【 6 】

 その晩由布子と拓が、高杉の店を出たのは十二時近かった。陽介は高杉夫妻のすすめで泊まっていくことになり、中目黒駅へ向かったのは二人だけだった。多少寒さがゆるんだとはいえこの時刻、夜道はさすがに凍てついていた。暖まった体が吐き出す息は白く大きい。
「さっびー…。」
 拓はアーミージャケットの襟に顎を埋めて顔をあおむかせ、
「ねえ、オリオンだほら。すげえくっきり。」
 由布子もコートのポケットに両手を入れ、空を見上げた。
「本当だ…。大星雲もちゃんとわかるわね。」
「大星雲て、あの…オリオンの腰のとこだっけ? 短剣なんだよねあれ。」
「へえ、よく知ってるじゃない。」
「こっちっかわが…おうし座でしょ? 牛の顔のところにあるのがヒアデス星団で、背中がプレアデス星団。」
「すばる、ね。」
「うん。」
「夜空見るの好きなの?」
「なんで?」
「なんでって、詳しいから。」
「いや、あれだよ、彗星。彗星のアレンジするんで星座の本読んだの。だからにわか仕込み。」
「ふうん…。」
 由布子は彼の横顔を見た。その時どきに出会ういろいろなことに対して、この青年は決して手を抜かないのかも知れない。花なら花、星なら星、グラスを磨くならそのグラスと、どんな小さなことであっても、その瞬間ごとに真剣になるのだ。それら無数の本気はやがて、彼の内部にとりこまれ、蓄積され、時を経て香り立つ馨しいワインのように、彼を輝かせていくのだろう。歩く道の正面にオリオンはあった。そのくびれた長方形は、由布子にふと、遠い昔を思い出させた。今と全く同じ位置に、この星座はかかっていた。となりにいたのは誰だったろう。亡き母か、それとも仙台の叔母か。
「子供の頃にねえ…やっぱりオリオンを見てね、冬の空で一番目立つ星座じゃない。あのポツポツポツと並んだ三つ星がいやでも目を引くし。でもギリシャ神話なんて全然知らなくて、オリオンなんて名前も知らなかったから、その頃私、あの星のこと『ちょうちょ』って呼んでた。」
「ちょうちょ?」
「うん。だってそう見えない? 三つ星が体で、左右にちょっと角張ってるけど羽根があって、触角だってほら、小さいけどちゃんとあるじゃない。それであの大星雲は羽根の模様。冬になるといつも、ああ、またちょうちょが昇るなあって思ってた。地上には春までいないのに、真冬の空には大きなちょうちょがいるのよね。」
 由布子は一人で笑った。他愛ない思い出話のつもりだった。だが拓は黙っている。彼女は視線を空から拓に移した。
「ちょうちょ…。」
 拓はまるで新しい彗星でも発見したかのように、ややしばらく星座を見つめたあと、
「なーる…。そう言われてみれば確かにそうじゃん…。ちょうちょか…。」
 呻かんばかりに言って、重大決心さながらに、よし、と力強くうなずいた。
「決定。今夜からオリオンは廃止。あの星座はちょうちょと呼ぼう。命名・ちょうちょ座。決まり!」
 あまりにも大真面目な口調に、由布子はかえって面はゆかった。『なに馬鹿なこと言ってるんだよ』とか『あれがちょうちょ? 嘘だあ』とか、軽く反論してくるとばかり思っていたのに。いやいやそれとももしかしてと、由布子は拓の本心を測り、
「ねえ。」
「ん?」
「ひょっとして…からかってる?」
 拓は意外そうに、
「どうして。からかってなんかいないよ。だってあれ本当にちょうちょの形してるじゃん。わざわざギリシャ神話持ち出して、オリオンなんて呼ぶ方がこじつけだって。」
「そうかしら。」
 由布子はまだ半信半疑だった。すると今度は拓が、
「ねえ。」
「何よ。」
「もしかして…照れてる?」
 彼は由布子をのぞきこんだ。笑いは彼の目もとから、やがて顔中に広がった。
