【 8 】

 NHKのニュースが桜の五分咲きを告げた日、由布子は陽介を伴って、新橋にある内山建設の事務所を訪ねた。
 陽介は、拓に贈られたという紺のスーツを照れくさそうに身につけ、長い前髪をムースで上げて、珍しく額を出していた。
「そんなに緊張しないで平気よ。ね? リラックス、リラックス。肩の力、抜いて。」
 通された応接室で由布子は言った。陽介は、棒でも刺さっているのかと思うほどまっすぐに背中を伸ばし、ソファーの上で固まっている。やがてドアがあいて、小でっぷりした体に作業着を着、ごましお頭に眼鏡をかけた内山社長が入ってきた。
「やあこりゃどうもどうも。」
 割れ鐘を叩くような大声が、この社長の特徴だった。だが大声の人間に悪人はいない。由布子が立ち上がると陽介も、隣で直立不動になった。
「お忙しいところ恐れ入ります、社長。」
「いやいや、多田さんから全部聞いてますよ。わざわざお越し下さってありがとうございます。まぁまぁおかけ下さい。…さぁほれあなたも。」
 九十度にお辞儀をして頭を上げない陽介に、内山は好意的な笑顔を見せた。由布子が簡単に紹介すると、
「ええええ、もう、エグゼさんのご紹介なら、うちはもう何も言うことありませんよ。なんせじじいばっかりですんでね、若い社員は是非ともほしいところだったんです。いやいや、真面目そうな好男子じゃありませんか。ねぇ廣沢くん!」
「はっ、はい?」
「偉いよ君、今どきねえ。大工は3Kだなんて言われて、なり手が少ないっていうのに。しっかり頑張って下さいよ。大歓迎ですうちは!」
「…」
 感激の表情で陽介は由布子を見た。目頭が少し赤くなっていた。内山は最後までニコニコして、陽介の出した履歴書さえろくに見ずに、採用の書類を揃えてくれた。何枚かに住所と氏名と、保証人として高杉の名前を記入し、紹介者の欄には由布子が署名捺印して、陽介は内山建設株式会社の社員となった。さっそく明日から出社することにして、二人は玄関まで内山に送られ、外へ出た。
 陽介は、青空を仰いで深呼吸し、子犬のように全身に歓喜をみなぎらせ、
「由布子さん、ありがとうございました。もう俺、感激です。嬉しくって…。なんか、こんな嬉しくっていいのかなあ。」
 あまりの喜びように、由布子までが嬉しくなってきた。これほど開け放しの素直さで、誰かに感情を見せられるのは久しぶりだった。平日ゆえ彼女は、会社を抜けてきているのだが、『それじゃあね』とここで別れるのがひどく残念な気がして、由布子は思いついた。ここからなら溜池は近い。陽介が折っていた箸袋をヒントにした例のオブジェを、ちょうどいい機会だ、見せてやろう。腕時計を見ると十一時を回ったところで、早めのランチには最適だった。
「陽介さん、お食事していきましょうか。」
「はいっ!」
 彼は小学生のような返事をした。通りがかった空車に乗って『松ふじ』の前に横づけすると、陽介はその料亭然とした構えに驚き、
「うっわー…。こんなとこ、俺、入ったことないすよお…。」
 尻込みしかける背中を叩いて、
「大丈夫、こっちは若い人向けの別館だから、そんなに堅苦しくないわよ。きょうの陽介さん、スーツでビシッと決めてるんだもの。堂々としてて平気よ。」
 入るとちょうど、レジに女将(おかみ)がいた。いらっしゃいませと言うなり彼女は、
「あら、いらっしゃい菅原さん! その節はまあ、お世話になりまして。」
「いえいえこちらこそ、大変ありがとうございました。」
 由布子が礼をしたので、陽介はまた兵隊人形のようにお辞儀をした。彼が礼儀を正す必要は全然ないのだが、つられてしまった彼に女将はころころと笑って、
「こちら、弟さんですか? まあ、とっても初々しくて素敵ねぇ。」
 陽介は耳まで真っ赤になった。由布子は首を振り、
「いえ、彼は、社長の綿貫様にお気に召して頂いたこの壁飾りの、そもそもの作者なんです。」
「まああ、そうでしたか。これのねぇ。」
 二人の女の視線の先に、陽介も顔を向けた。ことさらに日本風な飾りのないホールにそのオブジェは、和紙の持つしっとりした暖かさが醸し出す、上品な落ち着きをもたらしていた。
「へぇぇー…。こんなんなったんですか…。」
 こわれものに触れるように、陽介はそっと壁飾りを撫でた。
「さあさあどうぞどうぞ。今日こそはゆっくりと、お昼召し上がっていらしてね。」
