第二部 第一章

 強い南風に運ばれてきた細かい砂粒が、パラパラ音をたててガラスの向こう側にぶつかった。まるで自分の顔にそれを受けたような気がして、由布子は思わず顔をしかめた。胸踊る早春には違いないが、このざわざわした埃っぽさだけは欠点だ。しかしこれは東京の…というより関東の、風物詩なのだから仕方あるまい。気管支から肺にまで埃を吸い込んでしまいそうな風の季節を過ぎると、この街は花々であふれる。東京に本物の春が来る。由布子は幕板をこすっていた雑巾を、足元のバケツですすいだ。
 高杉の店は、もうほとんど仕上がっていた。陽介の努力のおかげで壁も床も天井も由布子のイメージ通りに改装され、あとは細かい飾りつけをするだけ、というところまできて、陽介は体調を崩してしまった。今頃彼は、幸枝(ゆきえ)の作ったおかゆを食べて大人しく寝ているに違いない。最終のデコレーションは陽介が治ってからにしようと、由布子、高杉、拓の三人は、今日一日を大掃除にあて、店中を磨き上げたのだった。
「よし、と。…こんなもんだろ。」
 ぱんぱんと手をはたいて拓は店内を見回した。
「ああ、こっちも終わったぞ。」
 テーブルを磨いていた高杉は、腰をさすりながらどっこいしょと立ち上がった。換気扇用の強力な洗剤によってぴかぴかになったテーブルには、以前から使っていたための細かい傷がついているのだが、それがかえってワイルドな味わいを出していて、波にきしむ狭いキャビンの雰囲気を、演出するのに役立っていた。
「掃除したら何だか、すごく綺麗になったわね。飾りがいがあるじゃない。」
 由布子は雑巾を固く絞って、濡れた手をそれでぬぐった。拓はやれやれ、とカウンターのスツールに腰を下ろし、
「あとはさ、あれだよ久さん、メニュー。壁のボードにくっつけるやつ。もう決まった?」
「ああ、メニューな。うん。今夜にでも仕上げとくわ。幸枝とよく相談して…。」
 高杉はまたもどっこいしょと言って、ソファーに座った。レザー用のクリーナーで二度拭きしたソファーも、テーブル同様つややかに光っていた。
「腰、大丈夫ですか?」
 由布子は高杉の向かいに座った。
「ええ、ま、年ですかね。ここんとこ痛みが取れなくてね。」
「久さん、陽介にめちゃくちゃこき使われたんだろ。」
 拓は胸のポケットから煙草を出してくわえ、火をつけながら、
「で? オープンも予定通り、二十日でいけんの? オーナー。」
「ああ、余裕よ余裕。三月二十日、春分の日にグランド・リニューアル・オープンだ。たしかすごく日がいいんですよね、この日は?」
「ええ、そう。一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)っていってね、この日に蒔いた種は一万倍になって収穫される、新規事業や開店には一番いい日。それに二十八宿っていう中国の古い暦でも『斗(と)』の日で、何か新しいことを始めるにはやっぱりいいんですって。」
「ふーん。そんなのまで調べたんだ、由布子。」
「調べたっていうか、建設業はそういうの気にするから。月間スケジュール表にちゃんと、いついつは大安とか三隣亡(さんりんぼう)って書いてあるのよ。この世紀末の世の中に、まだまだ古臭い業界。」
「古くて結構。いいじゃないですか。日本人はそうでなきゃ! よし、三月二十日、この店の再出発だ。気合入れてやんなきゃな。」
 高杉は両腕でガッツポーズをした。拓は灰皿代わりの空き缶を手元に置き、トントンと灰を落として、
「ところで店の名前。新しくするやつ。何にすんの。ちゃんと考えてきた?」
「ああ、考えたよ。」
 もちろん、といったふうに高杉はうなずいた。工事は無事終わり、店の感じは大きく変わった。何もかも心機一転して再開するからには、このさい店名も変えてしまおう。拓が思いついた案に、全員が賛成した。当然オーナーが考えるべきだとして、高杉は宿題を出されていたのである。
 拓は言った。
