【 5 】

 水曜日、由布子は高杉の店を訪れた。長いこと上空に居座っていた寒気団が去り、多少寒さのゆるんだ夜であった。営業時間は通常十一時までなのだが、その晩高杉は約束の七時に店を閉め、由布子たちのための食事会に切り替えてくれた。もっとも一日に数えるほどしか客の来ない現状では、七時に閉めようと六時に閉めようと、苦情の出る心配はない。その点を拓に笑いながら指摘されると高杉は、
「なあに、リニューアルオープンしたら、一ケ月先まで予約でいっぱいって、そんな店にしてみせるからな。」
 テーブルの上にはビールやワイン、ボウルに山もりのサラダ、チキンバスケットとローストビーフに、カットフルーツまでが並べられており、店内には由布子の他に拓と高杉と陽介、高杉の妻の(ゆきえ)がいた。幸枝は拓が言っていた通りのコケティッシュな美人で、高杉より一つ下の四十五歳といわれても、すぐには信じられないほどに、若々しく快活な女性であった。
 その幸枝と高杉は、まだ何か出すものがあるのか、忙しそうに厨房とテーブルを行ったり来たりしている。手伝う、と由布子が言うと幸枝は、
「いいえ、もうすぐですからお座りになってて下さい。メインゲストに手伝わせるなんてそんなこと。」
「そうそう、座っててよ。」
 拓も言った。彼はカウンターの中から、脚の長いゴブレットを両手に逆さにぶら下げて持ってくると、そわそわと落ち着かない様子でテーブルに向かっている陽介の前に置き、
「ほら、そのナプキンでこれ、きれいに拭いてみんなに配れ。ビール用とワイン用と、一人二個ずつな二個ずつ。」
 拓は由布子の隣に腰を下ろし、自分もナプキンを取ってグラス拭きを始めた。はあ、と息を吹きかけて丁寧にガラスをこする、その表情の真剣さに由布子は見とれた。
「こんなもんで…いいすか。」
 陽介は拓の目の前にグラスを透かして見せた。
「よし、合格。その調子。」
「はい。」
 陽介は二個目にとりかかった。黙々と作業する二人に挟まれて由布子は、食事が始まる前に渡そうと思っていた例のプレゼントを、袋から出すことさえ憚られる気がしてやめた。やがて高杉は、大きな平たい鉄鍋を掲げてあらわれた。
「はあいおまーち。こちらが本日のメインでえす。」
 どん、と真ん中に置かれたのは、花火のように華やかに盛りつけられたパエリアだった。最後のグラスを磨きおえた拓は、手を伸ばしてワインボトルを取り、
「よし、それじゃ食おう食おう。由布子さんお腹すいたでしょ。俺も腹ぺこ。来てからずっとおあずけだもんな。」
 彼はスクリューをコルクの中央に当てて、注意深くねじこんでいった。パエリアが由布子の好物であることを、高杉も幸枝も知るはずはない。渋谷の『花車』に拓を呼び出した時、由布子が頼んだのがパエリアだった。彼はそれを覚えていて、そっと高杉に伝えたに違いない。あの晩アカデミックな黒一色の服だった彼は、今夜はモスグリーンのゆったりしたシャツを着て、コルク栓を抜こうと懸命になっていたが、
「なんであかねえんだよっ!」
 ボトルを目の前に持ってきて叱りつけた。高杉は、
「どれどれプロフェッショナルにかしてみなさい。あー、こりゃ駄目だわ。こんなに曲げて差し込んじゃって。これはね、できるだけまっすぐにねじこむのがコツなんですよお客さん。」
 拓は赤くなった手をぶらぶらさせ、
「いつのワインだよそれ…。そうとう古いんじゃないの? スパークリングは若いうちに飲まないとおいしくないよ?」
「馬鹿野郎、今日買ってきたんだ。」
 高杉は指を栓抜きにかけ、気合いを入れ、力をこめた。ポンッ!といい音がしてコルクは抜けた。高杉は片目をつぶって、
「な? ちょろいもんだろ拓。見たか? え? 見たか? 俺の実力を。」
「はいはいすごいすごい。いいから早くついでよ。」
「悔しがってやんのこいつ。…金と力はなかりけりってか? はい皆さんグラスを出して。」
「言ってろよ。」
 この二人のかけあいを聞いていると時を忘れる。一同は甘口のワインで乾杯した。食べて飲んで笑って、ひとしきり話が弾んだあと、幸枝が出してくれたアーリータイムズのグラスを手にして、拓は由布子に聞いた。
「ねえ、実際の工事はいつから入るの。久さんがオーケーすればすぐにもって言ってたけど。」
「ああ、そうそうそれがね…」
 由布子は手帳を取り出した。高杉たちも彼女の手元を注視した。
「本当は明日からでもとりかかりたいんですけど…ごめんなさい、材料手配に時間がかかりそうなんです。ここ一日二日ってわけにはいかなくて…。ええと来月の第一日曜が大安なんで、この日に着工できればと思っています。」
