【 2 】

 幸枝に厳命されて二日間寝ていた陽介は、すっかり回復した体で一気呵成に、ナヴィールの最後のしつらいを完成させた。わざと汚した額縁を壁に下げたり、くしゃくしゃのクラフト紙に書き込んだメニューをテーブルに置いたり、カウンターのグラスもカップも、灰皿もみな整えたところで、拓は店内の写真を撮り、数日後由布子にMO(光磁気ディスク)をよこした。彼女は、社にある二十二インチのディスプレイいっぱいにそれを表示させて、あらためて拓の才能に感動した。ところどころ白く波頭をひらめかす波と、オーバーラップしたナヴィールの店内。英語よりは一般になじみの薄いフランス語がポンと放り出されているのも、何のことだろうと不思議に気になる。小さく載っている店への地図に気づいて初めて、ああ喫茶店のオープンなのかとわかるけれども、それまでは美術館かギャラリーのポスターとしか思えない、質の高い画面構成であった。
(インテリアプランナーだなんて、大きな顔していられないわね私も…。)
 翌々日の日曜日、由布子は計画通りに、MOを持って社員通用口をくぐった。定休日の朝九時から出社してくる社員はまずいない。私用のコピー一千枚を、取るには安全な時間帯であった。これが午後になるとそうはいかない。ゆっくり眠って昼頃起きた者たちが、一人二人はたいてい出てくる。無法地帯は長くは続かず、早ければ早いほど危険は少ない。由布子はエレベーターで、自席のある三階に上がった。
 フロアにおりて、彼女は驚いた。明かりがついている。誰がいるのだと思って中に入ると、ガラスのパーティーションで囲われたCAD(キャド)ルームで、カシャカシャとキーボードの音がしていた。
「あら、菅原ちゃん、おはよう。」
 由布子に気づいて、人影は手を振った。営業部の人間ではない。普段はこのビルの五階にいる、業務部総務課の山本博美であった。
「なぁに…どしたのこんな時間から。」
 彼女と由布子は同期である。由布子は歩み寄り、パソコンの画面を見た。博美が開いているのは一太郎だった。
「それがさ、聞いてよ、総務のマシンが壊れちゃったの。この書類、あしたの経営会議で使うやつなのに、全部一から打ち直し。もう嫌になっちゃう。」
 話しながらも博美はキーボードを叩き続けた。彼女は社長秘書も兼任しており、年中ワープロを打たされているため、ブラインドタッチはうまかった。
「菅原ちゃんは? 見積か何か作るの?」
 朗らかに尋ねられて、由布子は仕方なく笑った。
「ん、ちょっと…ね。いろいろと、やることあって。」
「ノルマあると大変よね。あたしなんかはその点気楽だけど。」
「でも明日の会議用なんでしょ?それ。もし何なら手伝おうか?」
 一刻も早く打ち終え、引き上げてほしくて由布子は言った。ポスター印刷に使おうと思っていたカラーコピー機は、博美のすぐ左側にある。それを千回動かしたらさすがに、何をしているのよと不審がられる。先日回覧された『経費節減・無駄なコピーはやめましょう!』の通達文書を、ワープロ打ちしたのは多分この博美だ。十枚二十枚ならともかく千枚である。同期のよしみで見逃せる量ではなかった。博美は、由布子の申し出の裏になど気づきもせず、
「ううん、いいのよ、ありがとう。菅原ちゃんこそ忙しいのに、気遣わないで。」
 別に気は遣っていない。由布子は渋々、CADのスイッチを入れた。アンプリイズの図面を表示させて、おざなりにスクロールアップしていると、
「そういえばさぁ、知ってる?」
 博美は呑気に話しかけてきた。
「こないだ社長が言ってたでしょう。『今この不景気こそが他社との差別化をはかるチャンスであるから、我が社は積極的に『打って出る』戦略をとり、決して守りに落ちない、攻めの営業を続けます。』っていうの。あれね、ほんとにすごいことやるみたいよ。」