「前の名前、何度聞いてもだせぇよな。『ブラックハート』…。なんでも黒にすりゃいいってもんじゃないって。さも狙いましたって感じでクサすぎ。だから客も来なくなんだよ。」
「うるさいな。だからもっと洒落てて、わかりやすいやつにすりゃいいんだろ? シンプル・イズ・ザ・ベストってことで…」
 高杉は人差指を立て、自信たっぷりに言った。
「船。」
「なに?」
「『船』だよ『船』。店のイメージが船なんだから、そのものズバリでわかりやすいだろ。」
 拓は煙を吐き出して、
「あのさ…今に始まったことじゃないけど、どういうセンスしてんの久さんて。それじゃまるっきり小料理屋じゃん。『銘酒・賀茂泉』とかって看板かけて、びらびらの縄ノレン下げてそう。」
「そうかな。だめか?」
「だーめ。ボツ!」
 たちどころに却下されて高杉は溜息をついたが、どうしても船にはこだわりたいらしく、
「じゃあ英語にするか? 『The Ship』。これでどうだ。」
「だめ。全然魅力ない。」
「そうかなあ。んじゃドイツ語だ。ドイツ語で『船』…何ていうんだ?」
「俺に聞くなよ。」
 拓は視線で質問を由布子に振った。彼女は答えた。
「ドイツ語ではShiffだったかな。」
「シフ?」
「うん。小型だとBoot。」
うーんとうなって、高杉は腕を組み変えた。
 「シフに、ボートねえ。それもいまひとつだなあ。やっぱ『船』でいいんじゃないか?」
「やだよ船なんて。客から電話かかってきて、こう受話器取って、『はい、船です』とか言うわけ? 俺はやだね。」
「文句の多い野郎だな。日本語だめ、英語だめ、ドイツ語もだめ。じゃああとはどうすんだよ。」
「あとはフランス語かスペイン語かイタリア語だろ。…フランス語で船って何ていうの?」
 拓は由布子に尋ねた。
「そうね。bateauかmarineか…navire?」
「お、マリーンてのはいいな。」
 高杉は気に入りかけたが、拓は、
「マリーンて歌手にいんじゃん。そっちとだぶんないかな。」
 その懸念には由布子もうなずけた。
「ああ、そうよね。うん。確かにだぶるかも。」
 と同時に、マリーンという響きは少々平凡かも知れない。拓はそこで、
「あとひとつ、何とかって言ったよね今。マリーンの次。何だって?」
「ナヴィール? うん、ナヴィールも船よ。意味的には日本語の『船舶』に近いかな。カーナビとかのナビ? もともとはあれと同じところから来てると思う。」
「ナヴィール、か。ナヴィール…。」
 口の中で幾度か繰り返したあと、拓は、
「いいじゃん。それで行こうよ。どう、久さん。」
「ナヴィール…ね。船。うん、いいじゃないか。」
「じゃあ、新しい名前はナヴィール。いいね? んじゃ決まりだ。」
 拓はぐいと煙草をもみ消し、
「したらさ、ポスター作ろうぜポスター。宣伝用の。」
「ポスターだぁ?」
「うん。単に店開けてボーッと客が来んの待つんじゃなくて、こっちから宣伝しないと。ポスター作って、あっちこっちに貼り出すんだよ。」
 拓はバッグからレポート用紙を取り出し、スツールを下りてソファーの、由布子の隣に移ってきた。カチカチとシャープペンシルをノックして、
「俺、考えたんだけどさ、ポスターのデザイン。この店が完全に仕上がったらそこで写真撮って、それをこう全面に載せて、透過でオーバーラップさせてね、海の写真をかぶせんの。回りにこれっくらい枠を取って、白…だとまだ寒い感じだし、ブルーだと夏すぎっから、ライトパープルがいいかな。その色でこう枠作って…。」
 拓はさらさらとペンを走らせ、由布子の目の前でイメージを描き上げた。葛生のスクールでいつもプレスケッチを出しているせいなのか、タッチは非常に手慣れていた。ホームイング・エグゼで使っているプロのグラフィックデザイナーが、舌を巻きそうなセンスのよさだった。
