【 7 】

 数日後の、夜十時。アパートの自室でナヴィールの図面を眺めていた由布子の、ソファーに置いたハンドバッグの中で携帯が鳴った。由布子はハッとしてソファーに駆け寄った。二十日以来、拓とは話をしていない。もしかして、と思って出たが、
「あ、もしもし、由布子さんですか?」
 少しハスキーな、それは陽介の声だった。
「陽介さん? どうしたの?」
 工事を始めるときナンバーは教えたが、陽介がかけてきたのは初めてだった。彼は少し口ごもってから、
「あの…お礼、言わなきゃと思って。」
「お礼?」
「拓にいさんに聞きました。俺、もう一度大工の勉強できるって。」
「あ、ああ、そのこと。」
 折を見て話すと言っていた拓は、ナヴィールのオープンという一大イベントが終わったあとで、落ち着いて陽介に話してくれたのだろう。
「ほんとに…ありがとうございます。俺、こっち出てきて、すぐに仕事やめちゃって…。田舎に帰るのも嫌で、何かちんたらやってたのに…もう一度大工の勉強できるなんて、すごく嬉しいです。俺なんかに、そんな、してもらって。」
「俺なんかって、そんなことないわよ。陽介さんの腕には驚いたもの私。大丈夫よ、今度はきっと嫌な思いなんかしなくて済むと思う。うちの…あたしの上司がね、そんな腕のいい人ならぜひ紹介してやれって。」
「ほんとですか。」
「うん。だからね、来月になったらすぐ…そうだなあ、ちょうど桜の咲く頃にね、一緒に内山建設の社長に会いに行きましょ。四月一日からより、ちょっとたってからの方がいいと思うの。年度初めは向こうも、何かとバタバタしてるから…」
「はい。そん時に着てけって、にいさんがスーツ買ってくれたんです。なんか俺、嬉しくって。」
「まあそうだったの。」
 オープンの準備をしながらナヴィールで話した通りのことを、拓は全てしてくれている。由布子は嬉しくなったが、しかし陽介の次の言葉が、たちまち彼女の気持ちを重く沈ませた。
「それで、久さんが、今度の水曜日、オープン大成功おめでとうパーティーをしようって、そう言ってるんです。拓にいさんも来ますけど、お礼ついでに俺から、由布子さんに伝えろってにいさんが…。」
「拓…が?」
 私を避けている。由布子は直感した。こういう誘いを今まで彼は、必ず自分で告げてくれた。陽介に礼を言えと言うのはもっともなことだが、パーティーの誘いまでことづけなくてもいい。自分で由布子にかける気は、拓はしなかったのだろう。
「もしもし? 由布子さん? 聞いてます?」
「え? ええ…。」
 水曜の晩。行って行けないことはない。由布子は迷った。しかし多分、拓はまた、さりげなく自分を無視するだろう。問われたことに答えはするが、冗談をいいかけたり、からかったり、あの天鵞絨(びろうど)の眼差しを注いで、とろけるような笑顔を見せてはくれまい。
「ごめん…陽介さん、あたしちょっと、行けないや。」
 由布子が言うと、陽介は悲愴な声を出し、
「えっ? なんでなんで? 由布子さん来ないんじゃ、やっても意味ないですよぉ!」
「うん…。ほら、三月ももう終わりでしょ? 三月末でね、営業成績とか売り上げとか、会社は全部集計するのよ。一年で今が一番忙しい時期なの。それに…。」
 テーブルに広げた図面に、由布子はちらりと目をやった。
「今月中に提出しなくちゃいけない資料にまだ手つけてないの。こんな言い方はあれなんだけど…今までナヴィールでいろいろやって、正直、少し仕事たまっちゃってるのよ。これ片づけないと課長に何言われるかわからないし。」
「…」
 黙ってしまった陽介に、由布子の良心はちくりと痛んだ。拓に代わって知らせてくれた彼には、何の罪もない。行くわと言えば陽介の声は、ぱっと明るく弾けるのだろう。
「ごめんね。でも仕事なんだ。ほんとにごめんなさい。高杉さんにも幸枝さんにも、よろしく伝えて。ほんとうにごめんなさいって。」
「わかった…。しょうがないですよね。久さんにはよく言っときます。それから拓にいさんにも。」
 それには答えず由布子は、
「じゃあ、内山建設に挨拶に行く件はよろしくね。正式なひにちと時間、わかったら久さんに知らせるから。」
「拓にいさんじゃなくて?」
「うん。だって陽介さんの保証人は高杉さんだもの。当然じゃない。それじゃあね。また。」
「うん、また…。」
 何か気になる様子の陽介だったが、由布子は切ボタンを押した。
 みぞおちのあたりが苦しかった。彼女はベッドのサイドテーブルの上で、沈黙している電話機を見た。拓からならこちらが鳴るはずだった。
「勝手にすればいいじゃない、馬鹿。」
 ふん、と顔をそむけて由布子は、再び図面を取り上げた。
 栗原社長のもくろみ通りなのか、社員からの『我が代表作品』は続々と集まっているらしかった。上海へ行く行かない以前に、社長自らの呼びかけは社員にとって強いモチベーションとなり、意欲をかきたてる結果になったのであろう。いつも予算の枠に泣かされ、思うままのデザインなど滅多にできないプランナーは、自由に設計した理想のプランを社長に見てもらえる、そのことだけで奮起したのだ。由布子が密かに目標としている第二営業部の女性課長・新井も、
「菅原ちゃんは何出すの? あたしはね、いつか作れたらいいなってずっと思ってたアート・ギャラリーのプランをね、仕上げて提出しようと思って。」
 心なしか目を輝かせてそう語った。
 今まで作ってきたプランの中で、最も満足のいくもの。由布子にとっては、他ならぬナヴィールがそれであった。実際のプランに若干修正を加え、もっと予算があればこうしただろうしつらいを追加して、今夜最終チェックをするために、持ち帰った図面であった。
(船か…。)
 苦労はしたが、毎日あんなに張りつめて、疲れも忘れて作り上げた店なのに、由布子の胸は虚ろだった。施主に引き渡した物件のように、遠く手を離れてしまった気がした。
(正味三カ月の、やっぱり儚い夢だったのかなぁ…。)
 春とともに終わる、冬だけの恋。いや、拓にとっては恋でさえなかろう。彼と由布子の間には、何ひとつ、なかったのだ。第一笑ってしまうではないか、由布子は彼に、本名すら教わっていない。絹糸の髪の、気紛れなエンデュミオン。咲き競うとりどりの花たちにあの、甘い毒を秘めた眼差しを注ぎ、誰を見つめることもなく、軽やかに歩み去っていく。いつかシリウスに焼き滅ぼされる日までを、ゆらゆらと、舞うように、あえかな微笑を浮かべたままで。
『ゆーこ!』
 幻聴が、耳の底に響いた。ニヤッと笑って、軽く手を上げる仕種。唇を引きむすんで花を生けていた真剣な横顔。はずしたエプロンをポンと放ってよこした、慣れて近しいふるまい。焼きついた面影をたやすく消せるはずがない。由布子はカーディガンの襟を握りしめた。
 このままで、終わってしまうのだろうか。これ以上先へは進めないのだろうか。霧に巻かれて滲んでいく船影のように、後ろ姿はやがて見えなくなってしまう。叫んでも決して帰っては来ない、冷たく閉ざされたあのドアの高さ。
「あなたも行ってしまうの…?」
 つぶやきが、胸に凍っていた涙を溶かした。遠ざかる足音が聞こえるような気がして、由布子は掌で両耳をふさいだ。
 

第2部第1章その8へ
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