【 6 】

「やってるんでしょ?」
 女は言った。由布子はドアの前に立ちはだかっている自分に気づいた。
「あ、はい、どうぞ。」
 ドアをあけると、女はコツコツとヒールを響かせて店に入った。由布子は後に続いた。女は値踏みするように内装を見回し、カウンターのスツールに腰を降ろした。その位置では向かい合わざるをえない。由布子は女の前に水の入ったグラスとおしぼりを出した。
「彼は?」
 オーダーもせずに女は聞いた。長い髪が大きく波打ってカールしており、指にはダイヤが光っていた。
「はい?」
「彼よ。いないの? それとも奥?」
 立っていきそうな様子の女に、いいえ、と由布子は答えた。高杉や陽介に、この女を見せたくはなかった。
「いま買い物に行ってます。すぐに戻ると…」
「そう。じゃあ待たせて頂くわ。コーヒーちょうだい。それと灰皿ね。」
 由布子は後ろを向き、カップの並んだ棚に向かった。カチリとライターの音がした。自分の留守中を考慮したのか拓は、ドリップでコーヒーを落としてあった。由布子はそれをカップに注いだ。動揺することはない。震えそうな指先を叱り、彼女はカップを女の前に置いた。
「ありがと。」
 女はブラックのまま一口飲み、
「あなた、お名前は?」
 鋭い上目使いで由布子に尋ねた。答えるべきか由布子は迷い、判断の基準を記憶に求めた。…神南のバアで会ったとき、化粧室に逃げ込んだ由布子に怒って拓は言った。その愛人慣れをやめろ、なぜもっと堂々としていないのか。
「お答えする、必要がありますか?」
 つとめて事務的に由布子は言った。女の顔から笑いが消えた。
「客に名前聞かれて、答えることもできないの。」
 女は吸いさしを灰皿のへりでパシンと叩いた。
「いえ、私はここの従業員ではありません。今日一日だけの手伝いですから。」
「そう…。」
 女は、まだ長い煙草をマニュキアの指で揉み消した。
「まあいいでしょう。答えたくないんならこっちで勝手にやるわ。いくらでも方法はあるし。」
「方法…?」
 なんのための方法がどうして必要なのか、由布子には意味がわからなかった。彼女は拓の言葉を思い起こした。あの女はパトローネではないと彼は言った。では、一体何だというのか。敵意をこの女は隠そうともしない。私がこの女の想いを直感できるように、この女は私の気持ちを見抜いている。拓を中心に私とこの女は、向かい合って火花を散らしている…。
 厨房に続く裏口から、そのとき拓の声が聞こえた。
「いや、なんか表、寒いわ。風が出てきたし、夜は降るかもよこれ。はい幸枝さん、玉子とパンと、オレンジ。それから…久さん、ほら、アンメルツ買ってきてやったよ。」
 明るく弾んだ声だった。由布子はそちらを見なかった。耳だけを気配に集中させた。
「おっ、助かるぞ拓! もうさっきから腰が痛くって。」
「早めに塗っとけよ。明日立てなくなっと困っから…」
 エプロンを片手に、拓はフロアへやって来た。高杉に話しかけていた顔を、前に、カウンターの方に向けた時、彼の両足が止まった。驚愕の表情を浮かべたのは一瞬で、すぐに彼は能面のような、感情を殺した無表情になった。
「サンキュ。いいよ、俺やるから。」
 拓に言われ、由布子はカウンターを出た。拓はエプロンを首に掛け、腰の後ろで紐を結んだ。彼の真向かいに女が座っている。由布子は居場所に困った。三組の客はくつろいで立つ様子もなく、新しい客も入ってこない。片付けていないテーブルはないし、厨房に行ってもやることはない。拓も女も無言であったが、このフロアにこうしてつっ立っていたのでは、さも聞き耳をたてているようで嫌だった。拓はおそらく、『いりゃいいじゃねえかよ』と言うだろうが、赤ん坊ではあるまいし、この重たい空気の中に、平然と立っていろという方が無理だった。
 由布子は、女が来るまで自分がしていたことを思い出して外に出た。プランターのパンジーたちは、冷たい風に肩を寄せあい、身を縮ませて耐えているようだった。
 カップルの客が出ていった。テーブルを片付けなければならない。由布子は中に入った。カップとグラスを下げたら、運ぶ先はカウンターだ。シンクがある一番端に由布子はそれらを並べた。ぼそり、と拓が言うのが聞こえた。
「飲んだらさっさと帰れよ。」
 弓型の眉をぴくりとも動かさず、言葉は氷のように冷酷だった。
