【 10 】

 『店内改装の為当分の間休業致します 目の覚めるようなリニューアルオープンをどうぞお楽しみに 店主』
 ドアには高杉らしい挨拶文がでかでかと貼りつけられていた。日曜午前十時、約束の時刻に、由布子はドアを開けて店に入った。
「よおっ、お早うございます!」
 高杉は軍手をはめた手を高々と上げた。椅子とテーブルを片づけ始めたところのようだ。椅子はみなテーブルの上に逆さに置かれており、カウンターの棚にあったカップやグラス類は、きれいに姿を消していた。
「ああ小物はね、きのうのうちに段ボールに詰めて二階に上げちまいました。今朝からこっち、大物にとりかかってますよ。」
 高杉は汗をぬぐった。由布子はダウンジャケットを脱いで、Gパンにシャツの動きやすい格好になり、
「このテーブルは、どちらに運ばれるんですか?」
 そのまま使うものだけに傷がついては困る。そう思って尋ねると、
「半分はそっちの、奥の物置に入れといて、残りはね、裏の薬屋の車庫借りて、そこに置いといてもらうことにしました。薬屋とはハーパー一本で商談成立ですよ。」
「ああ、じゃあ安心ですね。」
「まあとにかくこいつらを、ぱぱっと運んじゃいますから。そうしないと何もできないでしょう。なんせ人手が足りんからね、タッタカタッタカやらないと。」
 運ぶのを手伝おうとして由布子が、テーブルに手をかけると、
「ああいいですいいです! こんなもんはヤローの仕事! 大先生は現場指揮に徹して下さい。おーい陽介なにやってんだあ!」
 はあいと返事が聞こえ、走ってくる足音がした。由布子は驚いた。奥からあらわれたのは、髪を黒くし小ざっぱりと短く切って、前髪だけは長めに残した、別人のような陽介であった。先に声を聞かなかったら、誰だかわからなかったに違いない。
「あ、由布子さん…。お早うございます…。」
 相変わらず笑顔はぎこちなかったが、黒い髪の色は陽介の顔全体を、がぜん男っぽく引きしめていた。思わず見つめてしまった由布子の視線に、彼は照れくさそうに顔を伏せた。
「ほら、何してるそっち持って。よし、いいか? せーので上げるぞ。いいな? 重いから気をつけろ。いっせーの、せっ!」
 いざ持ち上げると、陽介の方が軽々としていた。高杉はよたよたと若者に引きずられつつ、テーブルをみな片づけた。
 由布子はカウンターの上に施工図面を広げ、陽介に申し送る手順を考えていたが、やがてカウンターの上に、ゴトンと一本のボトルが置かれた。片づけを終えた高杉は、
「さっ、ではでは、形ばかりの着工式といきましょうか。目出度いことに大安を選んでもらったし、こういうものはしっかりエンギかつぎましょう。」
 ボトルを見ると、小瓶とはいえルイーズ・ポメリーであった。高杉は金紙を爪ではがし、コルクに巻きついた針金をはずした。
「おっ…そうだグラスグラス。おーい、幸枝―!…ったって隣りまでは聞こえないか。おい、陽介! ちょっと車庫行って、あいつにグラスどこやったか聞いてこい。」
 陽介は走り出ていった。由布子は高杉の手元を見守りつつ、
「でも、いいんですか? そんないいシャンパン使っちゃって…」
「ええもう当然。今飲まずにいつ飲むんです。まあさすがにドンペリは出せませんけどね、これくらいは。」
 やがて陽介と、タオルで手を拭き拭き幸枝がやってきた。陽介はタンブラーを四つ並べた。
「おいおい何だよヒヤタンしかないのか? 有難味が薄れるなあ。」
 不満顔の夫に幸枝は、
「何言ってるの。あなたが夕べ全部新聞紙にくるんでしまっちゃったんじゃない。これが嫌ならあとは湯呑み茶碗しかないわよ。」
「あれ、そうだっけ? しょうがないわ、これで乾杯だ。」
 高杉は人のいない壁の方へ瓶の口を向けて、両手の親指でコルクを押した。小気味よい音がして、ぶくぶくと泡がこぼれ出した。
「おっとっと…」
 彼は三つのグラスに等分と、もう一つには底からほんの二センチ、雀の涙ほどにポメリーを注いだ。陽介の分である。
「…これっぽっちっすか?」
「当たり前だ、子供のくせに酒はいかん。まあ今日は着工だからな、これでも特別なんだぞ。文句があるならいいぞ。おい、こいつにまたキリンレモン出してやれ。」
「いいっすいいっす、これで。」
「はい、では皆さんグラスをお取り下さい。」
 高杉は三人を見回し、
「それでは本日より工事を開始いたします。菅原先生のご尽力に深く感謝いたすとともに、今後とも引き続き、よろしくお願いいたします。皆さんもくれぐれも怪我などしないように、安全第一で参りましょう。それでは、乾杯!」
 お冷や用のタンブラーで飲もうとベネチアングラスで飲もうと、ポメリーはポメリーの味であった。大安吉日の日曜日、高杉店の改装工事はスタートを切った。
 由布子は図面をもとに、工事の手順を陽介に説明した。
「まずは壁からいくわよ。」
「はい。」
 陽介の目は真剣そのものだった。
