【 12 】

 シネ・アミューズで小粋なコメディを楽しんだあと、拓は、
「一杯だけやっていこうよ。」
 そう言って歩き出した。井の頭通りにはあいかわらず、この寒さを物ともしない人間たちが群れている。その間をかきわけるようにのろのろ進む車の列。二人は人間と車、両方の流れを横切って、細い道に入り、パート3裏の地下一階にある『ALCO』へ下りていった。
「手は治ったの?」
 ジャズの流れる店内で、テーブルに落ち着くと由布子は、気がかりだったことをまず一つ尋ねた。
「うん、薬用ハンドクリームめちゃくちゃ塗りたくって、手袋して寝たらすぐ治ったよ、ほら。」
「ほんとだ、よかった。」
「ああこの前、来てくれてありがと。あんまりおかまいできませんで、失礼しました。」
 冗談めいた口ぶりに由布子も合わせて、
「いえいえこちらこそ、お時間を割いて頂いてありがとうございました。」
 言いながら拓の顔を見た。気がかりだったのは手荒れだけではない。もう一つ。比べものにならないほど大きなことが一つ。
「土曜日…あれからどうだった?」
 さり気なく由布子は尋問した。
「どうって?」
「VIPのお客さんが見えたんでしょ? ずっとつかまってたの? レストランはどうだった?」
「ああ…」
 拓はべそをかくような笑い方をし、
「もう大変だった。来賓用に取っといた部屋でずーっとご歓談につきあわされて。話してんの向こうと先生だけで、俺、ずっとこうやって猫みたいにおとなしく座ってたの。すげえつらかった。拷問だよまるで。」
「そんなに?」
「だって下手なこと言えないじゃん。逃げたくたってそうもいかないし。そのあと先生がさ、VIP連れて会場を一回りご案内すんのにやっぱつきあわされて、ずうっとさ、大名行列みたいに後ろくっついて歩いてだけ。」
「へえ。それは辛いわね。」
「でもってそのまんま例のレストランだもん、参ったよ。あんなガチガチに肩凝る店で何食わされたって、うまいなんて思えないじゃん。しかも最後は運転手までやらされて、いったい俺は何? って感じ。あんまり頭きたから先生に、もうこういうのやめてくれって直談判しちゃったよ。おかげで日曜はブラブラしてられた。」
「そう…。」
 この分ではあの女と拓は会っていない。ひとまず安心して由布子は、ボーイの運んできたマティーニを飲んだ。もちろん彼の話が本当ならばだが、そこまで疑うのはあまりにヒステリックである。由布子は猜疑心に蓋をした。
「でさ、あの粗品…つうか記念品。可愛いかったでしょ。」
 拓に言われて由布子は思い出した。受付で渡された和紙のラッピングは、部屋へ帰ってから開けてみた。出てきたのは、コーヒーソーサーに乗せて出されるミルクピッチャーほどの、ミニチュアの壺であった。小さくても立派にさくらんぼの絵付けがされていて、ちゃんと取っ手まで付いていた。
「あれね、実は俺が選んだんだ。他にもいくつか候補はあったんだけどね。いろいろ考えて、あれにした。」
「へえ…あなたが。」
 どれがいいか悩んでいる時の、拓の表情が見えるようで由布子は微笑した。ラッピングの色もリボンも、おそらく彼の指定だろう。彼女は言った。
「あの壺をたくさん並べて、いろんな花を挿したら可愛いでしょうね。ミニバラとか、ミモザとか、ヒース。あとは何だろ、四つ葉のクローバー。山すみれも素敵ね。そうだ小菊はどう? 黄色、白、くすんだ紅色もあるでしょう? いろんな色を混ぜて束ねるか…じゃなきゃ同じ色をまとめた壺を、いくつも集めたらしゃれてる。どうかなあそういうの。平凡?」
 由布子は問いかけた。が拓は、驚きの表情で目を見開き、口に持っていきかけたグラスをコースターに戻した。
「どうしたの?」
 何か変なことを言ったろうかと思ったが、
「いや、いま一瞬…」
「一瞬?」
「思わずデジャヴだった。小菊なんて言うから…」
 拓はもう一度グラスを手に取り、アーリータイムズを一口飲むと、目の高さにグラスをかざして、中身をゆらゆら揺らした。
「俺がさ…生まれて初めて花で何か作ったのって、小菊だったんだよね。」
 グラスの中に思い出を探すかのように、彼はゆっくりと話し始めた。
 
