【 3 】

 博美のおかげで予想外の被害をこうむった由布子だったが、彼女が教えてくれたプロジェクトの話は本当であった。火曜日の朝、月に一度だけ行われる全社朝礼の場で、ホームイング・エグゼ社長の栗原は、由布子たち社員を前に、そのプロジェクトの発足について熱弁をふるった。
「皆さんご存じと思いますが、ここ数年来異常な過熱状態にあったアジアビジネスブームは終わりを告げました。儲かるらしいという不確かな情報に引きずられて、ろくな準備もせずに手を出せば、大火傷しておしまいです。あれほど痛い思いをした国内バブルのつけを、ようやく精算できる目処(めど)がたったかたたないかで、上海バブルに飛びつきダブルパンチをくらった、…まあ言ってみれば学習能力のない企業は、貨幣価値の差をいいことにいたずらに投資しまくった物件を、半値以下で売りさばいたり、ひどいのになると放置したままで日本に逃げ帰ってきている。いや日本に限らず各国がそういう誠意のないことをしていますが、特に日本に対しては、戦時中の帝国思想のイメージがまだ濃く残っていて、単なるビジネスの失敗にとどまらず、国家間の軋轢に発展する危惧も、これは実際のところ、ないわけじゃない。海外ビジネスを自分の儲けだけでやろうとすると、とんでもない事態をまねくわけです。
 さて、ここで我々は発想を転換してみたい。中野社長がよくおっしゃるように、『虎穴に入らずんば虎児を得ず』。今がまさにその時であります。競争相手のいなくなった市場で、虎児を得ることができる絶好のチャンスだということです。すなわち!」
 栗原は声を大にし、
「他社が放り出していった虎の子を、我々が全て頂いてしまおう! これがプロジェクトの意志であり明確なる目的であります。…具体的には!」
 栗原は右手を高く上げ、一つずつ指折った。
「建てたものの売れずに残っているマンション! 宅地開発したものの家が建たずに荒れ放題の土地! ビジネス街の中心に作って放置されているビル! これらに新たな付加価値をつけて、真に必要とされる住宅ないし生活空間に作り直し、利益率の高い、収益性の高いビジネスを我々の手で展開しようというものです!」
 社員たちはざわめいた。同業他社が揃って失敗した事業を、NKグループで引き継ぎ、成功させてしまおうという、まさにこれは大胆、かつ非常識な戦略企画であった。
「はるばる海を渡って出かけていって、虎穴に入るどころか入口で逃げてきた企業がほとんどです。我々はその轍は踏まない。ライバル不在の市場に、緻密な情報分析と、自分たちの実績をもとにした、地に足をつけた戦略をもって、乗り込んで行くのがこのプロジェクトです。これを専門用語で『There is good luck in the last helping』…俗に日本語で『残り物には福がある』と言います。ここからプロジェクトの名称を決定しました。『グッドラック・プロジェクト』! 間違っても『残り物プロジェクト』とは言わないように。中野社長が激怒されます。」
 一同は笑った。こ難しい説明よりも、言い得て妙とはこのことであった。
 実は、由布子たち一般社員には知る由もなかったが、NKグループがこのプロジェクトに踏み切ったのは、東京都の住宅協会による、強い後押しがあったためであった。
 NKホームクリエイトは、国内でバブルがはじけたあと、大きな打撃を受けなかったおそらく唯一の住宅会社であった。アイデア社長の中野は大胆さと同時に冷静さも持ち合わせており、狂気に似たバブル景気が決して長くは続かないことを見抜いて、過剰な先行投資は避け、堅実な経営路線を守ってきた。その結果不良在庫を最低限に押さえることができ、バブル後の混乱期には、売上こそ落ちたものの経常利益は微増し続け、それに対する住宅協会の評価は、極めて高かったのである。
 またNKホームクリエイトには、平成不況のさなか、自社分譲の建売住宅『越谷シンフォニータウン』全二十五戸を即日完売した実績があった。さらには倒産した地元業者のあとをうけて、分譲マンション『パストラーレ浮間』を、わずか三か月で全室完売した。インテリアなどの付加価値をつけて在庫を売りさばく高度なノウハウが、NKホームクリエイトの持つ、他社に優る武器であった。
 上海バブルの崩壊に伴い、かの国の経済に与える影響を無視して、あとは知らぬとばかり自己防衛に回った諸企業のやりかたは、栗原も言うように、国家間の摩擦を呼び起こす危険もはらんでいた。日本企業が作ってしまった不良在庫は処分しなければならない。それらに融資した現地銀行の、不良債権問題が顕在化する前にだ。政府指示で都の住宅協会が動いた。事態を収拾できるパワーのある民間企業。彼らはNKホームクリエイトに白羽の矢を立て、内々の打診をしてきたのであった。
