とろりとした赤紫の液体がつたうさまは美しい。豊かなブーケと濃厚な味わいは、『神様がビロードのズボンを穿いて咽喉をすべりおりていく』という、有名な比喩の通りであった。
 そうか、と由布子は思った。拓の雰囲気は、ボルドーの赤ワインに似ている。香りたつほどにあでやかで、だがことさらな粉飾はなく、深く滑らかに胸と心を満たし、酔わしめる。拓には甘美さとともに、犯し難い気品があるのだ。普通一般の青年たちと彼を画す明らかな一線は、美貌よりもむしろあの、品格に違いなかった。
(不思議なひと…)
 ワイングラスは天井のライトを反射し、由布子の掌の中で一瞬、スタールビーの輝きを放った。
 
 食事が済んだあと馬場は、由布子をバアへ促そうとしたが、言葉の途切れをうまくすり抜けることに、彼女は今度は成功した。慇懃無礼なほど丁寧に礼を言って、先導するように階段を下り始めると、馬場はおそらく苦笑しながら、後に続いてきた。パストラルがホテルのレストランであることが、いっそう由布子を警戒させていた。自意識過剰と思われようとかまわない。これ以上一緒にいて面倒な誘いを受ける前に、退散しようと彼女は思った。
「では金曜日の件、よろしくお願い致します。」
 歩道に出て由布子が言うと、馬場はコートを着ながら聞いた。
「送らなくていいの?」
「はい、少し用がありますので。」
「用? 用ってこれから? もう十時近いよ?」
「ええ、少しだけ。」
「ははん、さては彼氏のとこ?」
 笑いもせずに由布子は答えた。
「いえ、社に寄ります。」
「会社に? これから仕事する気?」
 咄嗟の嘘が以外に効いた。黙ってしまった彼にもう一度、
「では失礼いたします。どうもありがとうございました。」
 そう礼を言って、彼女は首都高の壁沿いを歩き始めた。
 山手線に乗り吊り革につかまって、由布子は外の景色を眺めた。ガラスに自分の顔と、どこへ行った帰りなのか、疲れた様子の乗客たちが映っていた。その向こうを建物の窓明かりや街灯、信号の光が水平に横切っていく。拓はどうしているだろうと彼女は考えた。由布子と会うために空けてくれたはずの今日を、彼は誰によって埋め合わせたのだろう。あの青年が声をかければ、大抵の女は飛んでいくに違いない。他の予定など全て放り出して、彼優先の時間を組み立てるだろう。彼にまつわりつく無数の女たちに、由布子は錐のような嫉妬を感じた。
 次で下りるらしい乗客が、由布子にぶつかって謝った。その声で彼女は我に返った。由布子は網棚に手を伸ばして図面ケースをつかんだ。さっき馬場に社に戻ると言ったのは、思いつきであり口実であった。だが由布子は唐突に、それを実行しようと決心した。拓との時間をあきらめた夜を、こんなに後味の悪いままで、終わらせるのはあんまりだった。クライアントの希望を今夜は通した。仕事ならしょうがないよと拓は言ってくれた。ならば徹底的に仕事をしてやる。このまま冷えきったアパートに帰るのは悔しかった。さりとて夜の一人遊びで、不夜城・東京シティに麻酔をかけてもらうのも、醒めたあとの虚しさを思うとやりきれない。優先させた仕事ならば、いっそとことんつきあってやる。バーの止まり木でブランデーを傾けるより、CAD機の前でキーボードを叩いてやろう。その方がきっと自分らしいのだ。拓が誰と過ごしていようと、その間だけは忘れていられる。
 由布子はいつもの自動改札を定期券で通り、オフィスの社員通用口にIDカードをくぐらせた。森閑としたフロアに明かりをともすと、四角い部屋は息を吹き返した。彼女はさっき終えたばかりの打ち合わせ資料を作業卓に広げ、たっぷりのコーヒーをマグカップに注いでから、上着を脱いでブラウスの袖をまくった。
「さてと、やりますよ!」
 声に出して由布子は宣言し、しばし仕事に熱中した。

第1部第2章その5へ
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