 学生時代、拓はレストランでウエイターのアルバイトをしていた。アルバイターは彼の他に数名、その中に彼と同い年の『由美』もいた。気の強そうな大きな目をして、きびきびとよく動く彼女は、きっと学級委員か、クラブの部長をやっているに違いない、そういうタイプだと拓は思った。普段その店を指揮しているマネージャーは気さくで鷹揚な小父さんだったが、店長は見識張った嫌味な男であった。ごくたまに店に来ては、重箱の隅をつつくような文句を言うので、厨房ばかりかフロア担当にも鼻つまみにされているのに、本人は一向に気づいていないようだった。
 秋のことだった。ある日マネージャーは、ウィンドウ前のプランターに色とりどりの菊を植えた。由美は花や植木の手入れが好きらしく、コックに頼んでボウルに入れてもらった米のとぎ汁を、口の細いジョウロで根元にかけてやったり、咲き終わった花がらをこまめに摘んでやったりの面倒をみていた。しかしメインストリート沿いの悲しさで、酔っ払いの悪戯だろう、プランターが全て引っくり返されていた朝があった。マネージャーと由美は菊を元通りに植え直したが、蕾も花もずいぶん折れてしまった。
 開店時刻になり、ランチメニューを店の前に出しに行ったとき拓は気づいた。レジカウンターにタンブラーが置いてあり、小さなブーケのように菊の花がさされていた。由美だなと拓にはわかった。折れた花が可哀相で捨てるに忍びず、こんなところに飾る気になったのだろう。顔を寄せると菊特有の、清涼感のある香気が鼻をうった。
「よかったな。」
 菊たちに囁いて、拓は仕事に戻った。
 だが、ランチタイムを終えていっとき客の波がおさまる午後半ば、例によってふらりと店長がやって来た。彼はレジスターチェックの最中にその菊に気づくと、眉一つ動かさずゴミ箱に投げ捨てたのである。店のイメージに合わない、誰がこんな貧乏臭いことをするのだと、彼はマネージャーに悪態をついた。拓は冷蔵庫にワインボトルを入れながら、カウンターの隅でナプキンを巻いている由美の表情を盗み見た。彼女が抗議しはしないかと拓は案じたが、由美は彼が思っていたより大人であった。知らん顔で次々ナプキンを丸め、シルバーのリングで止めて籠に入れる。機械的な作業を繰り返している彼女はその時、ぎゅっと下唇を噛みしめた。
 店長は言うだけ言うとレジを離れ、事務所への階段を上がっていった。帰るかと思ったら居座るつもりらしい。拓は急いでワインとビールを運び終え、こっそりとレジの下のゴミ箱に手を入れた。日本の風土を何代も前から熟知している菊は生命力が強い。拓は拾い集めた花をエプロンで隠し、洗い場から厨房に入り込んだ。皿洗い兼見習い中の、若いコック安藤を手招いて、
「おい、プチトマトと、ベビーキャロットと、それにちびナス、一個ずつよこせ。」
「なに? なにすんだよそんなもん。腹減ってんならほら、生ハムあるぞ。」
「馬鹿、そうじゃなくて、ガルニに使うのがあるだろ。それから…おっと芽キャベツ。パセリと、このマッシュルームもいいな。」
 首をかしげている安藤のそばで、拓は丸い小型のドイツパンをくり抜いた。白い部分はむしり取って胃におさめ証拠隠滅し、できあがったパン製の花器にミニ野菜を盛りつけた。菊の中から比較的茎の長いものをよりわけて、カラフルな花束を作り、たっぷり水を含ませた紙ナプキンを根元に巻き、上からラップとアルミホイルでくるんで、野菜の横に差し込んだ。即興にしては面白い、秋らしいアレンジができあがった。
「あとは、と…」
 細かくばらばらになってしまっている菊たちを、どうしようか彼は考えた。極小の花瓶はないだろうか。全長が小指ほどしかない菊たちは、だが一人前に花を咲かせていて、小指の爪ほどの葉までちゃんと付けていた。フロアの方を見回して拓はひらめいた。コーヒーに添えるミルクピッチャーがいい。引き出しを開けてそれを一つ取りだし、菊たちを一本ずつ丁寧にいけこんだ。
「へー。お前センスあるね。いいじゃんなかなか。お客さん喜ぶよ。」
 安藤は言い、これもやるよ、とビーフシチュー用のミニ玉葱をくれた。拓はトレンチにそれらを乗せて、レジに運んだ。店のネーム入りのブラウンの麻ナプキンをラフに折り、その上にパン花器とピッチャーを並べた。入ってきた客の目にどう見えるか、彼は位置を見直しては微調整した。ちょうどいい配置におさめてから、ミニ玉葱をピッチャーの横にころがした。あと一つ、何かアクセントが欲しい。そう思って彼はしばらく考え、まだナプキンを巻いている由美のところへ行って、シルバーのナプキンリングをつまみ上げ、
「これ、借りるよ。」
 そう断ってレジへ持ってきて、パン花器に斜めに立てかけてみた。渋い光沢が全体に緊張を与えた。上下左右からレジカウンターを眺めて、彼は満足した。
 店長は何も言わなかった。客たちは口々に、
「なんて素敵。どなたが作ったの。」
「その菊の花束が最高にシャレてるわねえ。」
「小さい秋見つけたって感じだな。いやあいいわ。」
 拓は何食わぬ顔で接客しながら、心の中でVサインを出した。
 閉店後、床を掃いている時、拓はホールの隅に人の気配を感じて顔を上げた。私服に着替えた由美が立っていた。
「あなたでしょ、あの菊、作ってくれたの。」
 自分を見つめる瞳がたちまち潤んだ。
「ありがと。本当にありがとう。すごいよあなた。どうやって考えたの? 専門の勉強してるの? センスよくて可愛くて、お客さんみんな褒めてたでしょう。なんかあたしが褒められてるみたいで嬉しくなっちゃった。」
「いや、そんなこと…さ。」
 由美が泣いてくれるなどと、拓は思ってもみなかった。彼女は指先で涙をぬぐい、
「ありがとう。こんなに嬉しかったの、初めてかも知れない。」
 最後は照れ臭そうに笑った由美の、小菊のような片えくぼに気づいた時、拓は彼女に恋をした。
 しかし店の忙しさは変わらず、話らしい話もしないまま季節は過ぎて、拓は突然由美から、今日でバイトをやめると告げられた。呆然と言葉を失った彼に由美は言った。
「ねえ、あなた本格的にフラワーデザインとか進めばいいのに。ああいうのって男の人の方がやっぱりセンスいいと思うな。」
 店員たちの拍手に送られ、由美は出ていった。道を遠ざかっていく彼女を、拓は通用口に立って見送った。一度だけ振り返って手を振ってくれた由美の姿は、早春の街に残像となって、しばし心に揺れていた。

第1部第2章その13へ
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