 女将自ら案内してくれた席に、二人は座った。時間が早いのでまだ客はいない。松風弁当、というコースを注文して熱いお茶を飲んでいると、
「なんか、今日の由布子さん、カッコいいすよね。」
 陽介は椅子の上で、体を前後に揺すりながらしきりに膝のあたりをこすり、
「いつもと感じ違うし…なんか、ちょっとおっかないみたいな、…でもカッコいいです。」
「そう?」
 由布子は口から湯呑みを離した。そういえばこういったビジネススーツで陽介に会うのは初めてだった。内山社長に対しても今の女将に対しても、由布子の示す言葉や態度は、ナヴィールでのそれとは全く違う。年の差が一つ二つの場合、男性は時として、女のこういう雰囲気に反発するものなのだが、陽介くらい離れてしまうと、そんな感情もなくなるのだろう。由布子は若い陽介の憧れめいた眼差しを受け、ひどくくすぐったい気分になって、窓の向こうの中庭に目をやった。
 広さはほんの数坪だが、きれいに手入れされた庭木に、ビルの隙間からうまく日差しが入り込んで、ふいに出現した別世界のような、ふわりとした日だまりがそこにあった。改築と同時に植えた桜の若木が、細く頼りない枝に、これが精一杯と言いたげな、わずかな花を咲かせていた。
「東京じゃ、今頃咲くんですよね。うちの田舎の方は、まだ蕾だろうけど。」
 陽介は言った。大きな盆に並べられた弁当が二人の前に置かれた。桜を型どった麩の浮いたお吸い物と、焼き魚には本物の桜の花が添えられていた。春らしい、凝った盛りつけであった。
「陽介さんのご実家は、福島でしたっけ。」
「はい。」
「福島の、どちらなの?」
「郡山です。うち、ちっちゃな工場やってて。」
「へえ。」
 家のことを話すのは嫌がるかと思っていたのに、陽介は意外にすらすらと身上を語った。家族は両親の他に兄が二人、上の兄は結婚していていずれ工場を継ぐこと、次の兄は叔父がやっている運送会社に勤めていることなどを、弁当をほおばりながら陽介は話した。小さな口によくそんなに入るものだと感心するくらい詰め込み、うめえうめえと連発されると、もう少し味わって食べなさいよとも、言えずに由布子は苦笑した。
「うらやましいわね、お兄さんがいるんだ。」
 彼女が言うと、デザートの桜アイスに舌鼓を打っていた陽介は、
「由布子さんは、きょうだいっているんですか?」
「ううん、あたしは一人っ子。だからうらやましいわ、二人もご兄弟がいるなんて。」
「でもあれですよ、兄貴なんかいたってうるさいだけですよ。お菓子とかもらってもね、取られちゃうんですよ強引に。おっきい兄ちゃんは体でかいんで、かなわないじゃないですか。『母ちゃーん』て俺が泣くとおふくろが、『何やってんだよーッ!』って怒鳴ってね。工場だから機械がガッチャンガッチャンうるさいでしょう。そこへガキが三人ぎゃあぎゃあわめくもんだから、あれ、近所迷惑だったろうなあ…。」
大人びたことを言う陽介に、由布子は笑った。
「いいじゃない楽しそうで。私なんて、どこか出かけても遊び相手がいなくて、つまらなかったな。お花見なんか行ってもね、母と二人じゃ盛り上がらないでしょ。こうやってレストランかどこかに行って、窓越しに桜を眺めるくらいよ。」
「…」
 陽介は何かを感じとったのか、黙って由布子の横顔を見た。食べ終わったアイスクリームのスプーンを置いて、何を言おうか考えていた様子だったが、
「桜って、…」
 彼は静かな口調で言った。
「九州では、別れの花なんですってね。幸枝さんに聞いたんですけど…。」
「別れの花?」
「そう。東京とか福島って、四月になんなきゃ咲かないじゃないですか。でも長崎だと三月に咲いちゃうんですよね。だから、桜って言われて連想するのが、幸枝さんは卒業式なんだって。つまり別れの花。…面白いですよね、俺らなんかだと、桜って入学式とか新学期でしょ。卒業式にはまだ咲いてない。だから、俺の桜は『出会いの花』かな。」
 別れの花と、出会いの花。同じ桜でありながら、咲く場所によってイメージは逆になる。それに気づき面白いと言える陽介の、感性は鋭く繊細だった。いずれ拓の右腕となるのに、申し分のないセンスを彼は持っていた。空を仰いですっくと立ち、懸命に花を咲かせている若木。今の陽介は、まさにそうなのだと由布子は思った。 

