【 9 】

 散り残る花を急いで隠すかのように、桜が葉を茂らせ始めたある日の夕方、由布子にとって、大きな事件が起きた。
 会社の自席で提案書を作っていた由布子の前で、内線が鳴った。取ると受付からで、
「菅原主任、お客様がおみえですが…」
「お客様? 誰? 業者さん?」
 シャープペンシルを動かす手を止めて、由布子は聞いた。今日のアポは一件も入っていない。
「いえそれが、お名前をおっしゃって下さらないんです。女の方で、お約束もないとのことなんですが、いかがしましょうか。」
「女…?」
 嫌な予感が由布子を襲った。約束もせず名前も言わず、来社するような知人はいない。
「わかりました、行きます。」
 答えて電話を切り、由布子は一階へ下りた。
 予感は的中した。彼女を待っていたのは、どこからでも目につきそうな、派手派手しい朱色のスーツを着た『あの』女であった。きちんと教育されている受付担当は、来訪した人間をじろじろ見たりは決してしないが、オフィスを訪ねるにはいささか非常識なけばけばしさは、彼女たちの好奇心をかきたてているに違いない。それに彼女らは、来客を立って待たせたりは絶対にしない。下手な喫茶店よりはずっと数の多い、接客用のテーブルに通すはずだ。なのにこの女は立っている。受付担当の促しを、女は高飛車に拒否したのだろう。由布子は無言で女の前に立った。
「こんにちは、菅原由布子さん。」
 スーツと同じ朱色の唇で、女は言った。受付に並んでいる四つの目がこちらを見ていた。由布子は玄関の方に右手を伸ばして、
「ここでは何ですから、…他でうかがいます。」
 外へ出ろと示し、受付の二人に、
「個人的なお客様なの。だから、ちょっと出てきます。すぐ戻りますから。」
「はい、行ってらっしゃいませ。」
 よく躾けられた態度で、二人は頭を下げた。由布子は女とともに自動ドアを抜け、建物を出た。このあたりは事務所ばかりで、落ち着ける店は駅まで行かないとない。そんなに足をのばすわけにはいかなかった。由布子は、葉桜の公園に女を導いた。陽はもう傾いており、公園には誰もいなかった。
「何の、ご用でしょうか。」
 女が口を切らないので、由布子は聞いた。女は芝居がかった笑い方をして、
「もう桜も終わりねぇ。早いこと。あっという間に散っちゃうわ。もっとゆっくり咲けばいいものを。」
 そう言いながら葉桜を見上げ、そのままの姿勢で、
「菅原由布子…二十七歳。」
 何かの書類でも暗唱してきたかのようにすらすらと述べた。
「東洋大学工学部建築学科卒業。職業、インテリアプランナー。勤務先、ホームイング・エグゼ株式会社第三営業部。現住所、東京都世田谷区太子堂十五―十九、サニーハイツ二〇二号。」
由布子は、耳の下から首のあたりが、すっと冷たくなるのを感じた。
「まさか、調べたんですか? 私のこと…。」
 女は視線を落として由布子を見た。
「だってあなた、答えてくれなかったじゃないあの店で。言ったでしょう?いくらでも方法はあるって。ああ、別にあなたに直接迷惑のかかるやり方はしてないから安心してね。使ったのはちゃんとした弁護士だし。」
「弁護士ですって?」
 由布子は一歩女に近づき、
「なぜあなたにそこまでされなきゃならないんです。私が何かしたとでも言うんですか?」
 他人の詮索など、するのもされるのも由布子は嫌いであった。女は目をそらしてクスッと笑った。人をなめた、憎さげな態度であった。
「ごめんなさいね。でも、私も頼まれてしていることなの。好きこのんでこんな面倒なことしてる訳じゃない。できればやりたくないのよ。だけど仕方ないでしょう、彼のためなんだから。」
「…彼のため?」
 由布子は眉根を寄せた。
「そう、彼のためよ。髪の長いあのとびきりの美青年。多分あなたには『拓』って呼ばせてないかしら? だいたいいつもそうなのよね。」
 言い回しの中で女は、自分と彼との距離が由布子よりも近いことを、暗に誇示していた。
「彼に近づいてくる女たちの素性を、私は全部知らなきゃいけないの。だからあなたについても調べたのよ。」
「知らなきゃいけない、って…」
「ええ、そう。いま言ったのはほんの一部で、あなたについてはもっといろいろなことがわかったわ。お疑いなら全部聞かせてあげてもいいけど、時間の無駄だからやめましょ。今日はあなたに一つだけ、ご忠告しに来たのよ。」
 女は、由布子の心の動きを一瞬たりとも見逃すまいという見つめかたで、だが口元にだけは、たいそう余裕のありそうな、まったりした笑みを浮かべていた。
「けっこうです、そんなもの。」
 びしりと由布子は言った。焦げつくような嫌悪感が、吐き気に変わりかけていた。
「あらそうはいかないわ。これだけは言わないと最終的に彼が困るの。あなたも、好きな男を困らせたくはないでしょう?」
 女は由布子の胸の真ん中にピストルめいて人差指を向け、
「遊びならけっこうよ、彼と何をしても。別に今すぐ、別れろ切れろ言うわけじゃないの。彼を縛るつもりもないわ。彼は若いんだし、あんなに魅力的で、一度抱かれたらどんな女でも、そう簡単に離れられないのは当たり前。」
 女は、ふふっと含み笑いをして言った。
「悪い男…。罪な男ね。あなたも知ってるでしょう? 彼がどんなに激しいか。ベッドで彼は、まるで悪魔みたい。」
