【 4 】

 リニューアルオープンを翌日に控えた十九日の晩。ナヴィールの店内には高杉夫妻と陽介、それに由布子の四人が、開店準備のために集まっていた。幸枝は奥の厨房、高杉はカウンター内を担当し、由布子は陽介と一緒に、各テーブルに置くシュガーポットやタバスコ、ソルトのセットを、小さなトレイに揃えていた。
「何やってんだ拓の野郎は。来るんだろうなちゃんと。」
 高杉が言った時ちょうど、店の外で車が停まった。入口のドアが開き、
「おい、陽介陽介! ちょっと手ぇ貸せ。」
 肩から上だけを店内に差し入れて拓は呼んだ。陽介はすぐに飛んでいった。扉は一旦閉まり、
「重いから落っことすなよ。気をつけろ。」
 また、拓の声がした。何だろう、と由布子は手を止めてドア口を見た。横に長い持ちにくそうな段ボール箱を抱えて、陽介が戻ってきた…だけではない、陽介の背後を覆いつくす大量の花に、彼女は仰天した。花園を丸ごとさらってきたかのような束を担ぎ、続いて拓が入ってきた。
「なんだなんだ、すごい花だな…。どうしたんだそんなに。」
 カウンターから出てきた高杉も目を丸くした。薔薇に百合に牡丹にマーガレット、ガーベラ、茎の長いカラーに、グロリオサまであった。拓はテーブルに花の山をおろし、
「え? ああ、店長に言ってもらってきた。あしたのね、開店祝いのアレンジ、作ってやろうと思って。」
「もらってきたって…これ全部か?」
「だってクズ花だもんみんな。」
 拓はけろりと言った。
「もう咲いちゃってるだろ全部。だから悪いけど一日しかもたないよ。明日売れ残ったら捨てるだけの花だから、気にしないでいい、いい。」
 確かに蕾のものはなかったが、それゆえ豪華さは格別であった。テーブルの上は一瞬にして百花繚乱となり、見事さに由布子は溜息をついた。
「さてと。」
 拓はブルーのジャケットを脱ごうとして、あれっ、と手を止めた。肩に、それからおろしていた髪に、オレンジ色の粉が付いていた。拓はテーブルの上でひときわ威容を誇っている、人の顔ほどもある薄紅色の牡丹を見た。
「こいつだ…。うっわ、ベッタリ。」
 布に付いたら花粉は落ちない。拓はジャケットを脱いでパンパンはたいたが、
「…いいか別に。汚いもんじゃないし。」
 それをバサッと椅子に放り、首を傾けて髪を払った。こちらも完全には落ちなかった。後ろでまとめ、束ねると、黒褐色にひとすじメッシュを入れたように見えた。
「ところでこっちは何だ?」
 高杉は、陽介が置いた箱を目で示して言った。
「あ、そうそう。これ取りに行ってたんで、ちょっと遅くなったんだよね。」
 拓が箱を開けるのを、由布子たちは見守った。緩衝のための発泡スチロールをはずし、両腕で中身を取り出す。二重の薄紙とビニールを丁寧に剥がすと、現れたのは高さ六十センチほどの、精巧な帆船のモデルであった。
「うわ、こりゃまた…」
 高杉は目を見張り、
「ビクトリア号じゃないか、大英帝国海軍の。すごいな、本物の帆布使ってる。うわ、ボートまでついてるよ。」
 高杉は、船体に触れるとも触れぬともなく手をかざして、子細にあちこちを眺めた。得意そうに笑っている拓を見上げ、
「ちょっとやそっとの値段じゃないだろこれ。どっから持ってきた。まさかお前のじゃないよな?」
「じゃないよなって、決めつけんなよ。確かに俺のじゃないけど。」
「いやすごいな…。見てみろほら、ここ。」
 高杉は帆布の一点を指さした。メインマストで風をはらんで、帆は大きくふくらんでいる。
「な? 入ってるだろ『Le navire』って。ただのモデルじゃない、こりゃ特注品だよ。」
「うっそ…マジで?」
拓は顔を近づけ、目をこらした。
「なんだよお前が驚くか?」
「いや、だって、そこまで聞いてないから…。」