「写真は俺、撮るから。それ読みこんでパソコンで画像編集して、カラープリンタに出しちゃえば綺麗だと思うよ。んで、店名はこのへんに、イタリックか何かの細めの字体で入れる。ナヴィール…って、カタカナじゃ駄目か。どういうスペル?」
 ペンを止めて拓は聞き、書いて、と言って由布子の方に紙を押してよこした。彼女はシャープペンシルを受け取り、
「このへん?」
 拓は由布子の手元をのぞきこんだ。束ねた髪の流れが美しかった。
「そうそうその位置。ちょっと斜めに、乱暴に走り書いた、みたいな感じがいいよ。」
 『Le navire』。右下に由布子は書いた。
「うん、いい感じいい感じ。これで色がつくと、また全然違って見えるからね。」
 拓は腕をいっぱいに伸ばして構図全体を見、会心の作だとばかりに笑ったが、高杉は、
「だけどな、拓。貼るったってお前、勝手にそこらの電柱に貼ったら、警察に怒られるんだぞ。」
「え、そうなの?」
「そうなのって…この世間知らずが。許可も取らないで貼ってるとこ見られると、下手すりゃしょっ引かれるんだからな。」
「んな大袈裟な。」
「大袈裟じゃないよ。苦労して全部貼り終わったとこで『もしもし』って肩叩かれて、厳重に注意されて、こんだ逆から全部剥がしてったなんて、笑い話にもならんだろ。だからな、これ、貼るんじゃなくて、このまんま新聞の折り込みチラシにするってなどうだ。そうすりゃバーッと大々的にばらまけるし。」
 そのアイデアに対しては拓が、
「チラシっつうなよ、なんか安っぽいから。それに金かかるってそういうの。なるべく俺らの手でやんないと。」
「ああそうか。そうだよなぁ。」
「ッたく気楽だな久さんは。予算ないからこんなに苦労してんだろ。」
 拓と高杉は気落ちした表情になった。ひとくちに宣伝と言っても、費用をかけずにやるのはなかなか難しいのである。だが、会社のイベントで新規集客に苦労してきている由布子には、切り札とも言える策があった。
「投げ込みしましょうよ。」
「投げ込み?」
「そう。一番コストのかからない集客方法。この周辺の家とか会社しらみつぶしに、このチラシ…じゃないポスターをポストインするのよ。ポストに投げこむの。」
「なぁるほど、よく入ってるよなそういうの。」
「ダイレクトメール出せれば楽なんだけど、同じ効果があるわ。足が棒になると思う。でも、新聞の折り込みより目立つしね。チラリとでも見てもらって、印象に残れば勝ちよ。」
「よし、それやろうよそれ!」
 拓は即、賛成した。
「俺らでさ、分担して。片っ端からポストに入れればいいんだろ? あ、それと、この近場の会社には、受付に直接置いてこようよ。社員食堂とかに貼って下さいって頼んで…。」
「おっ、いいなそれ。よし、その担当、お前! このへんの会社って会社に、軒並み頼みこんでこい。」
「俺がぁ?」
「そうだよ。受付の女の子に手渡してこい。お前のルックスで回ったら、そりゃあこの店、大繁盛間違いなし! いっそ純白のタキシードで赤い薔薇抱えて行け。目立つぞお。」
「俺はチンドン屋かって。…まあいいや、わかった、やるよ。ただしタキシードなんか着ねぇかんな。」
 確かにそれはいい、と思いつつ、由布子は複雑な気分だった。絹糸の髪を揺らして拓が微笑み、『みんなで来て下さい、俺、待ってるから』などと囁いたら、受付嬢はどんな顔をするだろう。昼休みに大挙しておしかけ、拓に群がりそうな気がする。その中の誰かに拓が、心魅かれる可能性もなくはない…。
「で? このチラシはお前作れんのか?」
「ポスターだって。うん、何とかね。作ってみるけど。」
「パソコンなんか使えたのかお前。」
「いまどき常識だろ。…ただ、印刷どうするかな。」
「印刷?」
「一人最低二百枚くらい配るとして、四人で八百枚。予備もあった方がいいから、ざっと千枚はいるじゃん。普通のプリンタじゃ、そんなん無理だろ。なあ。」
 拓は由布子の方を見た。
「そうね、ちょっときついわね。業務用の大きいのじゃないと…。」
「だよなあ…。たけぇんだよなカラーコピーって。」
