【 9 】

「ベルエポックって…レストランの?」
 拓は束ねたばかりの髪をほどき、首を振って落ち着けながら、
「さあよく知らないけど、そうなんじゃないの。どっかのお偉いさんの接待らしい。何で俺が同席すんだか、でも先生にそうしろって言われたらさ、まあ、これも経験かなって。」
「でもすごいわね。フローラルの表紙でしょう? なんで写真が嫌なの? あなたの夢に、一歩近づくかも知れないじゃない。もしかして恥ずかしいの?」
 由布子はからかいかけたが、拓は笑いもせずに人差し指でネクタイを緩めた。
「そんなんじゃないよ。ただ嫌いなだけ。写真ってさ、魂抜かれるって言うじゃん。くわばらくわばら。君子危うきに近寄らずだよ。」
「魂なんて…いやあね、何世紀前の話よ。」
 由布子はテーブル上のプレートを見た。拓の作品には『彗星・終(つい)の夢』とタイトルがつけられ、作者名にはわずかに『T・K』とだけ記されていた。
(T・K…)
 イニシャルだけの作者名。他の人間はみなフルネームなのに、彼はそうしていなかった。不審に思いかけた由布子の、気をそらそうとでもするかのように、
「ね、これさ…ちょっと見てほしいんだけど。」
 拓は由布子を『走る雲』の作品群に連れていった。これ見て、と指差されたのは、浅葱色の平たい水盤にぎっしりいけられた菜の花であった。水盤の水も見えないその作品には『走る雲(いちめんのなのはな)』と名前がつけられている。山村暮鳥の詩をイメージしているのだろう。
「これが、さ。俺と先生とで意見違うんだ。先生はこれでいいって言うんだけど、俺は…どうも、いまいち納得できなくて。」
「納得できないって、どこが?」
「うん…」
 拓は首をかしげ、テーブルに片手をついて、
「なんか、多すぎない? つっこみすぎだよ。一本一本の長さも揃いすぎだし、こんなに葉っぱ落としちゃったらわざとらしいし。菜の花って実際はもっとまばらじゃない? でも遠くから見渡すと、海みたいに波打って見える…。」
「まあ…確かに実際はそうでしょうけど、でも、そのいちめんの菜の花を、これだけの小さな水盤で表現しようと思ったら、こういう形になったんじゃないの?」
「あ、それ、先生と同じ意見。」
 拓はテーブルから二〜三歩下がって腰を屈め、両手でファインダーの形を作って片目でのぞいた。
「真横から見ればそうなんだけどね…そうすると走る雲じゃなくならない? 雲雀(ひばり)がさえずっててさ、風が吹いてて、あーっ春だなーってこう、伸びをしたくなるような、そんな気分を表すにしては重たいよ。」
 拓は、頭上に青空があるかのように体を伸ばした。雲雀の声をのせた春色の風が一瞬、幻の空から吹きつけてきた。その風は由布子の心に、なつかしい景色を思い出させた。川原には若い緑が溢れ、太陽は日一日と輝きを増している。厚手のタイツを脱ぎ捨てれば、そのとき春は始まる。わずかに頼りなさを感じている素脚を、スカートの裾が笑うように撫でていく。裸足で踏みしだく草の匂い。組んだ手を枕にして寝転がると、声だけになってしまった雲雀の、楽しげな独演会に出会う。海とも川とも違う大空の色。綿雲が走る。鳥の形になり魚の形になり、仔犬やくじら、怪獣にロールパン…。弾む心をなおも加速させんばかりに、次々紹介される大空の展覧会。うっとおしい冬を投げ捨てて、心のままに羽ばたいていける、あの弾力こそが春のエネルギーだ。春と弾条(ばね)をともにSPRINGと呼んだ、この英単語の感覚は枕草紙にひけをとらない。
 そこでひるがえってこの作品にたち返ると、由布子は拓の意見にうなずかざるを得なかった。形式にとらわれ、表現の鎖に縛られて、冬の壁を突き破ってくるあの風の自由闊達さには、ずいぶん遠くなってしまっている。
「大したものね、あなたは。」
 しみじみと由布子は言った。さっき小耳にはさんだ葛生の台詞、『生徒というよりは僕の右腕』は、あながちお世辞ではないかも知れない。この蘇枋の間全体を豊かに調和させている感性が、もし葛生というより拓のものだとしたら、彼が持っているのはまぎれもなく、天賦の才といえるだろう。
「ちょっとイメージ違うんじゃないか、って先生に言ったらね、じゃあ俺ならどうするかラフスケッチにしてみろってさ。だから今度、この発表会終わったら描いてみようと思うんだ。菜の花を使った『走る雲』、俺なりのね。」
「私も見たいわそれ。描いたら見せてくれる?」
「いいよ。」
 拓は言い、一息おいてから、
「そうだ、先生の作品、見た? やっぱさすがすごいわ。ほら、あれさ。」
 二人はその前に立った。ホールの中央、テーブル一つ分の広さを全部使った大作だった。極彩色の花々がそれぞれ何を表現しているか、拓は指さして説明してくれた。的確な彼の言葉に納得しながら、由布子は複雑な想いであった。芸術家である葛生は、人間に対する独特の嗜好を持っていても不思議はない。あの女性的な雰囲気が何を物語るか、拓はわかっているのだろうか。愛弟子、に注ぐよりも強い情念の視線。精神愛と併せてなお強烈な肉欲を、葛生は拓に感じているかも知れない。
