【 8 】

 ホテルオークラ正面玄関前に由布子のタクシーが停まったのは、発表会一日目の土曜日、午後四時過ぎだった。
 東京都千代田区虎ノ門にあるこのホテルは、場所柄各国貴賓の利用が多く、国際的にも一流を謳われる、日本有数の大ホテルであった。タクシーを下りるなり由布子は、建物全体に満ちた気位の高さに武者震いした。背筋を伸ばし、ひとつ息を吐いて、彼女はスエードとエナメルの爪先を、回転ドアにすべりこませた。
 空気が変わった。何かで圧縮されたように、世界がずしんと重くなった。この、広いけれどどこか毅然と律されたロビーの中央で、人間の本質は地位や財産では計れないと力説しても、その声は笑殺され切り捨てられるに違いない。財力もまた人間の価値のひとつであり誉れであると、無言で納得させるだけの力を、この空間は持っていた。
 由布子は、長めのプリーツスカートを翻して勢いよく歩いた。去年の冬につくった黒と銀鼠(ぎんねず)の、ディオール独特の切り返しのスーツが、彼女の自尊心をかろうじて支えていた。空間に圧倒されてオロオロとまどう姿など、人前で晒したくはなかった。彼女は無事ロビーを横断し、エレベーターにたどりつくことに成功した。
 目指すフロアで由布子は下りた。『蘇枋(すおう)の間』への矢印を探すまでもなく、生きた花の匂いが由布子を導いてくれた。厚いドアが大きく開け放たれており、脇に『葛生高明フローラルアート作品発表会』と墨書された受付があった。由布子はひとまずホッとして、拓にもらったチケットを振袖姿の受付嬢に渡した。芳名帳に名前を書き、グリーンの和紙でラッピングされたキャラメル箱ほどの小さな包みをもらってから、由布子は会場に足を踏み入れた。
 あちこちのテーブルに花が溢れていた。ちょうど結婚披露宴のように、フロア中にテーブルが並べられ、その間をぬって招待客や一般客、関係者および報道陣がゆっくりと移動していた。テーブルの上には生徒たちの作品が、天井に届きそうな巨大なものから、横長のテーブルに長々と伸びたもの、こんもりとまとまった小さなものまで、ざっと見て五十点ほどが展示されていた。うごめく人間たちは思いがけない多さだった。おそらく二百人近いであろう。由布子は花影を辿り辿り、拓の姿を探した。
 作品はみなテーマごとに固まって並べられているらしい。作品の前にはタイトルと作者名を記した、小さな白いプレートが立てられていた。目の前にあるヒアシンスのアレンジには『春の夜の夢(あけぼのの空)』、その隣のカンガルーポウには『春の夜の夢(予感)』のプレートが置かれている。拓は確か、『彗星』と『春の夜の夢』と『走る雲』が、制作テーマだと言っていた。右に、左に、彼を求めて視線を動かしているうち、由布子は花々の海に落ちて、溺れているような錯覚にとらわれた。
 作品の見事さは驚愕に値した。生け花とは全く違う、自由で斬新なアレンジには、作者ひとりひとりの強烈な個性を、主張して倦まない強さがあった。原色の油絵のような作品もあり、墨絵を思わせるはかなげで繊細な作品もあり、それらはこの会場の中で高らかに名乗りを挙げつつも、不思議と破綻のない、交響曲的な調和を醸し出していた。
 大きな壺に溢れた白いチューリップの角を曲がった時、由布子の目は一枚のプレートをとらえた。『彗星(はるかなる天)』。この一隅に彗星作品がまとめられているならば、当然近くに拓はいる。そう思って顔を上げると、十メートルほど離れた壁のそばに、何やら人が集まっているのが見えた。一つ二つフラッシュが光った。人垣が動き、真っ赤なセーターがのぞいた。協会美術賞受賞記事に載っていたのと同じ、葛生高明の顔だった。実物もやはり色白で起伏の乏しい、女性的な顔立ちの男であった。記者たちに取りまかれ、葛生は満足げに笑っている。何となく眺めていた由布子は、葛生が、隣に立っているダークブルーのスーツの肩を、ポンと叩くのを見てハッとした。葛生よりも頭半分背の高い彼は、カメラを避けるように顔を伏せ、両手をズボンのポケットに浅く入れて前屈みになり、葛生の言葉にうなずいていた。長い髪が左右から垂れて顔を隠してはいたが、見まごうはずがあろうか、拓であった。