「聞いてないっておい、誰にもらったんだこんなの。」
 高杉が尋ねると拓は、
「うん、俺のスクールの先生。前にちょこっと話したの覚えててくれたらしくて、今日バイト先に電話あってさ、渡すもんがあるから帰りに寄れって。」
「葛生さんからのプレゼントなのこれ!」
 由布子は、ホテルオークラで会った葛生高明を思い出した。小柄で女性的な、だが見るからにアーティスト然とした男。溺愛する愛(まな)弟子のために特注の帆船モデルを贈るなど、葛生の好みそうなことだった。
「ここに置くか。いちばん目立つからな。」
 高杉はカウンターの棚の中央にビクトリア号を置き、うまく光があたるよう、ライトの角度を調節した。
「おお、いいねいいね! 最高だなこりゃ! 拓、お前その先生に、よーくお礼言っといてな。」
「うん、言っとく言っとく。すげえや。なんか値打ち出たよねカウンターの中が。」
「ああ。台座がしっかりしてて重いからな、これなら地震が来たって落っこちやしないだろ。」
「よし! それでは俺も、腕をご披露しましょうかね。あの花瓶借りるよ。」
 拓はフロアの突き当たり、床の上に直接置かれていた黒いエナメル焼の壺を指さした。初めてこの店に来たとき由布子が目を止めた、火の鳥の絵柄の花器だった。拓は陽介に命じて黒い台を探して来させ、その上に壺を置いて位置を決めてから、彼の髪に花粉をつけた花のかたまりを、どさっと床にかかえおろした。高杉と陽介は拓が来るまでやっていた作業を再開し、由布子もシュガーポットに手を戻したが、彼女の目はついつい、拓の背中に向いた。
 オークラの蘇枋の間で彗星のアレンジは見たけれども、彼が作品を形にする過程を、目の当たりにするのは初めてであった。鋭い花鋏の音とともに水切りをし、長さを決め、一本ずつ、または束ねてから花器に差し込んでいく。放射線形にのばしたカラーとカラジュームの葉。黄色と赤のグロリオサは周辺に散らし、チューリップは前にしなわせて、生け口にはぱらりとマーガレットがあしらわれた。巨大な三輪の牡丹で視線を中央に集め、それをぱっと四方に拡散させる役割を、濃い色の花たちが果たしていた。由布子はすっかり手を止めて、彼のアレンジングを見守った。色と流れにリズムがあり、力強い躍動感がある。花を組み合わせて空間を彩っていく技術は学べても、この感覚は天与のものだ。今、拓が浮かべている真剣な表情は見なくてもわかる。こういう時の彼には多分、どんな人間も声をかけられない。
「よし…。」
 最後の一本を挿し終わると、拓は、上から下からそのアレンジをチェックし、すっくと立ち上がって、くるりとこちらを向いた。
「…どうかな。」
 出会った視線に驚きもせず、彼は由布子に聞いた。目の奥に満足感が見えた。
「うん。」
 彼女はうなずき、
「いいと思う。流れがあって、華やかで、お祝いにふさわしい感じがする。」
 拓は手近な椅子を引いて腰かけた。
「だろ。最初、キャビンなんだからドライフラワーにしようかな、とも思ったんだけどさ、あしたはこの船の進水式じゃん。だからパッと華やかに、なまのアレンジで行くか、と思って。」
 話している二人の間を、陽介は片手にペッパーの瓶を持ったまま、うわぁー、と言って花に近づいていった。
「すげー…。にいさんて、こういうのできる人なんだ…。」
「人なんだって、お前ひょっとして、俺のことただの花屋だと思ってた?」
「うん。」
 こくりと首を振った陽介の尻を、
「この野郎。」
 拓は座った足で軽く蹴った。
「こないだ発表会来たくせに、何見て帰ったんだよ。覚えとけ、俺はな、アーティストなのアーティスト。ただしまだ勉強中のな。」
 カウンターから高杉も、
「ほおおー、大したもんだなこりゃ。あのでっかい花、こっからだと造花にしか見えないぞ。」
