【 13 】

「…で、おしまい。俺の失恋物語。」
 語り終えた拓は、髪を大きくかき上げた。
「そう…。それで終わっちゃったんだ。」
「うん、あっけなく終わっちゃった。住所も電話番号も聞いてなかったし、店にも二度と来なかったしね。」
「でも普通、何とか電話番号くらいは聞かない?」
「いや聞こう聞こうと思ってたんだけど、タイミングつかめなくて。」
「ふうん。シャイだったんだその頃は。」
「その頃? 今だってシャイだよ俺は。シャイでナイーブじゃん。」
「へええー。さようですか。」
 拓は苦笑だけして、
「まあその頃はさ、将来何になるなんてあんまり具体的に考えてなくて、何となく、ものを作る仕事がしたいなとは思ってたけどね。でさ、『フラワーデザイン』っていうのが妙に頭にひっかかって、それ以来気にするようになったかな。」
 言われてみれば確かに、スペースアートのためにまず花あしらいから入るのは珍しいかも知れなかった。設計を学んで建築士、そこから発展するのが定石のコースであろう。
「人間なんてさ、案外、そんなささいなことで人生変わるんだろうね。」
 拓は言った。由美、という名の少女がいなかったら、拓は花になど興味を持たなかったかも知れず、由布子は彼と出会うこともなかったのだ。今はどこにいるとも知れないこの由美に、誰より感謝すべきは由布子であった。
「時間、まだ平気?」
 グラスを空けて、拓は聞いた。
「もちろん。私はここからなら歩いたって帰れるもの。」
「じゃ、もう一杯ずつ飲んだら出よう。」
 拓はボーイに手を上げ、オーダーを告げた。新しいカップルが二組、店の中に入ってきた。朝の四時まで営業しているこの店は、夜が更けるほど混んでくる。一組は店内を見回して、由布子たちの隣の席があいているのに気づき、こちらへやって来た。コートを脱いだ女は、鮮やかな黄色いワンピースをまとっていた。拓はクラッカーを一つつまんで前歯にはさみ、パキンと折ってから噛みくだいた。
「ああ、そうそう、こないだの菜の花さ。」
 彼は言った。発表会に展示されていた『走る雲』で、どうも納得できないと言っていたあの作品のことだろう。
「あれね、先生に出すラフスケッチ描いてるんだけど、いざ描くとなるとやっぱね。いろいろ悩んじゃって、はまってるんだ今。」
「ふうん。」
 黄色い服からの連想だな、と由布子にはわかった。ことさらに隣を見なかったのは正しいマナーだけれども、いい女はちゃっかり目の隅で、チェックしているのだなと思うと癪だった。
「菜の花畑なんて都内にはないもんね。線路の脇とかにたまーにちょろっと咲いてるけど…やっぱ千葉県とか、紀伊半島行けばあるのかな。」
 由布子はグラスに沈んでいるオリーブの赤を見つめ、わずかにぞんざいな言い方で、
「南房総ならもう咲いてるでしょ。館山とか、あっちまで行けば。」
「それ、マジ?」
 拓は身をのりだしてきた。何かを計画している子供のような目になっている。
「ね、今度さ、一緒に行こうよ。悩んだら実物に帰る、これがアレンジの鉄則なんだって。一面の菜の花畑、実際に見たら何かわかるかも知んない。実際にそこに立って、空見てみようよ。いつがいい? 今、仕事って大変?」
 すっかり意気込んだ様子で、彼は立て続けに言った。これでは拗ねてもいられない。由布子は黄色いワンピースを気持ちから消した。
「行くのはいいけど、でも問い合わせてみたほうがいいわよ。行ってみて何も咲いてなかったら馬鹿みたいだし…」
「咲いてないって、今由布子が言ったんだよ、咲いてるって。」
「言ったけど、今年も咲いてるとは保証できないわよ私にも。」
「じゃあ問い合わせてみて。」
「私が?」
「当然じゃん。情報提供者の義務。いつだったら咲いてるか、それといつなら行けるか、この二つ。わかったら教えて。あ、車は出すから。南房総・菜の花の旅。よし、決定ね。」
 拓は一人でさっさと決め、宣言した。
 手元のグラスはやがて空になった。二人は席を立ち、店を出た。階段を昇ろうとした時、拓はポケットに手を入れて、あれっ、と言った。
「どうしたの。」
「やべ、ライター…」
 あちこちさぐって、どこにもないと知るや、
「さき行ってて。すぐ取ってくる。」
 言い残してドアの中に戻っていった。由布子は細い階段を昇り、地上に着いて、冷たい空気を深呼吸した。気温はまだ低くても、暦の上ではもう春である。房総の花々は気が早い。ぶ厚い装いなどとっくに脱ぎ捨てて、軽やかな風と戯れ、笑いさざめいているのかも知れない。由布子は幻の花畑を眺めるかのようにあたりを見回した。
 こちらへ向かって歩いてくるカップルがいた。その男のシルエットをとらえた時、由布子はあっと思った。記憶の池がぞよぞよ揺れた。背格好、歩き方。気障なトレンチコート。女の腰に回した左手。目を凝らしている由布子に、その男も気がついたのか顔を上げた。大塚であった。彼は立ち止まった。連れの女は不審そうに眉をしかめた。由布子は二人から顔をそむけ、階段の下を見た。拓が来る前に、早く行ってしまってくれと願った。背中を向けることで彼女は、はっきりと大塚に無関心を示した。自分にはもう、関係のない男だった。
「なによ、どうしたの。行きましょうよ。」
 鼻にかかった、女の甘え声が聞こえた。二人の歩き出す気配がした。大塚はこちらを見ているのではないか。何となくそんな気がした。懲りない男だった。あの女は由布子より年下であろう。社会に出たての小娘ばかりを、使い回しの台詞で誘いこんで、いつまで同じことを繰り返せば気が済むのだろうか。大塚の操る専門用語や蘊蓄、海外有名ブランドの名に惑わされて、彼をたやすく理想の男と信じこんだ自分を、由布子は今の若い女に重ね合わせて憐れんだ。
 階段の下に拓が現れた。彼はライターをかざして、
「あったあった。待ったでしょ、ごめんね。」
 狭い階段を駆け上がりながらのその声は、通り過ぎたばかりの大塚の耳にも、はっきり聞こえたに違いない。しかし由布子は彼の反応を、窺うことさえしなかった。あの男の心情など、由布子にはもうどうでもよかった。拓はライターを空中に放り上げ、ぱしんとキャッチして内ポケットにしまった。
「俺たちが出てすぐ、ボーイがテーブル片付けたんだって。でも普通、テーブルの上にこいつがあったら、『お客様お忘れ物ですよ』って追っかけてこない? 来るでしょ? ったく、とっととお忘れ物箱にしまうなって。まったく何考えてんだか。」
 なるほどそれで時間を食ったのか。
「でもあってよかったじゃない。忘れ物っていうのは、する奴が一番いけないのよ。違いますか?」
 由布子が言うと、拓は肩をすくめ、
「すいません、おっしゃる通りです。」
「以後気をつけたまえよ。」
「了解しました。」
 拓は丁寧に頭を下げ、笑った。由布子の笑い声がそれに重なった。甘やかで幸せな最上の瞬間だった。ああ、この満ち足りた暖かい想いをこそ、私は今まで忘れていたのだと由布子は思った。
「ちゃんと調べて、電話するわね。南房総の菜の花畑。」
 由布子が言うと、拓はうなづいた。彼の背後に波うつ黄金色の花が、一瞬、小舟のローリングのように、由布子の足元を浮揚させた。

第1部第2章その14へ
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