 NKにとってこれほどのチャンスはなかった。成功すれば利益ばかりか、『日本企業の国際的イメージアップに貢献した優良会社』の誉れを手にすることができる。少々の利益よりもこれには価値があった。大企業にとって喉から手が出るほど欲しいもの。それは消費者が自社に抱いてくれる、形なき『好意』に他ならなかった。グループ全体のメインバンクである東京中央銀行は融資を渋ったが、都の企業局がはたらきかけて了承をとった。のるかそるかの賭けならば乗る。NKグループにとってこれは、社運を賭けてもいいほどの、一世一代の大舞台であった。
「そこで今日、私が皆さんにお願いしたいのは。」
 一旦言葉を切った栗原は、続けて、次のような指示を出した。
「全社員、一点ずつ、これぞと思う意匠デザインを提出して頂きたい。過去に施工した実例でも、こんなものを作りたいと思う作品でも、何でも結構。部長職から新人まで、全員が何か一つ、今時点で自分の代表作だと思えるものを提出して下さい。最優秀作品には賞品として十万円の旅行券を贈ります。このプロジェクトに取り組んでいく、まずその第一歩目のきっかけ作りです。期限は本年度いっぱい、三月三十一日の定時までとします。全員、所属長あてに提出して下さい。直接私のところへ持ってきてくれても構いません。」
 さらにこの件については文書でも、全社員に通達が出された。朝礼、それから文章と、念入りに指示を繰り返されれば、これは会社も本気だなと、社員は俄然真剣になる。由布子が、配布された通達を改めてじっくり読み返しているところへ、
「菅原ちゃんなんか、向いてそうよねこういうの。」
 背後から石原が言った。えっ、と振り向くと、
「あんな小うるさい課長の下で、粗利だ粗利だってセコセコやってるより、パーッとさ、新天地で頑張ってみればいいのに。」
 博美と同じようなことを石原も言った。由布子は首を振り、
「なんでそんな。駄目ですあたしなんか。」
「あら、どうして。あたしなんかってのはあたしの台詞よ。菅原ちゃん外国語できるじゃない。それだけ有利だし、上も欲しがるんじゃないの?」
「外国語って、中国語なんかできないですよあたし。」
「英語できれば平気でしょう。なんとかなるわよ。」
「いえ英語は…いまいち…」
「あらそうだった?」
「ちょっとかじったのはフランス語だけです。あとは全然…」
「いいじゃないのフランス語できれば。あたしみたいに日本語しかわかんないよりずっと重宝よ。上海なんて世界中の人間が集まってるんでしょ? 英語わかる人はいっぱいいるだろうから、むしろフランス語とかの方が貴重じゃない?」
 由布子は苦笑し、首をかしげた。外国語ができるのは重宝、そう言われればそんな気もした。プランナーとしての能力に大差がなければ、語学力のある者は有利かも知れない。国際都市上海。バブルが崩壊したとはいえ、街の魅力に変わりはなかった。アジア独特の土臭い躍動感。大陸的な原色の激しさ。そこに日本特有の淡くはかない影を融合させたら、この世の誰もまだ目にしたことのない、新しい意匠スタイルを生み出せそうな気がする。ああ、一生に一度でいい、私の手でそれができたら。この手が震えて止まらなくなるような、プランニングをすることができたら。
 幻に酔いかけた由布子は、課長席の浦部と目が合ったことで現実に返った。明日の夢より今日のノルマだと、浦部の嫌味が聞こえてきそうだった。当年度の期末締めは目前であり、ノルマ未達は避けようもない。由布子はポケットに携帯を忍ばせて、席を立った。
 十三ケ月後の四月はひとまず置いておいて、それより由布子には重要な仕事があった。ナヴィールのオープンを控えている。拓たちは連日、彼女が提案した投げ込み活動に精を出しているだろう。由布子は化粧室で携帯のアンテナを伸ばし、インテリア齋藤にコールして、懇意の女性事務員、梶山郁江を呼び出した。
 インテリア齋藤には、八重洲の喫茶店アンプリイズの発注とともに、ナヴィールに使った材料の発注書も切ってある。ナヴィールの支払いは高杉によってとっくに済んでいるが、アンプリイズ分の請求書が、齋藤からホームイング・エグゼに上がってくるのは今月だ。斎藤側の手違いで万が一にも、これにナヴィール分が加わっては困る。齋藤の総務経理を全て仕切っている梶山が、よもやうっかりすまいとは思うが、念には念を入れて悪いことはない。しつこいと怒られるのは覚悟の上で、由布子は保留のオルゴールを聞いていた。
