【 14 】

 …その、菜の花畑が、いま窓の外に広がっていた。
 例年よりも暖かな早春は花々をいちどきに開かせ、海に近い岡の急な斜面を、眩しいほどの黄色で埋め尽くしていた。
 坂の途中で、拓は車を停めた。二人は車から下り、脇に延びる細い畦道に足を踏み入れた。一人ずつしか歩けないその土の道は、芽ぶいたばかりの若草でおおわれていて、仏像の台座に似た深緑の間にぽつぽつと濃い桃色の蕾をつけるほとけのざや、半熟の目玉焼きを思わせる姫紫苑が、高く低く花咲いていた。やがて左右からせばまってきた菜の花の波が視界をはばみ、花畑の内部へ、奥深くへと、夢心地の由布子を引き入れていった。
「この黄色ってさ、純粋に『菜の花色』だよね。」
 拓はゆったりとあたりを見回し、かたわらの花茎に手を触れ、言った。
「レモンでも向日葵でも薔薇でもない、菜の花の黄色。この世にこれだけって色。これは絶対、絵の具じゃ出せない。」
 四枚の花弁は十字型に開き、雄蘂も同じ色をしている。花全体が何ら混じりもののない『菜の花色』で、それが何千何万と集まってできた海は、吹き寄せる風さえも自分の色に染め上げたくて、一輪ずつが風に笑いかけては、しなやかに揺らぐ腕を差しのべ、踊りの輪に誘っていた。
 菜の花の果てには木の柵(さく)があった。その先は切り立った崖で、眼下は本物の海であった。海水は、暖かくなると濁ってくる。早春の太平洋は透明であった。波頭の泡が崩れると、意外に浅い底の岩礁が見え、きらりと光を返すのは、小魚たちの尾びれであった。拓は水平線を抱きしめるように両腕をひろげ、目を閉じて大きく息を吸った。
「なんか…こうしてるとさ。」
 柵の上に手を組み顎を乗せて、彼は目を細めた。
「人間のやることなんて、大して意味ないって気になるよね。菜の花をどう切ってどう形を作ったって、この景色にはかなわないじゃん。なんか、ラフスケッチなんてどうでもよくなってくる。」
 由布子にも、それはよくわかった。遥か昔から途切れることなく打ち寄せているこの波に比べたら、人間の努力は可笑しいほどはかなく、砂浜に転がる貝殻の一つにも、満たないほどの価値しかないだろう。拓は空を見上げ、
「こんな話知ってる? ある小学校で理科のテストに、氷がとけると何になるか、って問題出したんだって。これって答は『水』なんだけど、一人の子が『春』って書いてね。先生、採点に困っちゃったってさ。すげえと思わない? その子の感覚。」
「氷がとけると春…。うん思う思う。なに、その子小学生なの? すごいわよそれ。もう文学の世界じゃない。」
「うん。俺なんかもう、かなわないかも知んないね。でもその子じゃないけどさ、氷がとけると春になって、去年と同じように花が咲いて、約束通りに季節が変わるっていうの、普段はそんなの当たり前に思ってるけど、考えるとすごいことだよ。なんか不思議じゃん。ついこないだまであんなに寒くて、雪とか降ってたのに、もうちゃんと季節変わってんだもん。」
 由布子は思わず拓を見た。ラフスケッチなどどうでもいいと言いながら、やはり彼の感性はアーティストのものだった。海と空、そして季節。拓は由布子の隣で息づき、同じ時代を生きている。胸の想いは熱く高まり、由布子はほとんど感動と呼ぶべき強さで、拓と二人いまここに立っている、その奇跡を実感していた。
(あんまり先へ先へと、思い急ぐのはやめよう。)
 由布子は静かに決心した。
(このひとがどんなふうに生きてきたか、私のことを本当はどう思っているか、あれこれ考えて不安になったって仕方ないじゃない。それよりも、このひとと過ごせる今の時間を大切にしよう。刹那的な意味じゃなくて、拓と会うその一度ずつが、かけがえのない一期一会なんだから。)
 拓は柵にもたれて、はるかな水平線を眺めていた。彼がその眼で何を見ているのか、由布子にはわからなかった。けれどこの海のように、深く、大きく、豊かな心で、彼を想い続けたならば、やがて二人の魂が、結びつく日も来るであろう。大空に輝く太陽を、いつか思いきり抱きしめる。由布子は拓と同じ姿勢で早春の海を眺めながら、寄せては返す波音と、揚雲雀の声を聞いていた。

第2部第1章その1へ
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