【 11 】

 翌日から由布子は、仕事の合間を見ては高杉店に顔を出した。陽介の仕事ぶりを評して高杉は『水を得た魚』と言ったがまさにその通りだった。彼は徐々に心を許してきたのか、由布子の顔を見ると満面に笑みを浮かべ、ちわっす、と挨拶するようになった。拓は、といえば火曜日の昼に、役目を終えた宮古島の雪柳を、陣中見舞いに持ってきたらしい。ポメリーの空き瓶に挿したその長い花房は、工事中の店内の唯一の飾りとなって咲き誇った。
 金曜の晩、珍しく早めに仕事を終えて由布子が店に行くと、拓は陽介と一緒に、クロス貼りにとりかかるところであった。壁工事の最大の難関、斜め三枚貼りである。脚立に乗って、天井ぎわの一点を拓が、低い幕板の隅を陽介がしゃがんで押さえていた。由布子に気づいた拓はその姿勢で、
「よ。」
 軽く片手を上げて合図をした。がクロスは斜めに持つと重く、左手一本では支えきれない。クロスはズズッ、と壁をすべった。
「うわ!」
 拓はかろうじて押さえたが、クロスは大きくたわみ、まん中がはがれて空気が入ってしまった。陽介は見ていた高杉に、
「久さん、ここ持ってて! 早く!」
 高杉は壁に飛びつき、陽介がしていたようにクロスを押さえた。陽介は三歩で脚立に駆け寄って、
「拓にいさん降りて! 駄目だよ皺が入っちゃう!」
「降りてってお前、…」
 陽介は拓を押しのけてクロスをつかんだ。脚立の狭い足場に二人も立てない。拓はあわや転げ落ちる寸前に、平行棒のフィニッシュよろしく体をひねって飛び降りた。しかしバランスを崩していた彼は、着地しそこねて床に転んだ。
「いってえ… おい、陽介っ!」
 その膝の間でハンドローラーが弾んだ。陽介が放ったのだ。
「にいさん、それでここ、しっかり押さえて空気逃がして!」
「逃がしてって…」
 ローラーを持って拓は立ち上がった。陽介は右の肘先をクイクイ動かして、早くしろと指示している。拓はローラーの丸みをクロスに当てて転がしたが、陽介は大きく首を振った。
「そうじゃないよ! クロスに沿わなくていいから、上から下に、思いっきり力入れてこすって。違う違う、もっと強く! 塗りつぶすみたいに均等に! 早くしないとボンドが乾いちゃうよ! 一旦貼ったらはがれないんだ、材料はギリギリで余裕ないし、クロス無駄にするわけにいかないんだよ!」
「そうだほれ拓早くせい!」
「なんだよ二人して…」
 彼はローラーを陽介の言う通りに動かした。
「うん、そうそうその要領で。ずっと向こうまで、しっかりギュッギュッて。」
「…お前最近、人かわんない?」
 拓は腰を落とし腕にぐっと力を加え、クロスをぴったりと貼りつけていった。高杉はニヤニヤ笑って、
「ほんと。最近こいつ別人よ? 俺なんかすっかり丁稚だもん。まったくいつの世にも技術者は強いわ。腕に職があると食いっぱぐれねえからな。」
 拓がようやく貼り終えると、陽介はクロスの角をカッターで切り落とし、腰のベルトにさした金槌で縁の部分だけを釘打ちした。それからひらりと脚立を飛び降り、高杉が押さえていた方の角もきれいにおさめた。一歩下がって全体を眺め、
「へえ…すごくよくできてる。スジがいいですね拓にいさん。」
 ニコッと笑った陽介の首を、拓は腕に抱え込み、
「ああそうかよこの野郎っ!」
 ローラーで頭をぐりぐりこすった。
「いていていて…すいませんごめんなさい!」
 笑い声がはじけたところへ、大きなトレイを持って幸枝がやって来た。
「まあまああいかわらず楽しそうね。よかったらごはんにしましょう。」
「うわ、いい匂い! カレーですか。」
 拓はローラーを放り出し、スツールに座った。
「ね、由布子さんも召し上がって下さい。おかけになって。」
 勧められて由布子もカウンターに並んだ。鼻をくんくんいわせている拓の笑顔に、由布子は一瞬、幸枝への筋違いな嫉妬を感じかけたが、一口食べたとたんあまりのカレーの美味しさに、由布子までが言葉を忘れ、ぺろりと平らげてしまった。
「こんなに楽しくやれるなんて、私は思ってもいなかったんですよ。」
 幸枝は熱い紅茶を、由布子のカップに注ぎ足してくれながら言った。
「最初この人が店を直すって言い出した時、私は反対したんです。とても無理だからやめようって。でも絶対何とかなるって言われて、不承不承で…。それなのに拓くんのお陰で思いがけないプロのアドバイスと、陽介くんの協力をもらえて、日に日にお店が直っていくでしょう。もう毎日、嬉しくて。」