 それでいいか、と目で尋ねると、高杉はすぐにうなずき返したが、拓がぼそりと、
「第一日曜…」
 その口調が彼女は気になった。けれど高杉は嬉しそうに、
「大安ね! そりゃいいや。ええもううちは菅原さんの都合のいい時でかまいませんけどね、どうせなら日がいいに越したことはないし、うんうん、そうしましょうそうしましょう。来月の第一日曜。よしっじゃあそれまでにいろんなガラクタ片付けないとな。幸枝、お前もパートタイムの方をそろそろ引き上げてな。」
「ええそうね。わかりました。」
「陽介、お前もよろしく頼むぞ。力貸してくれよ。」
「はい。」
 三人に問題はなさそうだったが、拓は、
「ね、その日って、何すんの。」
「え?」
「その日にさ、もういろいろ、本格的に壁はがしたりとか、床塗ったりとか、しちゃうの。」
「ええまあ、それまでに高杉さんたちが片付けをしておいて下さるなら、どんどんとりかかっちゃおうと思うんだけど…。何かまずいの?」
「いやまずいっていうか… 俺、その日、駄目。」
「だめえ?」
 問い返したのは高杉だった。拓は、
「ごめん、言ってなかったっけ。スクールの発表会にちょうどぶつかる。前の日の土曜日から二日間。」
 確かに彼は前回この店で、来月早々に出展すると言っていた。『花車』で、それから東京タワーで話し合った、『雪柳で表現する彗星の忘れ物』。その発表会とあれば仕方ないだろう。
「ああ、そうだったんだ。じゃあ忙しいわね。」
「ごめん。」
 拓は片手で拝むしぐさをした。高杉はそれを横目で見て、
「なあに、いいよ来なくたって。ワインの栓ひとつろくに抜けない男に、来てもらっても役にはたたんわな。」
「どうもすいません、どうせ俺は非力です。」
 言いながら拓は壁ぎわへ立っていき、ソファーに投げてあったジャケットのポケットから何か出して、
「手伝えないって言ったすぐ後で悪いんだけど、はいこれ。ご招待チケット。こんなのなくても誰でも入れるけどね、この券持ってきてくれた人には記念品が出るから。はい由布子さん。陽介も。」
 渡された紙片を由布子は読んだ。『葛生高明フローラルアート作品発表会』とあり、葛生の作品らしい写真が印刷されている。場所はと見ると、何とホテルオークラだ。たかが、と言っては悪いが、内輪の発表会には過ぎたる会場だ。業界内の葛生の地位と人気は、これだけで十分推し量ることができた。
「ったく、ちゃっかり宣伝しやがって。勝手な野郎だ。」
 そう言いながら高杉の目は優しかった。彼は幸枝に、
「よし、じゃあ土曜日に行くか。先生の回りばっか人が集まっちまって、こいつが一人ぽつねんとしてたんじゃ可哀相だからな。せいぜいサクラやってやろう。」
「来て驚けよ。」
 彼は言い返し、グラスを干した。当日、この拓はどんな姿で会場に立つのだろうかと由布子は想像した。溢れる花々と着飾った女たち。毛足の長い絨毯の上で彼女らが囁きかわすのは、そこにいる一人の青年のことだけだ。白く輝く彗星を従えたアドニス。女たちの視線を一身に集める彼を目の当たりにして、果たして自分は平静でいられるだろうか。
「由布子さんも、来てくれるでしょ。」
 拓に問われた。由布子は想像の扉を閉じた。
「ええもちろん。行かないわけないじゃない。あなたの彗星がどんな風になったのか、ぜひ見たいもの。」
「彗星? 何だよ彗星って。そういうタイトルなのか?」
 耳ざとく高杉は尋ねた。拓は自分でバーボンのおかわりを作り、
「ま、それは見てのお楽しみ。由布子さんに少しアドバイスもらったからね。」
 彼は手をこちらに伸ばし、氷が溶けて薄くなった由布子のグラスを取って、アーリータイムズを注ぎ足し氷を加えて、軽くステアし戻してくれた。
「はっはあなるほどねえ。ああそれでわかった。由布子先生のアドバイスもらったなら、そりゃあ立派に出展できるわ。こいつが一人で考えたもんなんて、牛乳瓶に手当たり次第に花ぶっこんで、テーマは『混乱』です、なんてやりかねないからな。」
 高杉は声を上げて笑い、それから思いついたように、
「そうだそうだ陽介、お前も一緒に行くよな。それともなにか、一人で行くか?」
「えっ…」
 未成年なのでキリンレモンを与えられていた陽介は、困った顔をした。高杉はうんうんうなずいた。
「まあお前一人じゃな、何がまぎれ込んだんだって、オークラのボーイにつまみ出されるわな。じゃあ連れてってやるか。由布子先生のお陰でできた最高傑作だ。お前ものちのちの勉強のために見ておけ。」
「はい。」