 

 新橋駅で陽介と別れて、由布子は社に急いだ。午後一番に課内会議がある。ゆっくり昼食を取ったせいで、時間通りには戻れそうもなかった。仕方ないか、と由布子は諦めた。多田部長には外出許可を得ているし、会議と言っても主たる議題は課員の進捗報告で、会議好きの浦部に強制されなければ、なくてもいいくらいのものであった。

 社に帰り着いたのは一時二十分であった。資料のファイルを抱えて由布子は、ミーティングルームのドアをノックした。
「失礼します。済みません遅れました。」
 声をかけて中に入り、一礼して座ろうとすると、
「なにやってたんだ!」
 いきなり浦部に怒鳴られた。八名の課員が一斉に由布子を見た。
「一時から会議だって知ってるだろう! どこ行ってたんだ今まで!」

 あまりのカンの立ちように、由布子は面食らった。遅れたのは確かにこちらの落ち度であるが、この会議には毎回誰かしら、十分や十五分は遅刻する。ここまで怒鳴られたのは由布子だけだろう。

「いえあの…」
 彼女はつい、言わでものことを言った。
「多田部長にはご許可頂いて、外出したんですが…。」
 浦部は額に青筋を立て、
「報告先が違うだろう菅原主任! 君はいつ部長直属になったんだ!」
 その言葉で初めて、由布子は何を怒られているのか知った。理屈っぽく神経質な浦部は、部下が自分を飛び越えて部長に物事を相談する、それが腹に据えかねるのだ。
「申し訳ありませんでした。」
 由布子は頭を下げたが、浦部はさらに一言、
「報連相(ほうれんそう)の徹底がされてないんだよ菅原主任は。仕事のやり方は各人好き勝手でいいと、そんな会社はどこにもないんだぞ!」
「はい、以後気をつけます。」
 浦部は苛立った溜息をつき、もういいから座れと言って会議の続きを始めた。

 三時過ぎに、課員はミーティングルームを出た。ポンと由布子の肩を叩いたのは石原だった。
「気にすることないわよ菅原ちゃん。菅原ちゃんが来る前からね、あの馬鹿課長、機嫌悪かったんだから。新年度早々、今月は目標未達みたいで、部長に大分絞られたらしいの。」
「そうだったんですか。」
「そうそう。とばっちりとばっちり。運が悪かったわね。」

 由布子はいったん席に戻ってすぐ、缶コーヒーを買いにパントリーへ行った。さっきの松風弁当は美味しかったなと思い返しながら、彼女は窓の外を見下ろした。

 ビルを出て少し行ったところにある小公園に、桜が咲いていた。まだ蕾のある今くらいの花ぶりが、由布子は一番好きだった。咲き狂い零れていく万朶(ばんだ)の桜には、なぜかいつも不安を感じた。

(ナヴィールではきっと、みんなでお花見だなんて浮かれてるかもね…)

 高杉のことだからきっと催している。酒と料理を携えて、夜桜の下に繰り出す彼らを由布子は想像した。もちろん拓も一緒であろう。しどけなく酔って、とろりとした彼に、桜吹雪が舞いかかる。心の形の花びらを額に唇にまとわせ、笑う瞳の妖艶さ。桜の精が拓に膝を貸している。まどろむ彼の長い髪に白い指をすべらせて、寝顔を見下ろす春の女神。自分の描いた想像にさえ嫉妬して、由布子は窓ガラスに爪を立てた。
 

第2部第1章その9へ
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