 エキゾチックな顔だちに円熟味が加わった、幸枝の笑顔は魅力的だった。キックオフの食事会で会って以来、こんなに近くで話をするのは初めてだった。由布子はつくづく、これでは高杉が船を下りる気になっても当然だと納得した。確かに美人だがそればかりではなく、内側から輝いているような落ち着いた華やぎがあった。色白の肌にはしっとりと脂が乗って、甘い香りの菓肉を彷彿とさせる。女盛りとはこれをいうのだろう。紅茶をカップに注ぎながら夫に微笑みかけている彼女が、由布子には羨ましいほど幸せに見えた。若々しくて快活な幸枝が、一方に備えている厚みのある貫禄は、愛されている者だけが持つ自信なのかも知れない。男に人生ごと守られるのは、やはり幸せの一つの形なのだ。幸枝の微笑みの豊かさを前にして、由布子はそれにうなずかざるを得なかった。
 高杉もまた、ひどく満足そうに紅茶を飲んでいたが、不意に、
「おい、陽介お前バイトいいのか。そんなにゆっくり茶なんか飲んでて。」
「いけね!」
 陽介は時計を見て慌てた。
「あとは明日でいいぞ。バイトはバイトでちゃんとやれよ。」
「でも…」
 陽介は背後の壁を見て、
「すいません、ちょっと電話借ります。」
 そう言って奥へかけこんで行った。ほどなく戻ってきて、
「大丈夫です。一時間遅れるって言ってきましたから。」
 拓は心配そうに、
「いいのかほんとに。お前毎晩、何時までバイク直してる。」
 陽介は首を振った。
「平気です、両方ちゃんとできます。さ、残り、やっちゃいましょう。ほら久さん、ぼけっと座ってないで。」
 彼はすたすたと壁ぎわへ行って、カット済みのクロスを持ち上げ、幕板の上のローラーを、また拓に投げてよこした。
「これはにいさんお願いします。やっぱ俺より力あるから、ぴっちりむらなくロールできるし。」
「はいはいかしこまりました、むらなくロールね。…お前ってさ、いやーな親方になりそうな。」
 三人はクロス貼りを続行した。拓は壁の端から端までを、結局力いっぱい擦らされることになった。最後の釘を打ちつけると、陽介は工程表に実績を記入し、
「じゃあ続きは明日やります。久さん、また十時によろしく!」
「おう、お疲れ!」
 ジャケットとマフラーをつかんで、陽介は走り出ていった。
「楽しそうだよね、あいつ。」
 拓はクロスの切れはしを箒で掃きながら言った。高杉もあたりを片づけつつ、
「ああ。生き生きしてるな。手伝わしたの、正解だったな。」
「うん、大正解。」
 二人が掃除をしている間、由布子は陽介の工程表に目を通した。字は汚いが記入は完璧で、漏れやミスは全くなかった。
「さてお前、これからどうするんだ。」
 高杉は拓に尋ねた。時計を見ると八時半で、ずいぶんと中途半端な時刻であった。
「もしよかったら、ちょっと飲んでいくか? もちろん由布子先生も。」
「いや、俺は…今夜は帰るわ。」
「なんだよ、どっか行くのか。」
「そうじゃないけどさ、なんかくたびれた。陽介の奴にこき使われたし、帰って風呂入って、寝る。」
 拓が帰るなら由布子も右へ習えだった。
「私も失礼します。明日も仕事だし。」
「ああそうか。悪いねメシしか出せなくて。」
「いいっていいって。それだけでも大変だよ。」
 拓は箒とちりとりを片づけ、流しで手を洗ってからジャケットを羽織った。
「一緒に帰るだろ?」
 彼は由布子に言った。彼女もダウンのファスナーを上げた。
「じゃあ、久さんお先。また時間とれたら来るね。」
「ああなるべく来てくれよ。陽介親方の人使いに悲鳴上げてんだから。」
 ドアを閉めて、二人は歩き始めた。拓は煙草をくわえて火をつけるとすぐ、
「さてと…これからどうする? 映画でも行く? 今からならレイトショー間に合うよ。」
 そう言ってふうっと煙を吐いた。
「え? 帰るんじゃないの? こき使われてくたびれたって…」
「ああ、うそうそ。あれくらい何でもないよ。ああ言わないと久さん、引っ込みつかないじゃん。」
 彼が吸うたび煙草は、夜道に一点、明るいオレンジ色の灯をともした。
「いくら工事手伝ってるからって、そうたびたび甘えてちゃ悪いよ。久さんはああいう人だからね、気になんかしないだろうけど。飲み食いにかかるものって、案外馬鹿にならないし。」
 そうか、と由布子は思った。工事そのものが安く上がっても、由布子たちの面倒に費用をかけさせては意味がない。
「で…どうする。帰るなら送るけど…つきあう?」
 由布子はうなずいた。四文字の響きはどんな酒よりも早く、心を酔わせる力を持っていた。

第1部第2章その12へ
インデックスに戻る