 陽介はホッとしたように笑った。高杉は椅子を回して体ごと彼に向かい合うと、左手を彼の脳天にぽんと置いた。
「だから陽介、この頭、なんとかせい。」
 高杉の目は真面目だった。由布子も拓も陽介を見た。
「このまっ黄っ黄の絵の具で塗ったような頭、全然似合わんぞ。え? 今はいいけどなあ、俺くらいの歳になったらぜーんぶ抜けちまうぞ。第一ハタチになるかならないかで総白髪になっちまったらどうすんだ。ん? 悪いこと言わないから、ちゃんとトリートメントしてもらって、髪の毛に栄養やった方がいいぞ。」
 陽介は顔を伏せた。高杉は彼の頭をポンポンと叩いた。由布子はそっと拓を見た。ああ、あの晩と同じ兄の目をしていると由布子は思った。陽介はいつか、この年上の男たちの思いやりの深さに気づくだろう。いや、とっくに気づいているのかも知れない。二人への感謝をいつか、素直に表せる大人になるだろう。由布子はそこでようやく、プレゼントのことを思い出した。今がベストタイミングである。素早く身を屈めて袋の中から包みを取り出し、相談するように拓を見た。彼はすぐに意味を察し、渡せよとサインを送ってくれた。
「あのね、陽介さん。」
 由布子は呼びかけた。長い前髪の奥で彼は目を上げた。
「いつか…ほら、このあいだ、『裏長屋』で初めて会ったときに、陽介さんが折ってた箸袋、覚えてる? あれをね、実はお客様のお店の飾りに使わせてもらったの。溜池にある日本料理屋さん。私がプランニングしたのよ。陽介さんのあのオブジェをね、大きな和紙で作って、壁の飾りとして貼りつけるようにしてみたの。その提案を社長さんが、すごく気に入ってくれて。」
 陽介の体は椅子の上で、段々まっすぐになった。
「今、もう工事に入ってるから、でき上がったらぜひ見てみて。ほんとに日本らしくて素敵だから。」
いきさつを理解したらしく高杉は、
「へえー! そりゃすごいよ陽介。溜池なんつったら、あのへんの会社とか大使館とか、そんなところの客がワサワサ来るんだぞ! 社長が気に入ってくれたなんて、大したもんだ! 牛乳瓶にぶっこんでるような花とは訳が違うぞ。」
「でね、これは…そのお礼っていうか、アイデア料。」
 由布子は椅子を立って、両手で包みを差し出した。くすんだ赤色の包装紙に銀色の細いリボンがかかっている。
「はいっ、どうか、お受け取り下さい。すてきな作品をありがとう。」
 陽介は包みを見つめ、椅子の上でもぞもぞと体を動かした。どうしていいやらわからない様子の両肩を、高杉は後ろから抱いて、
「よかったなあ陽介! ほら、受け取れ! 何照れてんだ、ほい!」
 陽介は、まるでアームロボットのようなぎこちなさで包みを受け取った。唇が震えているのが由布子にははっきり見えた。
「どう…も…」
 彼は包みを膝に抱いた。
「開けさせていただきなさいよ、陽介くん。」
 高杉の隣で幸枝は言った。この場から逃げ出したいほど照れているだろう彼に、由布子はそこまで求めなかったが、意外なことに陽介はするすると銀色のリボンをほどいた。今度は由布子が緊張する番だった。結局月曜も火曜も日いっぱい時間がとれず、今日ここへ来る前に渋谷で見てきたその品物を、はたして彼は気に入ってくれるだろうか。何だって喜ぶよと拓は言ってくれたけれども、陽介くらいの年頃に由布子は全く知己がない。アイドルファッションには手も足も出なかったが、考えた末に由布子が選んだのは、灰色がかったブルー一色に、太い縄編み模様の入ったアンゴラのセーターであった。こういう大人っぽいデザインに、かえって憧れる年頃ではないかと思ったからだ。
「へえーっ! ほら着てみろ着てみろ! ああそんなこぎたないトレーナーは脱げ! せっかくのセーターが汚れるだろうが。」
 高杉に言われるまま、陽介はその場で後ろ向きになり頭からかぶった。サイズはちょうどいい。くるり、と振り向いた。思った通りだった。妙に年を意識して若向きな奇抜なものにするよりも、細面で整った顔立ちの陽介に、その色と太い縄編みは、あつらえたようによく似合った。拓もグラスを置き、
「うん、いいじゃん。陽介お前いけてるよ。めちゃくちゃいい男に見える。ああ、それな、もうちょっと…」
 拓は彼の隣に来て、
「襟は、こういう風にちょこっと出して。な? 袖はダブッとした感じにして…。うん。よしよし。似合ってる。ほうら。」
 乱暴に肩を抱き、拓は陽介を由布子の方に向かせた。陽介は目元を赤くして照れ笑いしていた。

第1部第2章その6へ
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