「うん、あれだけはね、ラッキーだった。某・華道教室の注文で入れたのに、結局流れた。今の季節に牡丹なんてなかなかないんだぜ? さすがに店長も、あれはちょっと渋ったんだけど、どうせもうもたないですよって、拝み倒してもらってきた。」
「へえ、そうなの。」
 このあいだの雪柳といい、時期外れの花がよく手に入るものだなと由布子は思った。まあ彼の回りにはプロが揃っているのだから、ルートはあって当然だけれども。
「あの壺にはさ、牡丹が合うよな。薔薇もカトレアも貫禄負けする。百花の王・牡丹じゃないと。」
「うん、そうねその通りよ。」
 初めてあの壺を見たとき、由布子も思ったのだ。あの壺には牡丹がいい。つやつやした和紙を丸めて切り込みを入れ、一枚ずつ丹念に広げたような花弁の中央に、黄金色の雄蘂(おしべ)が固まって環を作り、太陽を思わせる豪華な花容には、他のどんな花も持ち得ない、風格と威厳が備わっていた。
「しかもあの牡丹さ、名前がいいんだ。由布子、知ってる?」
「ううん、知らない。」
 彼女が首を振ると、
「『七福神』ていうの。さも商売繁盛しそうな名前だろ。」
「七福神? あの大黒さまとか恵比須さまの?」
「そ。だから、あのアレンジのタイトルは『宝船』。久さんあした、チョー縁起いいじゃん。一粒万倍日にビクトリア号に七福神だぜ? ル・ナヴィールは宝の船。すげぇ和洋折衷だけどな。」
 拓は笑い、由布子も陽介も笑った。ビクトリアは勝利の意味である。あっぱれな縁起尽くしであった。人間は運命というものに対して、そんなに不敵になれる生き物ではない。不安な時、心細い時、この道に幸あれと願う心を、力づけてくれる得体の知れないまじない。それが暦であり縁起であり迷信であった。
 三人の笑いがおさまったとき、
「…ありがとな、拓。」
 妙に真摯な高杉の声がした。三人は彼を注視した。
「拓だけじゃないな。由布子先生も陽介も、ほんとにありがとうだよな。みんなのお陰だよ。みんなに助けてもらって、あした出航できるんだよな。」
 高杉の顔は、棚の上の帆船に向けられていた。背後の三人に彼の表情は見えなかった。
「なんだよ久さん、いきなり真面目に…」
 言いかけた拓の言葉にかぶせて、
「幸せもんだよ俺は。もうちょっとで、この店つぶしちまうとこだった。それがなあ。こんな見事に作りかえてもらって…こんな、色々してもらってなあ。」
「おいおい泣くなよおやじ。よせってそういうの。」
「ばかやろう、誰が泣くか。」
 しかし高杉は背中を向けたままで、
「感謝する。本当にありがとうな。しっかりやるから。今度はしくじらないぞ。見てろよ、今に、中目黒から始まって、渋谷にガオカに田園調布と、ナヴィール一号二号三号、どんどん増やしてやるからな。」
 由布子は、そっと拓を見た。拓は見返し、微笑んだ。協力してよかった。由布子は心の底からそう思った。あちこち誤魔化すのが大変だったけれど、断ったりしないで本当によかった。自分の汗が、工夫が苦労が、誰かに受けとめられ感謝される。人間にとってこれほどの生きがいはないだろう。由布子はつい貰い泣きしそうになって、急いで顔をそむけ、まばたきをした。
「だから、おやじってば。そうやって取らぬ狸あてにしてないで、とにかくあしたのオープン、無事にしっかり乗り切れよな。どうも久さんは先ばっか見て、山登る前に小川でけっつまづくみたいなとこ、あっからさ。」
 拓は、わざとに違いない軽口を叩いて高杉を笑わせた。ふさわしい牡丹を存分に生けられた火の鳥の尾羽は、台の上で誇らしげに輝いていた。
 

第2部第1章その5へ
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