【 5 】

 翌日は快晴であった。
 八百枚のポスターをせっせと投げ込んだ営業努力が実ったか、客の入りは想像を越えて盛況であった。十時の開店と同時に来始めた客は、ほぼ八割をキープしつつコンスタントに入れ代わり、回転した。調理師の資格を持つ高杉は厨房、幸枝がそのヘルプと洗い場、拓はカウンターでドリンク類を一手に引き受けつつレジも担当し、由布子と陽介はトレンチを持って、テーブルの間を走り回った。
 由布子は学生時代にウェイトレスの経験があるため、トレンチさばきには自信があったが、陽介は生まれて初めてのことで、脚の細いゴブレットに生クリームの乗ったアイスココアを運ぶ時など、お能さながらのすり足でトレンチを両手に捧げ持ち、息を止めグラスを睨んで寄ってくる彼には、客の方が心配して手助けしてくれた。
 サイフォンで一杯ずつたてたコーヒーを、高杉御自慢のブランドカップに注いでいる拓は、爽やかにきっちりと髪を束ねていたが、額から頬へぱらりと垂れ下がる一房は、左耳のピアスとともに、彼の動きに合わせて揺れた。明らかに彼目当てとわかる女性客は、テーブルがあいているのにわざわざカウンターへ座り、コーヒーを淹れ終わるとカップを洗ったりグラスを並べたりしている拓に、熱い眼差しを注ぎ続けていた。由布子は内心穏やかでなかったが、そんなことに構っていられないほど、店は忙しかったのである。
 慣れない陽介はオーダーの取り間違いを重ね、
「えーっと、ワンレティーに…ワン…? ワン…ワン…」
「お前さ、犬じゃないんだからワンワン言ってんな。もう一度よく聞いて来い。」
 フラットな店内、拓の声は客の耳にも届き、おたおたと戻ってくる陽介に客は笑って、
「レモンティーがね、ひとつと。それにカフェオレがひとつ。あとはミックスサンドがひとつね。いい? レモンティーとカフェオレとミックスサンドだよ。大丈夫?」
 それがまたはっきりと拓に聞こえ、
「はい、僕はよくわかったんですけど、あとはそいつが覚えたかどうかです。」
 そう彼が言ったので、どっと店中が笑った。
「すごい盛況ですよ高杉さん!」
 オーダーを通しながら由布子は報告した。高杉はベーコンをフライパンでいためつつ、テンション高く答えた。
「ええもう、頑張ってますぅ! 来るならどんどん来いぃ! 千人でも二千人でも驚かないぞぉ!」
 十一時を過ぎた頃、一人の客がやってきた。いらっしゃいませ、と言った由布子に、
「はあーい、菅原ちゃん!」
 ひらひらと手を振ったのは梶山だった。
「来ちゃった。どんなお店なのかどうしても気になって。…あ、だいじょぶだいじょぶ。個人的にあたしが一人で来たんだから。」
「いえ、そんな。来てくれて嬉しいです。」
 梶山は興味深げに店内を見回しながらテーブルについて、
「へえー。素敵じゃない。これ菅原ちゃんがプランニングしたんだ。さすがよねぇ。渋いのに暗くなくて、落ち着いてるけども軽やかよね。船の中なんだこれ。へえー、すごおい。洒落てるじゃない。」
 ひとしきり褒めてからピザトーストとコーヒーを注文し、
「あの花もすごいわねぇ。あれ見ちゃったらちょっと貧弱だけど、これ、ほんのお祝いね。どっか裏の方にでも飾って。」
 ピンクと白のスイートピーの花束を、はい、と由布子のトレンチに乗せてくれた。
「ありがとうございます。裏にだなんてそんな。早速飾らせてもらいます。」
 会話はやはり拓の耳に届いたらしく、由布子がカウンターヘ行くと彼は、
「かして。俺やる。」
 そう言って手を伸ばし、スイートピーを取り上げた。リボンをほどき茎を切り揃えながら、小声で彼は尋ねた。
「由布子の友達?」
「うん、そう。取引先の業者さんで経理やってる人。このお店の材料費があんなに安くなったのは、彼女が協力してくれたからなのよ。」
「なんだ、それじゃ大事な客じゃん。」
「あ、でも、ことさらにしないでね。かえって変だから。あたしが頼んだことなの。そういう風にしておいて。ね。」
「その方がいいの?」
「うん。」
「わかった。」
 拓は黙り、スイートピーに視線を落とした。花の専門家である。由布子はまかせることにした。
「ね、ね、ね、菅原ちゃん!」
 梶山は由布子を手招き、さらに耳を貸せと示して、
「…ね、あの人?」
「え?」
「そうでしょう。パッと見てすぐわかったわよ。ものすごい美形じゃない。ロン毛がなんか、すごくセクシーな感じ。あれじゃあ菅原ちゃんも参るわね。さしずめ一目惚れってとこ?」
「いえ、そんな…」
 聞こえはすまいかと由布子は、拓の方をうかがった。彼は銀色のトレンチを取ると、ピンと指を立てて支え、ジンジャーエールの空瓶と、ずんぐりしたタンブラーに生け分けたスイートピーを、その上に乗せてフロアに出てきた。入口のドア脇にある小さな出窓、古いミルが置いてある隣に、拓はそれらを並べた。チビとノッポのコミカルな容器に、可憐な花がよく映えた。
 カウンターに戻る時彼は、梶山に笑顔と会釈を送ってよこした。梶山は、
「素敵ぃ…」
 由布子のエプロンをギュッと掴んで引っぱり、
「あたしさぁ、婚約解消しようかな。あんな風に微笑まれちゃあ、他の男みんなカバ。」
「梶山さん、声が…」
 大きい、と由布子は目で言ったが、