「由布子さんてさ…見かけと中身、わりと違うよね。最初は何ていうか、シャープで知的で仕事バリバリの、典型的なキャリアレディーかと思ったけど…けっこう照れ屋でしょ。照れ臭いからわざとクールなふりしてない? でさ、繕いきれなくなると、どうしてだか怒りだすの。違う?」
 由布子は答えなかった。答えようがなかった。
「さっきもさあ…陽介があのセーター着て見せてる間、由布子さんの方が真剣な顔してんだもん、心配になっちゃったよ。気に入ってくれなかったらどうしようって思ってたんでしょ。あそこで着てみせるの、陽介も恥ずかしがってたけど由布子さんも迷ったんじゃない? あとでこそっと開けてくれればいいのにって。まったく二人とも臆病なんだから。」
 拓にかかったら由布子の心など、ガラスの函と変わらないのだろうか。図星をさされた彼女は、せめてもの抵抗心で言った。
「なまいき言って…」
「年下のくせに?」
 ネットぎわでボールを叩き落とす、ブロックのような拓の一言だった。
「こないだも言ったけど、由布子さん、少しこだわりが多すぎるって。どうしてそうなっちゃうのかな。」
 もはや由布子は黙るしかなかった。いつしか駅前の横断歩道に着いていた。
「よし、もうひとつ決定。」
 渡りながら拓は言った。
「え? 何を?」
 聞き返したが彼は腕時計を見て、
「やべ、もうすぐ電車来るよ。ちょっと急ごう。俺、先に切符買っとくから。」
 そう言うなり走りだした。由布子も改札へ急いだ。二人はホームにかけあがった。ちょうどやってきた渋谷行きに間にあった。
「駅からは大丈夫?」
 ドアの脇の手すりにもたれて拓は言った。
「うん、深夜バスが出てるから。あなたは平気?」
「俺は余裕。」
「ならよかった。」
 渋谷に近づくと車体は、大きなゆるい弧を描いて左へ左へカーブする。その傾きに体を預けて、由布子は気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、さっきの…もうひとつの決定って何?」
「ああ、あれ。大したことじゃないよ。」
「大したことじゃないなら教えてよ。」
「うん…。だから、さ。」
 彼は髪をかきあげ、窓ガラスの上で由布子と視線を合わせた。
「こだわらなくて済むように、呼び方変えるよ。さん付け廃止。ゆうこはゆうこ。そう呼ぶことにした。」
 レールと車輪の擦れる音がした。鋼鉄同士がきしみあう熱は、ときに火花を散らす。電車は終点の渋谷駅に、長い銀色の体をすべりこませて停止した。ホームの屋根に覆われて左右に揺れる車体は、無事に一日を終えた安堵で、うつらうつらしているようにも見えた。
 南口まで由布子を送り、拓はJRの改札を指差した。
「じゃあ、俺、こっちだから。」
「うん。気をつけてね。」
「サンキュ。じゃあ行くわ。」
「お休みなさい。」
 由布子は彼を見つめて少しあとずさり、振り切るようにくるりと半回転した。行列の向こうにバスがやってきた。急ごう、としたその時、
「由布子!」
 耳に、その名が飛び込んできた。彼女は振り返った。拓は立っていた。しなやかな若鹿の肢体、肩に散る黒褐色の髪、天鵞絨(びろうど)の艶をたたえた瞳が、芝居っ気たっぷりのウィンクを送ってよこした。
「よし。…じゃあね!」
 拓は背中を向け、歩み去りながら手を振った。
「馬鹿…。」
 自分でも知らないうちに由布子は笑っていた。行列はバスに納まりかけていた。由布子が乗ったのは最後近くであったから、立ち位置は運転席のそばであった。バスは重たそうに発車し、246を右に折れた。曲がる時首都高の上に、大きな蝶が羽ばたくのを由布子は見た。

第1部第2章その7へ
インデックスに戻る