 社内のトップシークレットを誰よりも先に知るのは、管理職ではなくて女性事務員である。総務籍の同期は貴重なニュースソースだ。由布子は少し興味を覚えた。
「へぇ、そうなんだ。この御時世に、何か新しいことでも始めようっていうの?」
「らしいわよ。こないだね、NK(エヌケー)の中野社長が来て、うちの社長と話してるのあたし聞いたのよ。そしたら何だか、さ来年度の四月に、NKは上海(シャンハイ)に営業所出すらしいの。現地の小さな会社とか吸収合併して、一つにまとめるんだって。でもいま日本がこれだけ不景気なのに、そんなことして大丈夫なのかしら。まあ、あたしにはそんなの、よくわかんないけど?」
 『NKの中野社長』と博美が言うのは、ホームイング・エグゼの株式を百%所有する親会社、『株式会社NKホームクリエイト』の創業者であった。彼の持つ子会社はホームイング・エグゼの他に全国に二百あまりを数え、NKホームクリエイトを頂点とするそれら企業陣は、総称して『NKグループ』と呼ばれていた。中野社長は五十八歳、一部上場企業を率いる経営トップとしてはまだ若く、鳴かせてみようホトトギスを地で行くような、ユニークなアイデア社長として知られていた。太陽の動きに合わせて基礎部分から三百六十度ひまわりのように回転する住宅や、地震がきたら丸ごと宙に浮く住宅など、彼のアイデアはときに非常識で突拍子がなく、そのまま実現できるしろものではなかった。が、その卓越なる着想を生かして応用した結果、NKにはいくつもの大ヒット商品が生まれ、それらの利益はNKグループの成長を支えて、こんにちの地位を築き上げたのである。『のるかそるかの賭けならば、のった方が経営は面白い。ただしのったからには死んでも落ちるな』を持論とする中野は、由布子曰く『この御時世に』、同業他社をあっと言わせる、どんな戦略を考えついたのであろうか。
「ほら。見てよこれ。あした部長以上に回るはずだけど。」
 博美は由布子に、プリンタから出てきたばかりのA4の紙を差し出した。女同士の情報網はどんな鉄のカーテンの中へも、こうして入り込んで行くのである。
「へえー…。すごいじゃない。『我がNKグループはこのたび、下記プロジェクトを発足することになりました。これは我がグループの勝ち残りを賭けた重要かつ必勝の営業戦略であり…』。ふうん。勝ち残りか。出たわね中野語録が。『生き残っても意味はない、当社は勝ち残ります。』でしょ。いまどき海外に営業所作る会社なんか、どこ探してもないわよね。アジアン・ドリーム再び? 見果てぬ夢を追ってなきゃいいけど。」
 醒めた思いで由布子は言った。OL歴の長い彼女であったが、別段、海外情勢に詳しくはなかったし、正直言って興味もなかった。日経誌よりは芸能誌を読み、新聞の経済欄はまとめて飛ばす。しかし、腰かけではなく会社勤めを続けていると、自分の業界の趨勢にだけは嫌でも敏感になるのである。最近のアジア経済は決して順風満帆ではなく、日本国内でさんざん痛い目を見たはずの上海バブルに踊らされて、性懲りもなく進出したゼネコンや不動産会社のほとんどが、大損をして撤退している。NKのライバル社、日高ハウスさえ、鐘と太鼓で売り出した高級分譲マンションを放り出して、去年の終わりに上海支店を閉鎖した。この山に宝はないとわかって、フロンティアもどきが続々と引き上げてくる。不毛となったその土地に、中野社長は何をまた好きこのんで、打って出ようというのだろう。
「でもさ、菅原ちゃんなんかからすれば、いいチャンスじゃないの?」
「チャンス? 何でよ。」
 意外な言葉に由布子が問い返すと、
「いやだ、それちゃんと下まで読んでないの? せっかく打ったのに張り合いないなあ。」
由布子は途中でやめてしまった判読を再開した。そこには次のような主旨の文章が続いていた。