「知り合いづらして居座られると迷惑だからさ、ガラガラ蛇みたいにとぐろ巻いてないで、帰れ。」
 女はカウンターに肘をつき、煙を彼の顔に吐きかけた。伏せていた彼の目が動いた。矢のような一瞥を女に放った。女は伝票を指で挟んで、すいと持ち上げ、
「ねえ、ちょっと。」
 拓ではなく由布子に呼びかけた。
「コーヒー、もう一杯追加して。」
 由布子は女を見た。拓がいきなり手を伸ばした。平手打ちでもしそうな勢いで、拓は女の手から伝票をもぎとった。
「帰れ。」
 女は拓を正面から睨んだ。由布子は目を離すことができなかった。女の眼差しに怒りと悲しみがあった。赤い爪の、だが顔と違って化粧でごまかせない手が、カウンターの上でぎゅっと握りしめられた。
 女は視線を外にそらした。ふらりとスツールから腰をすべらせ、
「ごちそうさま。」
 黒いバッグから一万円札を出して、ソーサーの下に挟み、ヒール音も高らかに歩き始めた。
「ちょっ…おい、何だよこれ! 待てよちょっと!」
 カウンターから走り出て、拓は札をつかみ戸口に駆け寄った。しかし女のBMWは、排気ガスを一吹き残して、ナヴィールを去ってしまっていた。
 拓の様子が、あきらかに変わった。由布子と視線を一度も合わさず、必要な返事だけしか、彼はしなくなった。話しかけるきっかけもつかめなかった。会話はもとに戻らなかった。
 カウンターの中でタンブラーの割れる音がした。拓が手を滑らせたのだ。
「あ、失礼しました…。」
 集まってしまった客の目に、彼は虚ろに謝った。
「大丈夫?」
 由布子は聞いた。拓は床にしゃがんでかけらを拾い集めていたが、その右の中指に、じわじわと血が流れ出した。
「拓、手が…」
「わかってる。」
 ぷつんと由布子の言葉を断ち切り、彼はガラスを捨て、中指をくわえた。
 
 九時半にオーダーストップし、十時にナヴィールはシャッターを閉めた。
「いやーっ、お疲れお疲れぇ! もう参ったねえ! 忙しいの忙しくないのって、嬉しすぎる誤算だよ!」
 厨房から出てきて高杉は言った。フロアの床を掃いていた陽介は、
「ほんと、すごかったすね。何度も満席になって、俺、どこが何の注文だかわかんなくなっちゃって。」
「いや、よくやったよくやった! 由布子先生も、ウェイトレスまでやらせちゃってまったく、何てお礼を言っていいかわかりませんよ!」
「いえそんな…。今日しかお手伝いできなくてかえって申し訳ないです。」
 由布子は言った。会社が休みの日ならこれからも手伝えないことはないが、社則で禁止されているアルバイトを、堂々と続けることは不可能だった。開店の一日くらいならともかく、何日もやっていればいつかは必ず誰かの耳に入る。あす以降の由布子は、ナヴィールには客としてしか来られなかった。
「さっ、軽く乾杯するか! なっ! ビールとそれにハウスワインで…」
 うきうきと高杉は言ったが、カウンターにダスターを干し終わった拓は言った。
「あ、悪い、俺…今日は帰るわ。」
「え? 何だよ拓、いいじゃないか乾杯くらい。」
「悪い。ほんと。俺ぬきで、自分らだけでやってよ。あしたもさ、来っから。」
「おいおい何だよ。」
 高杉は引きとめようとしたが、拓はエプロンをはずして手を洗い、ジャケットを着ると振り切って出ていった。少し白けるくらいに、取りつく島のない態度だった。
「何だあいつ…。」
 いささか釈然としない様子で高杉はつぶやいた。そばで幸枝は、
「朝からずっと動いてくれて、疲れたのよきっと。さあさあ由布子さんも。ね? 一杯だけ、飲んでいって下さい。」
 そうとりなしてテーブルの上に、ビール瓶とグラスを並べた。
 乾杯、といっても相変わらずキリンレモンだった陽介は、ほんの十分足らずで、
「じゃあ俺も失礼します。あした、また。」
 ジャンパーの襟に細い顎をうずめて、冬に逆戻りしたような寒空へ出ていった。高杉は拍子抜けしたらしく、
「なんだなんだ、だらしねぇな男どもは。さあさあ由布子先生、ぐっといって下さい、ぐっと!」
 半分ほどになった由布子のグラスに、なみなみとビールをついだ。