 拓はテーブルに肘を立て、組み合わせた手を口元に当てて考えこんだ。この表情に由布子は弱かった。
「MO(エムオー)でもらえれば、あたし…やるわよそれ。会社で。」
「会社で?」
 拓は顔を上げ、
「千枚だぜ? さすがにちょっとやばいでしょう、それは。」
「ううん、休みの日に出てコソッと取っちゃえば平気。カラーコピーにね、直接パソコンから出せるようになってるの。写真と同じくらい綺麗に印刷できるわよ。ウィンドウズ95用のフォトエディタで作ってくれれば大丈夫。できる?」
「まあ、それはOKだけど…。」
 ぽかんと聞いていた高杉は、
「駄目だ、おじさんにはもう全然わからへん! ついていけない! とにかくお二人で仲よくやって下さい。コーヒーでも淹れるわ。」
 そう言って奥へ姿を消した。
 オープン準備に関するあらかたのことを決め終わると、三人の話題は陽介のことになった。
高杉に拾われたばかりのころ陽介は、誰ともろくに口をきかなかったらしい。しかし徐々に落ち着くにつれ、知らない人間にも目礼はするようになり、挨拶するようになり、しかるに最近では初対面の相手にも、人なつこい笑顔を浮かべるようになったという。
「多分さ、元来あいつ、ああなんだよ。東京出てきていろいろあって、拗ねちまったから暗かったんだろな。」
「ああ、だろうなぁ。やっぱり大工っていう、好きな仕事に打ち込めるんで嬉しいんだろうな。明るくなったよすごく。」
 そんな会話を聞いて由布子は、以前から考えていた件を二人に諮った。陽介の就職についてであった。
「内山建設っていってね、うちの会社の下職さん。大工さんだけで四十人くらいいる、工務店としては大きなところ。若い人もいるけど、ほとんどが五十代六十代のベテランばっかり。そういうところの方が陽介さん、可愛がってもらえるんじゃないかな。内山社長は私も知ってるし、多田部長…って私の上司ね、この部長が内山社長と、プライベートでも親しいの。多田部長に口きいてもらって、うちからの正式な紹介にすれば、いい立場で働けると思うのよ。少なくともいじめなんか、絶対ないでしょう。」
「うん、そうだろうな。」
 拓は深くうなずいて、
「あいつチビで細っこくて、ちょっと女の子みたいな顔立ちだろ。おっさんたちから見れば、子供か孫みたいで可愛いかもな。」
「ああ。それで腕もたつときた。客んとこ行ったらウケはいいんじゃないか? 奥さんたちに可愛がってもらえるぞきっと。」
「当人嫌がりそうだけどな。」
「由布子先生、ぜひひとつ、俺からもお願いしますよ。ちゃんとした仕事につけばあいつ、今よりもっと生き生きしますよ。」
 高杉は言い、拓に向かって、
「あしたかあさって、あいつ風邪治ったらすぐに来るだろ。そしたら折を見てさ、お前から話せよ。」
「ああ、そうするよ。工事も終わるし、ベストタイミングだ。きっと大喜びするよあいつ。」
 拓の言葉に由布子はホッとした。いい話に違いないとは思っていたが、もしかしたら、『他人の世話になんかなりたくない』などの、十代らしい反発がありはしないかと不安だったのだ。拓はコーヒーを飲み干し、カップをソーサーに置いて、
「でも面接くらいはするよな…。陽介あいつ、スーツなんか持ってねぇだろ。」
「お前の貸してやりゃいいじゃないか。」
「だめだって。裾折って袖折って、パジャマみたいになっちまうって。」
 想像して由布子は笑った。まだ少年である陽介に比べ、肩幅も胸の厚みも、拓の方が一回り大きい。いま、由布子の隣に腰を下ろしている彼の、Gパンと煉瓦色のセーターに包まれた肉体は、由布子とは対極の、堂々たる男のものなのだ。陽介の延長上にある若々しいしなやかさとともに、彼の体に備わり始めている逞しさ。血を流し戦い女を抱く、『男』という別の生き物。高杉と冗談を言い合っている拓に由布子は、突然、生々しい異性を感じて黙りこくった。
 

第2部第1章その2へ
インデックスに戻る