『当プロジェクトの推進本部はNKホームクリエイトの総合企画室とする。NKグループの全社員および提携取引業者から、資格役職にかかわりなく広く希望者を募り、年功序列にこだわらない革新的な組織をもってプロジェクトとしたい。来々期に営業所がオープンした際には、現地派遣が七割、残り三割は国内勤務として、随時ローテーションしながらの組織体制を確立したい…』等々。
「菅原ちゃんも、ノルマノルマって追っかけられて、こんな、日曜日だっていうのに朝から休出してるわけでしょ? だったらさぁ、どうせ苦労するならね、そういう新しいとこで頑張ってみればいいのに。」
「頑張るって、あたしが?」
「そうよ。菅原ちゃんはバイタリティあるんだし、希望者を募るっていうんだから、希望出してみれば。」
「希望ねえ…。」
 由布子は、太字のゴシック体で記されている『グッドラック・プロジェクト』の文字を目でなぞった。
 確かに博美の言う通りではあった。プランナーたちはノルマを背負わされ、狭苦しい東京都内を日夜せかせか動き回って、似たような競合他社と、十万円足らずの値引きで争っている。どの世界のどんな業界でも、それが『仕事』である以上、常に苦労と手を携えなければなるまい。だが、どうせ苦労をするのなら、大きな舞台に立ちたいと思う。粗利五十万円の小さな仕事も、NKグループを上げての壮大なプロジェクトも、削る骨身は一緒である。ならば、もしも望みうるなら、ずしりと重い達成感が欲しい。『菅原由布子やりました!』と両腕突き上げて叫んでみたい。
「…でもまあ、現実はね。そう甘くはないでしょ。」
 読み終えた紙を、由布子は博美に返した。グループ全体と、さらに業者も含むなら、大ベテランは山ほどいる。由布子レベルの出る幕ではなさそうだった。
「夢みたいなこと言ってないで、ほら、仕事仕事! 目の前の仕事さっさとやっつけて、早く帰ろ!」
 由布子は真剣に画面に向かうふりをした。自分に話しかけることで、博美の作業効率が落ちるのを防ぐためだった。
 苦しい演技は午後一時半、いったんは終了したかに思えたのだが、博美と入れ違いに今度は、同僚の塩谷(しおや)が出勤してきてしまった。
「あれ、菅原さんもいたか。お互い大変だねえ。」
 彼はファイルを抱えてCADルームに入ってくると、マシンの電源をパチンと入れた。あたりにガサガサ広げているのは、A2サイズの平面図であった。意匠デザインを始められては、三時間やそこら彼は帰らない。Oh,my Godと由布子はつぶやいた。
 CADルームから塩谷が引き上げたのは、じつに夜の七時半であった。彼は由布子に、
「菅原さん、まだ上がんないの? 忙しいのはわかるけど無理しない方がいいよ。」
 きわめて優しい勘違いをして、じゃあお先にと告げ、帰っていった。
「冗談じゃねぇよ、ふざけんなっつうの…。」
 拓ならきっとそう言うであろう口調を真似して彼女は言い、ただちに印刷にとりかかった。拓がよこしたMOをパソコンにセットし、出力先をカラーコピー機に設定する。キャノン・ピクセルの最上位機種だ。精度は写真と変わらない。紙を吐き出すシャッ、シャッという音が、誰もいないフロアにリズミカルに響き続けた。
 印刷を終えた千枚の紙は、手提げ袋一杯ではおさまらなかった。由布子は袋をもう一つ持ってきてひろげ、丁寧に重ねて分配した。
「はぁいお疲れさま。紙づまりもせずによくやってくれました!」
 彼女はコピー機の電源を切り、ねぎらった。連続して千枚刷らせると、さすがに機械は熱くなっていた。こんな時間にもう誰も来ない。その思い込みが由布子を油断させた。フロアに人が入ってきたのに気づいたのは、背後のガラスのドアが、いきなり開けられた時だった。
「何してるんだこんなに遅くまで!」
