【 7 】

 金曜の契約は無事に済んだ。
 由布子が用意した書類全部に、馬場はぺたぺたと実印を捺してカナダへと発っていった。店舗インテリア改修、最終契約額は七百二十九万円。粗利益百五十三万円を、由布子は契約実績として計上した。
 翌日の土曜日、由布子はあいかわらず休日出勤した。月末のこととて出勤者は彼女だけではなく、CAD機の前には数人の同僚がおり、平日は喫煙厳禁のマシン室にも、もうもうと紫煙がたちこめていた。
「あらま、頑張るわねえ菅原ちゃん。」
 机で電卓を叩いていると石原がやってきた。マウス操作で肩がこったのだろう、腕をぐるぐる回している。
「へええ、きのう契約でもう発注書切ってるんだ。偉いわねえ。」
 石原は由布子の手元をのぞきこんだ。アンプリイズの利益計画書に紛れて高杉店のものが何枚かある。由布子はそれらを紙の一番下に押し込んで隠しながら、
「そんな、偉いなんて。…ほら、私この間、課長に怒られたじゃないですか、作業効率が悪いって。」
「ああああ、クソ親父にね。」
 石原は眉をしかめ口もとをゆがめた。彼女は浦部が大嫌いなのである。
「まったくあの課長、言うことはいつも一緒よお。『現場抱えてるからって新規契約をおろそかにされたんじゃ困るねえ』…困ってろっての。好きで契約取らない訳じゃないって。ねーえ。ほんとにイヤミなんだから。」
「そうですよね。」
 先輩に合わせつつ由布子は、わざと新規客を取るまいとしていた自分に、苦笑せざるを得なかった。石原は両腕を天井に突き出して伸びをし、
「さあて…もうちょっとやっちゃお。」
 言い残してマシン室へ入っていった。由布子はあたりをうかがって、高杉店の書類をそろそろと引き出した。
 アンプリイズの発注を急ぐのは、他ならぬ高杉店のためだった。会社には秘密のこの材料手配を、正規の仕事と同じように段取ることはできなかったが、会社に五年いれば彼女にも、懇意の業者の五軒や十軒はあった。由布子は高杉店の工事に使う材料…ペンキやクロスやボードなどを、アンプリイズの材料と同時に、同一業者へ発注することにしたのである。例えばアンプリイズでクロスが二十五u、高杉店で十uいるとすると、発注書を一枚ずつ書いて業者に渡し、二十五uの方は従来通り会社あてに請求書を発行してもらうのだが、十uの方は施主名未記入の『菅原扱い』として、支払いを別にしてもらうのだ。要は「会社を通したことにして、業者に安いレートで売ってもらう」作戦であった。一般客のレートと業務提携している法人レートとでは、じつに五%から十五%の差がある。何もアンプリイズに高杉分を上乗せして不当請求しようとか、業者に損させようとかいう訳ではないから、業者側の担当者が納得してさえくれれば、それで済む話なのである。由布子は発注先の業者にそれぞれ気心の知れた営業担当や経理課員がいることを確認しつつ、次々と書類を作っていった。
(高杉さんにはなるべく早く、支払いをしてもらっちゃった方がいいわね。)
 油断なく由布子は計画のあちこちを補強した。企業というのは未払伝票に対して、ことのほか神経質になる。万が一これが会社の耳に入ってしまっても、支払いさえ済んでいれば申し開きの余地はある。由布子はそこまで考えて、高杉店の着工準備を進めた。
 