「はぁい、もしもーし!」
 いつも通りの元気な声で通話口に出てきた梶山は、二言三事交わしただけで、由布子の心配をたちまち見抜き、
「だいじょぶだって。きのう今日のつきあいじゃあるまいし、まかしときなさい! わかってるわかってる!」
 姐御肌の性格そのままの笑い声で由布子を安心させた。梶山は今年三十歳、インテリア齋藤の社内では誰ひとり、彼女に頭が上がらない。けれど半年後、次の秋には彼女も結婚退職が決まっていて、こんな無理を頼めるのも、これが最後かもしれなかった。
 由布子の駄目押しを一言で片づけた梶山は、恰好の話相手が電話をよこしたとばかりに、
「今ねえ、今度新しく来た若い子にいろいろ引き継ぎしてるんだけどね、これがもう全然使えないアホの子ちゃんで、なんでこんなの入れたのかと思ってさあ。どっかの紹介で採ったらしいんだけど、ほんっと頭来てるの。」
 と自分の愚痴を話し始めた。何かと力になってくれる年上の女友達なのだが、少しだけ傍若無人なところがあるのが困りものだった。由布子は話を合わせ、
「へえ、そうなんですか。嫌ですねそういうの。若いって幾つくらいなんですか。」
「確かね、二十一とか書いてあったわ。もう言われたことしかしやしない。今も銀行に行かしてるんだけど、二時間たつのにまだ帰ってこないのよ。信じらんないでしょ。どこで油売ってんだか、あのアホんだら。」
 くそみそに罵って、梶山はふと口調を変えた。
「でもさ、珍しいわね菅原ちゃん。」
「え、何がですか?」
「菅原ちゃんがさ、不安がってあたしに念押してくるなんて。『お願い、誰にも言わないでね』って感じ? 初めてじゃないそんなの。」
「そう…ですか?」
 由布子はなぜかドキリとした。梶山はゴシップ記者のように、
「ははぁん…。今回のこと、さては男がらみね? へんな男にひっかかって、利用されてんじゃないの? 恋は盲目。気をつけなさいよ!」
「何言ってるんですか。そんなんじゃなくて、知人です知人。」
「そおぉ? 怪しいなあ…。どこの、どんな知人? かっこいいの? 歳は幾つ?」
「だから、そんなんじゃないですってば。」
「あらぁ…教えられない…。そぉお…。絶対怪しいよこれ。そんなに言えないってことは人には秘密の仲なのね? 道ならぬ禁断の恋ってやつだ。さては、うんと年上のおじさまと不倫?」
「そっ…」
 最後の単語に過剰反応して、由布子は反論した。
「そんな、どうしてそこへ行くんですか。うんと年上だなんて、違います。」
「…年下なんだ、それじゃ。」
 受話器の向こうで梶山が、ニヤリと笑う気配がした。
「やったじゃない、コングラチュレイション! 秘密主義の菅原ちゃんにも、とうとうカミングアウトの時が来たわけだ! あのポーカーフェイスの由布子さんの心を溶かしたボーイなら、さぞかしハンサムなんでしょうねえ。」
 しまった、と眉を寄せる前に、由布子は笑っていた。…恋人ではない、拓とはそんな間柄ではない。だがあの極上の美青年のことを、心は誰かに話したがっていた。彼の笑顔や仕種が自分をどれだけ夢見心地にさせるか、言葉にして語りたかった。本音と建前をきっちり切り分けてくれる梶山になら、少しは心のほつれを見せてもいいかも知れない。そう思うと自然、由布子の口はゆるんだ。
「中目黒の、ナヴィールって店なんですけど、今度の二十日にオープンするんです。」
「へえ。それが彼の店なわけ?」
「の、じゃなくて、その知り合いの…。」
「ふーん。結構会ったりしてるの?」
 巧みな誘導尋問だとわかっていながら答えるのは、脇腹をくすぐられるような快感であった。
「まあ…時々?」
「ほー。映画とか、食事とか? 誘ってくれるんだ、いいなあ。」
「うん。あとはコンサートとかも。」
「へええーっ! そりゃ順調そのものじゃないの! いいわねぇいいわねぇ、幸せ真っ最中よねぇ!」
 梶山に冷やかされながら、由布子は拓の笑顔を思い浮かべた。顎を突き出し、斜め下に視線を投げる高慢な表情。その直後に、くしゃっと顔中で笑うあの落差。抱きしめたいほどの透明さと、焼けつきそうな蠱惑の瞳。両極を苦もなく同居させて、私を翻弄する美貌の青年。
 梶山との会話に弾んでいたはずの胸は、やがて切なさでしめあげられた。恋の時間のほとんどは苦しみであると、誰かの言葉を由布子は思い出した。
 

第2部第1章その4へ
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