 その声に由布子は、本当に飛び上がった。神経質そうなメタルフレームを光らせて、課長の浦部が立っていた。あまりに驚いたので何の反応もできない由布子に、彼は歩み寄りながら、
「もう九時すぎだぞ。日曜だっていうのに…それほど急ぐ仕事、抱えてるのか君は。」
「いえあの…」
 パソコンのディスプレイには、ナヴィールのポスターがそのまま表示されている。まずい、と由布子はマウスに手を伸ばした。一瞬の極度の緊張に、耳の後ろがビクビクと脈打った。浦部の目が画面上に焦点を合わす直前に、ウィンドウを閉じることに彼女は成功した。
「課長こそ、どうなさいましたこんな時間に…。」
 うろたえを隠すための不自然な明るさで彼女は言った。浦部の目からは非難の色が消えなかった。印刷したものを全て袋にしまい終えていた、それが大きな救いであった。休出して遅くまで仕事すること自体は、褒められこそすれ責められる覚えは断じてない。
「私はその、ちょっと、資料をまとめていて遅くなりまして。さっきまで塩谷さんもいたんですけど、…ちょっと話をしたりしてて。」
 言い逃れをするとき人間は、関係のない誰かを持ち出す。由布子は浦部に笑顔を向けたまま手だけ動かし、ウィンドウズを終わらせてパソコンの電源を切った。浦部は渋面を崩さず、だが語調を少しゆるめて、
「仕事が終わったんなら帰りなさい。長時間やれば偉いってもんじゃないだろう。」
「はい、申し訳ありません。」
 由布子は頭を下げ、椅子の脇に置いていた紙袋を持って、
「じゃあ、お先に失礼いたします。」
 その荷物は何だと聞かれる前に、急ぎ足でフロアを出た。エレベーターで一階に下り、通用口から外に出て、由布子はほっと溜息をついた。よりによって浦部に出くわすとは思わなかった。課長の休出などめったにない。休みの日に会社で会ったのは、思えば入社以来初めてだった。
(何しに来たんだろまったく…。)
 ビルを見上げると、四角い箱に白いテープを巻きつけたかのように、三階の窓だけが明るかった。由布子は掌にハンカチをあてて、ズッシリ重い袋を、両手に一つずつぶら下げて駅へ向かった。下げ紐が食い込んで指がちぎれそうだった。由布子は何度も立ち止まって手を休ませた。
(拓はもう、バイト終わってるかな。連絡して取りに来てもらおうか。まてよ、普段は車じゃないんだっけ。この間MOを受け取った時も…)
 そこまで考えて、由布子はあっと叫んだ。頭から冷水を浴びせられた気がした。
(MO…! パソコンから抜き取るの忘れた!)
 駅は目の前であったが、彼女は迷わずとって返した。コピー機に原稿を残さなくても、見られる寸前に画面を閉じても、あのMOからファイルをロードされたら一巻の終わりだ。由布子が逃げてきたとき浦部は、まだCAD室の中にいた。もしも再びパソコンをオンしてMOをチェックされたら、何をしていたのか全てばれてしまう。
(博美の馬鹿がワープロなんて打ってるから…!)
 逆恨みをしつつ由布子は、走って社に戻った。ビルの明かりは消えていた。してみると浦部はもういない。IDカードでドアロックをはずし、駆け込み、エレベーターの上りボタンを小刻みに押した。真っ暗なフロアに明かりをつけてCADルームにとびこむと、MOは電源を落とされた装置の中に、大人しく挟まっていた。安堵で由布子はへたりこみそうになった。
「よかったぁ…」
 取り出したMOを、彼女は胸に抱いた。浦部が何をしに来たのかは知らないが、おそらく大した用ではあるまい。急に必要になった書類を取りにきたとか、多分そんなところであろう。
(厄日だったわね、今日は…)
 今度こそ忘れ物がないことを確認して外に出、由布子はがっくり肩を落とした。
 

第2部第1章その3へ
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