「ここから、ここまではナチュラルオークの壁材ね。あとの半分はクロス貼り。今日はまず下地クリーニングと、いけるとこまで壁材打っちゃいましょう。材料はギリギリで取ってあるから、申し訳ないけど余裕はないの。失敗できないから気合入れてね。」
「はい。」
「多分今日一日で壁は終わらないと思うのよ。あしたあさってと、目標は三日ね。そのあとクロスを貼って、それからカウンターの中。あの棚全部にペンキ塗って、壁回りが済んだら床をペンキ塗り。塗り終わったら丸三日乾かす。シンナー飛ばさないとおかしくなっちゃうでしょ。」
「はい。」
「床が終わったらカウンターの仕上げ、照明付け替え、壁と窓ぎわのデコレーション…。こんな手順でお願いできる?」
「わかりました。」
 二人の専門家の話を黙って聞いていた高杉は、そこでようやく、
「あの、すいません…私、何してればいいんでしょ。」
 答えたのは陽介で、
「久さんは俺の助手。」
 当たり前だろう、という顔だった。高杉は吹き出したが、
「はい、わかりました。やらして頂きます。よろしくご指導下さい。」
「邪魔すんなよな。」
「了解しました、親方。」
 ぺこりと頭を下げるのがおかしかった。由布子はクリップボードに工程表をはさんで陽介に手渡した。
「はい。これで進捗チェックして下さい。この現場は陽介さんが管理監督してね。私は仕事終わったらなるべく顔を出すようにするけど、毎日は来られないかも知れない。でも必ず一回は連絡入れるわね。もし困ったことや何か問題があったら、そこの…一番下に書いてある番号に連絡をちょうだい。」
 陽介はボードを受け取り、ぎゅっと握った。
「わかりました。」
「じゃ、早速始めましょうか。まずは壁のクリーングから!」
 陽介は機敏な動きで、バケツとモップを持ってきた。彼はモップを素手で絞り、唇を引き結んで作業を始めた。高杉はポケットから茶封筒を出して由布子に渡し、
「じゃあこれ、材料費、全部振り込んどきました。機械のだけど、領収書一式です。」
 由布子の指示通りに、早速支払ってくれたらしい。彼女はホッとして封筒を受け取った。
「すみません、お手数かけました。これでもう、費用はいっさいかかりません。口座に残っている分はお店の資金にあてて下さい。」
「助かります。」
 高杉は真面目に言い、すぐにパンと両手を叩き、
「よっしゃっ、じゃあ、おじさんもやろう!」
 高杉は雑巾を絞って、壁の下の方から拭き掃除を始めた。この下地クリーニングをしておくと、クロスはよれにくくなるし壁材もきれいに落ち着く。しかし店の壁全部の掃除というのもなかなか大変で、途中、大きな蜘蛛が高杉の背中に落ちてきて騒ぎになったりしたが、どうにか済んで午後二時近く、幸枝の作ってくれたおにぎりで彼らは昼食をとった。
 作業は壁材の貼りつけに移って、由布子を驚かせたのは陽介の槌さばきだった。壁材用の釘は待ち針か虫ピンほどに小さく、それを専用の小型の金槌で打ちつけていくのだが、陽介は熟練工もかくやと思わせる手つきで、一枚また一枚と壁材を貼りつけていった。初めのうちこそ、どっちが速いか競争だなどと言っていた高杉も、三枚貼ったところでかなわないと悟り、自ら陽介の助手に徹した。
「すごいなお前…。どこで練習したのそんなの。」
 壁材の目地を合わせて左手で押さえ、その親指と人差指で釘をはさみ、右手の金槌を鋭く振りおろす。狂いなく垂直に加えられた力は、一打目で釘を固定し、二打目で完全に根元まで打ち込んだ。しかも計ったような等間隔。由布子は感心し、しまいには見とれた。
 福島の中学を出て上京し、陽介はおそらく、本当に真剣に仕事をしたに違いない。彼をいじめたのは年上の大工ではなくて、同じ時期に就職した若い仲間ではないだろうか。彼らの中で陽介の腕はずば抜けていたのだ。昔気質の職人親父なら、むしろ陽介の腕を認め、引き立ててやろうという気になるだろう。それを妬んだ者がいても不思議はない。この腕ゆえに陽介は、はじき出されてしまったのだ。
「ほら何やってんだよ久さん。次。よこしてよ早く。」
「あっと、はいはい失礼しました。いやああんまり見事なんでね。リズムがあるもんな、タン、トントン、タン、トントンって…」
「わかってんなら狂わすなよ。」
「すいません反省します。…あ、親方、汗が。」
「いいよ気持ち悪いな。貸して。」
 陽介は高杉の手からタオルを取って鉢巻きにした。その横顔の凛々しさは由布子に、前から考えていたある一つのことを決心させた。ホームイング・エグゼの提携工務店、内山建設株式会社に陽介を紹介する。浦部にも話した上で正式な、会社を通じての紹介として彼に箔をつけてやる。今度こそ好きな道に進めるように、この槌さばきを活かせるように、できる限りのことをしてやろうと由布子は決めた。

第1部第2章その11へ
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