「嘘よ嘘、冗談だってば。安心しなさい取らないから。恋敵になんかならないであげるわよ!」
 聞こえるったら、と由布子はハラハラした。
「だけどこれは貴重だわねえ。菅原ちゃんのうろたえる姿か。恋する乙女はみんな可愛くなるし。あら? なんかほっぺが赤いわよ。」
 さんざ由布子を冷やかしたあと、ピザトーストを平らげて梶山は席を立った。レジで拓と向かい合った時、彼女はつくづくと彼の仕種を観察し、コーヒー代はサービスしますよと言った拓に、
「宣伝しときますね、このお店のこと。口コミが一番強いんですよ。」
 そう約束して帰っていった。来てくれたのは嬉しいが、とんだ台風襲来であった。決まりの悪い思いで由布子がカップを下げると、拓は、
「元気なお姉ちゃんじゃん。」
 受け取りながらそう言って笑った。彼が気分を害していないと、わかって彼女はホッとした。
「あの花もさ、もらえてよかったよ。あっちは咲ききってるから、多分今夜には散っちゃうと思うんだ。そしたら寂しいなと思ってたけど、あれ、可愛くていいよ。キャビンにちょこっと生けてある花。雰囲気あって面白い。」
「そうかな。」
「うん。今度会ったらさ、由布子からもう一度、よくお礼言っとけよな。」
「そうね。」
 新しい客が、また入ってきた。由布子は明るく、いらっしゃいませと言った。
 飲食店の客の流れには、平日と休日で大きな差がある。平日の客の波には、わっと来てさっと引く、はっきりした山があるのだが、休日にはその、嵐のような一瞬の混雑がない代わりに、波はだらだらといつまでも引かない。二時半を過ぎてようやく由布子は、厨房の隅に設けた仮ごしらえの休憩所で、幸枝の作ってくれた遅い昼食を取った。
「この分じゃ夕方からまた混むかねぇ。」
 うんざりした口調で、だが顔は嬉しそうに高杉は言った。幸枝は、
「混むわよきっと。仕込みを多めにやっとかないと。」
「じゃあ、その間の洗い場は陽介に頼むか。フロアは拓と由布子先生に、申し訳ないけどお願いしますね。仕込みが終わったらすぐに陽介戻しますから。」
「いえ大丈夫ですよ。こう見えても私、経験者です。やってるうちにカンも取り返してきました。」
 そんな打合せをしていると拓がやってきて、
「ねえ、久さん。見てると今日けっこうサンド類出てるだろ。パンとか足りなくなってない? サラダは足りる?」
「んー? ああ、足りんだろ。」
「だろじゃ困るよ。足んなかったら今のうち買ってきとかないと、今ちょっとヒマだからいいけど、混んできたらパニックだぜ。」
「そうさなあ。」
 どっこいしょと頭上の開きをあけて、高杉はぴたりと止まった。
「ない。…お前の言う通りだ、パンがない! 食パンにフランスパン、ロールパン…ありゃあ、こりゃまたみごとに出払った!」
 拓は舌打ちした。
「これだからな。おちおちフロアに専念してもいらんねぇじゃん。待ってろよ買ってくっから。」
 拓はエプロンをほどき、それを、食事中の由布子の膝にうまく放ってよこした。
「他には? ついでだから買ってくるよ。幸枝さん何かある?」
「そうねえ、お願いしていいかしら。レモン…はあるんだけどオレンジがなくなりそう。それに玉子も…。」
「玉子? 玉子もないの?」
「さっきこの人がね、一パック丸ごと落として全部割っちゃったのよ。」
「すいませんっ、慌てて手が滑りました!」
「久さんかよ…。ッたくしょうがねえな。幸枝さんさ、久さんの給料から、玉子とか割った皿の値段とか、全部計算してさっ引いた方がいいよ。」
「そうね、そうするわ。いいわね? あなた。」
「おいおいおい大蔵大臣…」
「じゃあちょっとひとっ走り行ってくるわ。あ、レジから一万持ってくよ!」
「ああ、頼むなー!」
 身軽に拓は出ていった。由布子は投げられたエプロンを丁寧に畳んだ。幸枝お手製のジーンズ地で、裾に『Le navire』と刺繍が入っている。彼女は高杉たちから見えないように、それをそっと頬に押しあてた。コーヒーの匂いがした。
 食事を終えた由布子は陽介と交代した。拓がいないのでフロアは由布子一人である。客は三組いて、静かに話をしている。由布子は何気なく外を見た。午前中はあんなに天気がよかったのに、何だか曇ってきて風が出始め、気温も下がったようだ。看板代わりのイーゼルが、風にあおられてガタガタ揺れている。倒れてはいけないと思い、由布子は外に出た。
 太陽に薄雲がかかっていた。灰色の絵の具に白を混ぜたような、春独特の不安定な空だった。由布子はイーゼルを押さえ、少し角度を変えてみた。
 車が入ってきた。ナヴィールの前には駐車スペースが一台分だけある。その空間いっぱいに、銀色のBMWが停まった。停まったからには客である。背後に誰かが下りたった。女のようだ。由布子は振り向き、いらっしゃいませと言いかけて、言い終わらずに凍てついた。
「こんにちは。」
 あの女だった。神南のバアで拓に声をかけた、ホテルオークラの車寄せでベンツからおりてきた、四十代半ばほどの、派手な化粧の、飾り立てたブランドスーツの女であった。
 

第2部第1章その6へ
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