(このひとを好きになったら、世界中がライバルなのかしら。)
 由布子は思った。銀座四丁目で騒いでいた女学生たち、蘭を抱えていた毛皮の女、ジョセフィーン・ブルースを買いに来たジャガーの男、神南のバアで会ったあの女、そしてまた葛生高明。この青年を独占しようと思ったらきっと、鉄の神経なくしては耐えられないのだ。
「どうかした?」
 拓は聞いた。由布子は胸の靄をはらいのけ、
「ううん何でもない。あんまり豪華なんで圧倒されちゃった。見事よね。色彩の饗宴って感じ。そう、スターマインみたい。使ってない色はないんじゃない? 赤、青、黄色に紫…」
「…でも、逆説的だけどさ。その服でこの前に立つと、なんかぴったりだよね。」
 いきなり服の話で、由布子は正直うろたえた。
「黒とグレイ。うん。どこにも他の色使ってないのがかえっていいじゃん。コンセプトはブラック・イズ・ザ・ベスト?」
「やだ、やめてよ恥ずかしいから。」
 謙遜ではない。本当にそこまで考えてはいなかった。ホテルオークラに堂々と着てこられるオートクチュールは、何を隠そうこれ一着だったにすぎない。しかし彼の言う通り、色彩が氾濫するこの会場で、由布子の衣装は効果的であった。
「由布子にはさ、渋い色の方が似合うね。ピンクとかオレンジより、その方が色っぽい。」
 拓はそう言って笑いかけた。ネクタイをゆるめた喉もとを、髪のひとふさが覗きこんでいる。上手なんだからと言い返すよりも早く、由布子は耳たぶに血が昇るのを自覚してしまった。葛生の作品をもう一度よく見るふりをして、顔をそむけるのがせめてものカムフラージュであった。
 そこへ、先程葛生を呼びに来たと同じ男が、
「失礼…お話中申し訳ないんだけど。」
 彼は由布子に会釈してから拓に、
「先生がお呼びだ、池坊本宗家のお出ましだからすぐ来いって。」
「え? 俺が? いいですよ別にそういうの。俺が行って何するんですか。」
「知らないよ。とにかく来てくれ。」
「でも…」
 渋る拓に、由布子は言った。
「ねえ、お行きなさいよ。私だったら平気。もう少し見せて頂いて、そしたら帰るから。ね。」
 拓の気持ちは、彼女への気遣い半分、本当に面倒臭いが半分だろうと由布子は思った。気遣いだけは取り除いてやりたい。拓は彼女を見、やれやれと溜息をついてネクタイを整え、上着のボタンをとめた。
「ごめんね、じゃあ行くわ。あしたよろしく。あ、昼間、久さんたちにはよく謝っといたから。そうだ、陽介の奴ちゃんとこないだのセーター着てきたよ。でね…」
 去りぎわに彼は、言い残したことをいっぺんに伝えんとばかり早口になり、だが最後で言葉を止めた。彼は意味ありげに笑った。
「…あした会ってのお楽しみ。多分びっくりするよ。」
「おい、早く。」
 葛生の使者は彼をせかした。拓は歩いていき、客たちにまぎれて見えなくなった。極彩色の花の前に残された由布子は、朽ち木にあいたうろのような寂しさを、騙すことのできない自分の胸に感じた。拓が去ってしまった会場は急激に色褪せ、水晶のシャンデリアさえ寒々しく思えた。今や押しもおされぬ第一線のフラワーアーティストである葛生。池坊本宗家。きらびやかな名を持つ人間たちは、由布子の手の届かないところへ拓を連れて行ってしまった。ガチリとかけられた閂(かんぬき)の前で、由布子になすすべはなかったのである。
 目を輝かせながら夢を語る拓を、由布子は素晴らしいと思い、愛しいと思った。しかしその夢が翼となって彼を空高く舞い上がらせてしまったら、羽ばたきを知らない自分はやはり、彼を見送って泣くだろう。これもまた大いなる自己矛盾であった。由布子はもう一度拓の、『終の夢』を見に行った。
 時季外れの雪柳は、会場の熱気によってか、さっきよりも一つ二つ、開いた花の数を増やしたようであった。由布子は花房をさかのぼって、萩焼の器を注視した。名のある器だと拓は言ったが、そうであろう。釉薬(うわぐすり)の加減でえもいえぬ微妙さを出すのが萩焼の特徴だ。かたくなに想いを拒む寂しい太陽。この花器はまさにそんな雰囲気を持っていた。
(太陽はいったい、誰を愛しているんだろう…)
 何気なく思った瞬間、由布子の頭の中で、ハンドルを握る高杉の言葉と、神南のバアで苦しげに指を噛んだ拓の姿とが交錯した。
『だけどあいつを、本当に包みこんでやれる女は、そうそういないんじゃないかなあ。』
 高杉はその言葉を由布子に突きつけたのではないか、さながら鋭い短剣の如く。高杉は言いたかったのかも知れない。お前は彼の何を知っている? 単に彼の外見に魅かれ、一人よがりに欲情しているだけに見えるが違うのか? あの青年を理解し、愛し、命懸けで包みこんでやれるのか?