「ええ、この会場の配置も照明も、ほとんど彼の意見を取り入れたんですよ。」
 自慢そうな葛生の声が耳に届いた。
「もうねえ、生徒っていうよりは僕の右腕かも知れない。本当に、得難い素質だと思います。」
 またフラッシュが光った。拓は胸の前で手を振って、葛生に何か言っていた。声まで女性的な葛生とは違い、拓の言葉は全く聞こえない。だが彼が決してその取り巻きを喜んでいないことが、由布子には伝わってきた。彼は助けを求めるような表情でこちらを見た。由布子は彼の正面にいた。拓は、あっ、という顔になり、回りに何かを言いながら、もう足を動かしていた。
「ごめんごめん。いつからいたの。」
 小走りに、彼は由布子のところへ来て、スーツの上着のボタンをはずし、二〜三度髪をかき上げた。
「まいっちゃったよ。先生と話してたらなんだか囲まれちゃって…。俺、苦手なんだよねああいうの。水着モデルじゃないんだからさ、男の写真撮ってどうすんだって。」
 拓は、参った参ったとぶつぶつ言いながら、ワイシャツの袖口に隠れていたゴムで髪を一つに束ねた。会場には人いきれがしており、少々汗ばむほどだったからだろう。彼のカフスはボタンではなく、本式にピンで留められていた。由布子は、見通しがきくようになった彼の肩ごしに、葛生たちの方を見て言った。
「でも…平気なの? 先生のお許しもらったの?」
「お許しって?」
「抜けてきちゃって、よかったの?」
「ああ平気平気。そんなことよりさ、俺の彗星、見てくれた?」
「ごめん、まだ。どこにあるか探してたところ。」
「なんだまだなの? まっ先に見てくれないと困るな。来て、こっちだから。」
 拓は先に立って歩いた。ドアから入っていきなり正面に、彼の作品は展示されていた。由布子が会場に入った時ここには、確か数人の外人客がいたのだ。大柄な彼らを敬遠して、素通りしたために見落としたのである。普通なら会場に入るなりいやでも目につく特等席。ここへの展示は破格の扱いだろう。低めの丸テーブルの上に、鱗粉をまぶしたような焦茶色…銀煤竹色というのかどうか、そういう色の立方体をいくつも組み合わせた、アメジストの原石を思わせるオブジェがしつらえられており、その一番高いところに、大きな球形の花器が置かれていた。オブジェと同色のその花器は、使いこむうち七色に変化するという萩焼ではなかろうか。そこから雪柳のひとえだが、斜め下へ逆『つ』の字を描いて流れ落ちている。枝にびっしり付いた蕾は、ほとんど開いていなかった。
「どう、かな。いちおう、かなり考えて作ったんだけど。」
 尋ねる拓の声は、自信のあるような、さりとて不安でもあるような、微妙な響きを帯びていた。
「最初はさ、『彗星の忘れ物』で考えてたでしょ。でも実際にものづくり始めたら、なんていうかな…インスピレーション湧いてきちゃって。我を忘れるっていうか…すごい、作ってて感動したもん、俺自身が。」
 白く太い尾を引く彗星が、燃えさかる太陽に身をよじるさまが浮かんだ。彗星の核は氷だという。人間の単位では測れない長い時間を旅してきた氷塊は、自らを砕き、溶かし、消滅させる力を持った火の球に向かって、まるで恋焦がれるかのように突き進んでいく。太陽の腕に抱きしめられる、その一瞬のために破滅さえ忘れ、怖れることもなく。
 由布子は言った。
「これは…彗星の姿じゃなくて、心なのね。」
「うん…。」
 短く応じた言葉に、共感の手応えがあった。由布子は拓の意図が、自分の感想と等しいことを知った。
「彗星は、太陽に飛び込みたくて、でも太陽はそれを拒んで。」
「うん。」
「だからこの花器を使った。銀煤竹に、一点だけの滅赤(けしあか)…」
「うん、これね、葛生先生のつてで使わしてもらった。なんか、名のある、すげえ高いやつみたい。保険掛けたって言ってたもん。」
「花器の色に合わせて、このオブジェも作ったのが正解ね。さすがっていうか…これなのね、スペースアート、空間の演出。」