 由布子の胸には、苦い泡が広がっていた。拓はまさか、あの女に会いに行ったのだろうか。二人がただの関係でないことは、きょうのやりとりで明らかだった。拓がいくら否定しようと、女は全身でYesと言っている。母親ほどの歳であろうあの女の、鬱積した、屈曲した、押さえて押さえきれない溶岩の熱情が、黒々とした憎悪に化学変化して、別の女・由布子に向けられている。あの女にとって由布子は、殺してもあきたりない恋敵なのだ。
「ねぇあなた、明日の仕込み、あれじゃ足りないわよ。」
 幸枝が高杉に言うのが聞こえた。
「モーニングセットの玉子スープ、今朝あんなに出たじゃない。今日の倍とはいわないけど、もっと仕込んどかないと絶対足りないわ。玉葱と鶏肉、もうちょっと刻んどいて。ね。」
「そうか?」
「そうよ。ほら早く。あたしもあとで手伝うから。さっ。」
 子供でもせかすような口調で夫を追い立て、由布子と二人きりになると、幸枝は彼女の向かいに座り、ビール瓶を持ち上げた。
「さ。あけちゃって下さいなそれ。由布子さんお強いでしょ。」
 由布子は言われるまま中身を飲み干した。幸枝はビールをついでくれた。
「…拓くんが好き?」
 斜めにせり上がった泡が、表面でぷつぷつとはじけた。由布子は幸枝の顔を見た。柔らかそうな茶色い睫毛だった。幸枝は自分のグラスにも手酌して、
「ああいう男を好きになったら、女はつらいわね。多分一生、気の休まる時がないわよ。まあ、でもしょうがないか。魅力的よね彼は。あと十年若かったら、私だってフラフラしたかも知れない。」
 ニヤッと笑う幸枝に、由布子は初めて凄味を感じ、グラスをとめた。この店の材料を取りに八重洲のアンプリイズへ行った時、運転席の高杉に感じた、あの雰囲気と同じであった。一見呑気に見える高杉夫妻だが、決して敵には回せない、似た者夫婦なのかも知れない。
「さっきの女が気になるんでしょう。」
 ズバリ核心を突いて幸枝は言った。知っていたのかと驚く由布子の気持ちを読んで、
「洗い場からカウンターってよく見えるのよね。声は聞こえないけど、離れてる分、かえって空気は伝わるかな。」
 幸枝はすくい上げるように由布子を見て、
「安心していいわよ由布子さん。あの女はプロだから。」
「プロ…?」
「そう。わかりやすく言えばおミズ。それもただのおミズじゃなくて…そうね、どこかのバーか、クラブのママでしょうね。けっこう高級な客の来る店よ。それで、相当のパトロンがいるわ。誰かの愛人。囲われ者よ。つまり男を利用してのし上がっていく、一流のプロフェッショナルだわあれは。拓くんを独占してどうこうしようなんて、絶対にできない立場の女よ。安心なさい。」
「幸枝さん…」
 口元に浮かぶ薄笑いはただ者ではない。高杉と知り合って結婚するまで、幸枝こそがひょっとすると『一流のプロ』だったのかも知れない。
「まあね、悪女の深情けとも言うけど、拓くんだって立派な男よ。女を量(はか)るくらいの目はあるだろうし、あってほしいわね、私にすれば。」
 女を量る目…。その言葉を由布子は心の中で繰り返した。女を見る目ではなく、量る目。女の外見を中身を、社会的な箔づけの価値を、愛や恋とは遠いところで、冷静に品定めする男の眼差し。
「女はね、由布子さん。」
 すっと身を起こして、幸枝は言った。
「自分を安く売っちゃだめよ。どんなに好きな相手に対してもそう。何でもあなたの思うまま、になったら続かないわ。もちろん我儘放題すればいいって意味じゃないけどね。譲れないラインまで、譲っちゃだめ。相手をどんなに好きでも、心の手綱まで放しちゃだめよ。…さ、あけて。ぐっといってよ。」
「あ、はい、すみません。」
 注いでもらったあと、手酌しようとした幸枝の手から、由布子は瓶を取り、注ぎ返した。
 高杉にすっぽり守られて、何の不安もないように思えた幸枝だが、実際は、男という生き物のよさも悪さもあしらい方も、全て熟知しつくした怖い女であるのだろう。酸いも甘いも噛みわけた果てに、幸枝は高杉を選び、ここにいる。この先少々のことがあってもおそらく幸枝は、由布子のようにいちいち動揺したり、足元をすくわれたりはしない。こうなれる日が、来るのだろうか。由布子はひととき、拓でさえも入りこめない、女の人生の何たるかに思いをはせ、苦い酒を喉の奥に流しこんだ。牡丹の花弁が床に散っていた。
 

第2部第1章その7へ
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