 由布子は、拓が去っていった方を見すかした。もういるはずもない彼の、革のジャケットもカシミアのスーツも、十分に着こなせる広い背中を由布子はそこに描いた。女たちを、それに感受性の強い一部の男たちをも、魅了してやまないあの青年は、もしかしたら誰よりも深くて暗い、孤独の中にいるのではないか。漆黒の宇宙でただ一人、膝を抱える拓の後ろ姿を、彼女は無意識に思い浮かべた。浮かべるなりたちまちにその上を、思い出したくない暗闇が覆いつくした。由布子は身震いし、両手で自分の肘を抱いた。
 …父親が家を出ていった時、由布子はまだ小学生だった。ある晩、夜中に目が覚めた。胸騒ぎがして、二階の自室から足音を忍ばせ階段を降りた。手すりの上に首を伸ばして玄関を見た。由布子はその場に凍てついた。父がドアを開けたところだった。もう帰って来ない…父の背はそう告げていた。お父さんどこへ行っちゃうのと呼び止めることも、泣きながら追いすがることも彼女にはできたが、無駄だ、と遠くで声がした。扉は静かに閉められた。どんなに求め泣き叫んでも、父は二度と自分を受け入れない。暗闇の中、階段にしゃがんで、由布子はそれを悟ったのだった。
 
 みぞれを降らす雲のような重さを胸に抱えたまま、由布子は会場を出、建物を出た。空に夕茜は残っていたが、次々やってくる車たちは、もうライトをつけていた。彼女はタクシー乗り場へ向かった。すれ違うように白いベンツが、音もなく車寄せへすべりこんできた。客待ちしていた黒いセドリックがドアを開けた。乗り込もうとした時、由布子はどこかに視線を感じた。顔を上げ、正面玄関を見た。白いベンツから下り立った、トルコブルーのワンピースがこちらを見ていた。髪の長い女。もう若くはない。誰だろう、と思いかけて由布子は息を飲んだ。神南のバアで、いきなり拓との間に割り込んできたあの女であった。
「乗らないんですか?」
 不審げに運転手は言った。背後にはいつの間にか別の客が来ていた。由布子は急いで乗り込んだ。ベンツのすぐそばを、タクシーは走りぬけた。彼女は窓ガラスに顔を寄せて女を見た。女も由布子を凝視していた。たった今美容院から出てきたことを示す毛先のカール。赤くて長い爪、念入りな化粧。全身に金をかけて磨きあげたプロポーション。女が由布子のタクシーを追って首をずっと動かす様子は、フィルムのコマ送りのように連続して、由布子の頭に焼きついた。
 拓はあの女も招待したのだろうか。湧き上がりかけた疑問を、由布子は直ちに否定した。そうではない。そんなことがあるはずはない。誰が見にきても構わない発表会なのだ。あの女は、首に巻き付けたダイヤのチョーカーをこれ見よがしに光らせて、蘇枋の間へ入っていくだろう。しかし由布子は知っている。いくら探してもあの部屋に、拓の姿がないことを。主催者の葛生とVIP客が、あいにく拓を離さない。彼は接待に時間をとられ、あの女に構っている暇などない。仕方なく展示作品を見て回ったとて、あの女にはどれが拓の作品かわかるまい。彼が作品のことで悩み、相談した相手は由布子なのだ。あの彗星の花房を思い浮かべた時だけ由布子は、自分自身を誰よりも、拓に近い存在に感じることができた。
 由布子は、流れ去る黄昏の街に目を移した。金色のヘッドライトと赤いテールランプが、ガラスに映る拓の面影の上を、蛍火のようによぎっていった。

第1部第2章その10へ
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