「うん。もうね、これのせいでおとといからスクールに泊まり込み。この色って水彩にも油彩にもないしさ、それに、普通の上質紙だとライト受けるとテカっちゃうんで、これね、障子紙を岩絵の具で染めたんだよ。」
「岩絵の具…。」
「おかげで、手の皮ぼろぼろ。しかも濡らしたまんまでずっと作業してたから、…見て。この平成の世に、俺の手、ヒビ切れちゃってんの。」
 拓は指を広げ、両手を由布子の前につき出した。手の甲全体が、地図のように血を滲ませて硬くなっていた。ほら、と返された指の腹は、真皮まで赤くむけており、薄皮は白く破れて、皮膚病のように無残であった。由布子はその指先を自分の両手に包んで、思うさま口づけしたい衝動を殺した。口づけだけではない、ブラウスの襟から彼の手を、心臓の真上に押しあてさせて、動脈の熱で癒すことができたら。それが自分に許されているのなら。…だがその時、
「やあ、悪かったね、拓。」
 まっかなセーターが、取材陣からのがれて二人のところへやってきた。拓は姿勢を正し、頭を下げた。
「いえ、僕こそすみませんでした。招待した人が来てくれたものですから。」
「ああ、ようこそいらして下さいました。」
 葛生は由布子に笑いかけた。近くで見るとますます女性的な顔をしている。これで髪を伸ばしてパーマをかけたら、人妻といっても通るかも知れない。額に刻まれた幾筋かの皺は、おそらく五十代のものであろう。
「あ、ご紹介します。」
 拓は二人の間に立って、まず、
「こちらが、葛生先生。フラワーアレンジだけじゃなくて、華道のこととか、フランス文学のこととか、いろいろ教えてもらってる。でもって…こちらが、」
 今度は葛生の方を見て、
「今回僕にアドバイスをくれた、菅原さんです。」
「初めまして、葛生です。」
彼は右手を差し出した。さすがに垢抜けた仕種だった。由布子は彼の手を握り、
「こちらこそ、いつもお話はうかがっております。素晴らしいアレンジをなさる先生だと。」
 ビジネスライクに言った。葛生は拓に、
「このかただね? 小手毬より雪柳にしろって言ってくれたのは。いやいいセンスをしてらっしゃる。」
 再び由布子に向き直り、
「でも苦労しましたよ。この季節に雪柳でしょう? 簡単には手に入らない。これ…どうしたと思います。雪柳、しかも咲きがけの。」
 雪柳が自然に咲くのは四月、染井芳野の満開時か、それより少し後だ。元来が庭木であり、作っている農家も多くないだろう。
「じつはね、なんと宮古島からの空輸ですよ。その代わりいい枝でしょう。ここまで長いのはなかなかないんだ。素晴らしい作品に仕上がりましたよ。来月号の『月刊フローラル』の表紙を飾ることになります多分ね。この発表会の様子も特集グラビアに載りますよ。…君の写真もね。」
「いえ先生、それは…」
 拓はまたさっきと同じように胸の前で手を振った。葛生は苦笑し、
「だからどうして嫌なの。ビジュアル面でも君はインパクトあるよ。三流雑誌の投稿欄じゃあない、れっきとした専門誌だ。うまくすれば仕事の依頼だってあるかも知れない。いいチャンスじゃないのか?」
「いえ…僕の写真は困るんです。作品が紹介されるのは嬉しいんですけど…。」
 葛生は腕を組んで、
「そう、そんなに嫌? じゃあ僕から編集長に載せないよう頼んでおくけどさ、しかしもったいないなあ。」
 葛生は拓を見つめて溜息をついた。才能ある若手を慈しむというより、もっと肉感的な好意を、由布子は彼の眼差しに捕らえた。
 そこへ、あわだたしげに一人の男がやってきた。葛生の耳もとに口を寄せ、
「先生、済みません、来週の撮影の件でTBSからお電話なんですが、至急とのことで…」
「至急?」
 葛生は眉をしかめたが、仕方ない様子で、
「じゃあ菅原さん、ゆっくり見ていって下さい。…拓、七時半にベル・エポックだよろしく。ああ、それとね。」
 行きかけて葛生は立ち止まり、拓の肩に手を置くと、
「髪は、下ろしていなさい。その方が君は魅力的だ。」
 そう言って立ち去っていった。

第1部第2章その9へ
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