 アンプリイズの実際の施工は、ホームイング・エグゼの下請工務店、『インテリア・齋藤』があたることになっていた。高杉店着工の二日後が先勝で、この日からアンプリイズは工事に入る。由布子は発注した全ての材料の納品先に、齋藤の倉庫を指定していた。由布子に鍵を預けられている齋藤の担当者は、改装のため休業中であるアンプリイズの店内に、せっせとそれらを運びこんでおいてくれた。
 着工を四日後にひかえ、由布子は高杉の運転するトラックでアンプリイズに材料を取りにいった。おそらく拓は出展の準備に大忙しであろうと、彼を通さず直接店に電話すると、高杉はさっさと自分でレンタカーの手配をし、助手席に由布子を乗せて、一路八重洲を目指した。
「しかし菅原さんも、けっこう大胆なことしますね。」
 ラジオから流れる音楽の切れ目に彼は言った。たぶん高杉は、『ある場所に材料を納品させてある。それを取りにいくから車を出してほしい』という由布子の依頼を聞いただけで、彼女がどんな手を使ったのかピンときてしまったのだろう。
「まあこちらがお願いしといてね、妙な言い方ですけども…あぶない橋はくれぐれも渡らないで下さいよ。他人てのは、隠しておきたいことに限って、興味持ってほじくり返すんだから。…まあまあこれは取り越し苦労、年寄りの冷や水ってやつかな。」
 一瞬、高杉が別人になったような気がして由布子は黙った。拓や陽介と一緒の時には全く感じなかった雰囲気、いわゆる本性というか、あるいは底力のようなものを、由布子は高杉の上に見た。船乗りだった高杉がくぐってきた水は、無色透明の素ッかたぎではなかろう。陽介をなぶっていたチンピラ五人を、そういえば高杉は一人で叩きのめしたのだ。敵に回すと怖い男かも知れないなと由布子は思ったが、彼はすぐにいつもの洒脱な口調に戻った。
「なあに、なんかまずいことになったら言って下さいよ。『秘書のやったことだ俺は知らない』なんてね、そんなどっかの国の政治家みたいな真似はしませんから。いやいやもちろん、何のまずいこともないと思ってますけどね。菅原大先生のことだ、手ぬかりはないでしょう。でもまあ昔から言うじゃないですか、『いつまでもあると思うな親と金、ないと思うな運と災難』。石橋を叩いて壊す馬鹿力。あれっそんなのない? 何言ってんだかわかんなくなってきましたねえ。」
 高杉はからからと笑い、赤信号に気づいて急ブレーキを踏んだ。二人の体はシートベルトを伸ばして前にのめった。
「おおっと失礼…。危ない危ない。馬鹿話してるとこれだ。いくら大先生と私はとっくに一蓮托生だっていっても、こんなとこでこんなおっさんと心中すんのはまっぴらでしょう。見目麗しい美青年ならともかくね。」
 高杉は青信号を待ってギヤチェンジし、突然言った。
「由布子さん…あいつのことどう思います。」
「はい?」
「あいつのこと。拓のことですよ。」
「拓の…?」
「あいつ自分のことあまり話さないでしょう。由布子さんも多分、人の世界に土足でずかずか上がりこむようなことのできないタイプだろうし…。ま、遠慮なく踏み込むような女なら、あいつもさっさと遠ざかるだろうけどね。」
 由布子は高杉の横顔を見守った。息苦しいほど、その先が聞きたかった。由布子は拓についてほとんど何も知らない。プライバシーをつつき回す趣味はないつもりだが、高杉が話してくれるというなら、どんなことでもいい、彼を知りたかった。拓が高杉を身内のように信頼しているのは見ていればわかる。拓の本名、家族のこと、これまでの人生のこと、通りすぎてきた女たち、中でもあのバアで会った女のこと…。由布子の心を占めながら、拓は自分を語らない。また彼女についてを尋ねてもこない。由布子は拓との間にある、厚いガラスの垣根を感じずにはいられなかった。
 由布子は自分で思っているより真剣で切羽詰まった表情になっていたのだろう、高杉は参ったなといわんばかりに苦笑し、
「いえ私だってね、そんなに聞かされちゃあいないんですよ。口の重い男だからなああいつ。声はりあげるとわりと甲高くてね、よく通る声してるくせに、普段話すときはあの、ぼそぼそした調子でしょう。私があいつのこと知ってるより、あいつの方が私のこと絶対知ってると思いますよ。」
 そうかも知れなかった。高杉が船乗りだったことを由布子は彼に聞いたのだし、であればこそ店のプランニングが、納得のいく出来になったのだ。
「ま、ひとつだけ確かなのはね。」
 高杉は笑いを消した。
「あいつ…他人の気持ちに敏感ですよ。それでいろんなことに気が回ってね。知らん顔して黙ってるくせに、全部ちゃんとわかってる。そんな奴ですかね。」
 高杉はそこで意味深な目つきをし、
「だけど、女性に関しては存じませんわ。それに関しましては私め、何とも申し上げられません、ハイ。」
「そんな…」
 あまりにも高杉の表情がおかしくて、由布子もつい笑ってしまった。
「まあ俺から見てもいい男だと思いますけどね。下向いて何か考えごとしてて、『えっ?』て目上げた時なんか、思わずドキッとしたりして。確かに女が放っとかないっちゃあ、そうかも知れませんけどね、現実問題として具体的に、実際のとこはどうなんだか。」
 うまく濁したなと由布子は思った。つまり特定の女がいるのかいないのか、わからないということではないか。一番知りたいのはそれなのに…しかし、知りたくない知らせないでくれと、耳をふさぎたい気持ちも半分であった。高杉は女心の複雑さを見抜いて、わざと玉虫色の表現をしたのかも知れない。やがて溜息混じりに、高杉はこう言った。
「だけどあいつを、本当に包みこんでやれる女は、そうそういないんじゃないかなあ。あのゴージャスな外見に魅かれて、街灯に群がる羽虫みたいに寄ってくる女はいるんだろうけど…。あいつはけっこういろんな思い、くぐってきてると思いますからね。さもなきゃあの若さで、あそこまで人の気持ちは読めないでしょう。泣いたことのない人間に、他人の心なんてわかりゃしません。何年生きてたってね、人の痛みは自然にわかるもんじゃなし。…ところでぼちぼち八重洲じゃないですか。」
 高杉はいきなり口調を変えた。由布子はあてどなく漂わせていた視線を前方に絞り、
「ああ、ええと…この先の、二つ目の信号を左です。」
「はいはい。」
 四トントラックはアンプリイズの裏口に停車した。用意してきた大型の台車で材料を荷台に積み込む、その重労働でこの話は尻切れに終わった。高杉が真に何を言いたかったのかわからないまま、由布子は彼と別れて帰宅し、疲れきって眠った。

第1部第2章その8へ
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