 女は目を閉じて恍惚の表情を浮かべた。ぶるっ、と由布子は身震いした。私は知らない。彼のからだも唇さえも。女はとろりと目をあけて、
「でもね由布子さん。彼とのつきあいはほどほどにして頂きたいの。彼は遊びでならどんな女とでもつきあうし、誰にでも優しくする。多情仏心とでもいうのかしらね。だからあなたが、そんな彼を勝手に誤解して、彼と結婚して子供を持って、そういう人生を夢みてるとしたら、それは無理なんだってことをわかって頂きたいだけ。」
 結婚。その二文字が、由布子の頭の中で回転した。拓と結婚して? 彼の妻になって? 彼の子供を持って、そういう人生…? 恋人になれないうらみばかりを無意識につのらせていた彼女は、皮肉なことだがこの時初めて、結婚というひとつの男女関係を、拓との間に意識した。
「あなたの知らないところでねぇ、由布子さん?」
 女は侮辱の眼差しを由布子に向けた。
「彼は、あなたが思うのとは全然違った人間なの。あなたは知らなくていいことだけど、彼には彼の人生があるの。彼はあなたに、自分のことをほとんど教えてないはずよ。今の彼はね、現実から目をそらしているだけ。自分がどういう立場なのか、忘れていたいのよ。つくづく甘いわね。まぁ若いから仕方ないけど。」
 女は、大きくカールした髪をわざとらしくかきあげ、
「そうそう、あなたにはあそこでもお会いしたわね、ホテルオークラ。お花の展示会の時に。」
タクシーの中で目を合わせただけだったが、やはり覚えていたのだろう。女は薄笑いを浮かべて、
「生け花だなんて、男のくせに何をまあ、役にも立たないことをしてるのかしら。明治時代のお嬢様じゃあるまいし、熱心に生け花教室に通ったりして。誰かお目当てがいるのかと思えば、どうやらみんな火遊びでおしまい。何が楽しくて花なんかいじくりまわしてるんだか。」
 この女、と由布子は奥歯を噛みしめた。生け花とフローラルの区別もついていない。スクールに通っている拓の真剣さを、少しもわかっていない。
「全く馬鹿馬鹿しい。つくづく身の程知らずだわ。同じ遊ぶにしても、もう少し気の利いたものがあるでしょうに。お金なんか私に言えばどうにでもなるんだから、まだギャンブルって言われた方が納得できるわ。その方が男の遊びとして通りがいいのに。お花だなんて女々しいこと。」
 その言葉に由布子は、腹の底から沸き上がる怒りを感じた。あれは愛人、囲われ者よと教えてくれた幸枝の言葉を思い出した。憤怒に冷たい嘲(あざけ)りが混じった。由布子は大らかに笑ってみせた。
「あなたからの忠告なんて、頂かなくてけっこうです。」
 肝(はら)の中で由布子は続けた。申し訳ないが私はあなたほど老いぼれてはいない。拓より年上といっても、差はたかが三つ。ましてや水商売のプロフェッショナルなどではない。女を量る男の目は、どちらに高値をつけるかしらね…?
「いったいどんなお立場で、そんなことをおっしゃりに来たんです。まさかあなた、彼の奥様ですか?」
 女が青鬼の形相になった。自分の台詞の効果を知って、由布子の胸に残酷な快感がひろがった。女の喧嘩は、腕力ではなく言葉なのだ。
「奥様なら話は別だけど、違いますよね。もしそうなら私、黙って引き下がります。それくらいの常識はあるつもりですから。」
 そう、あなたと違ってね。由布子は軽く鼻を鳴らした。心が牙をむいていた。こんな中年女に拓を渡すものか。汚くて下劣で汚(きたな)らしい、プライドも何も持っていない女。拓はあなたにはもったいない。彼の煌くばかりの感性も、豚に真珠で、わかりはすまい。ナヴィールで『宝船』を生けていた彼の背中に、私は気迫さえ感じたのだ。フローラルだろうと住宅だろうとあるいは工業製品だろうと、何かを真剣に造っている人間が、発する光のようなもの。一点に集中して張りつめる時に、拓が見せるあの強い輝き。牡丹の花粉を髪につけて振り返り、自信ありげに笑った瞳を、由布子は心に甦らせた。彼は本物のアーティストになれる。あの魂を貶(おとし)める者は許さない。
「私のことをどう思おうとあなたのご勝手ですが、彼の夢を悪く言うのは、やめて頂けないですか。あなたは彼を好きなんでしょう? 『面倒なことやりたくない』なんておっしゃってるけど、それは違う。あなたは彼を独占したいんです。でもそれができないから、そうやって調べてまわってらっしゃるんですね。」
 女の全身が、目に見えて震え始めた。殴られるかなと由布子は思った。それならそれで構うものか。由布子は黙らなかった。
「こんな、人の会社にまで来て小細工するような真似、二度としないで下さい。そんなに彼を手放したくないなら、もっと真剣に彼に向かっていくべきでしょう? 彼が、何を夢みて、何をしようとしているのか、そんなこともわからずにギャンブルの方がましだなんて。言っていいことと悪いことがあります。一番大事なのは彼の心でしょう? それなのに何なんですかあなたは。彼の回りにいる人を全部調べるなんて、やっていてみじめになりませんか。私はそんなこと死んでもしたくない。その代わり彼が夢に向かって羽ばたくためだったら、私は何でもできると思います。邪魔だって言われたら離れるし、他の女がいいっていうなら譲ります。でも、もし夢を手伝えって言われたら、手伝うわ。あなたには無理なことかも知れないですけど。」
 言いつのるうち、由布子は自分の台詞に煽られた。私は彼を愛している。こんな女よりもずっとだ。言葉の凶器は十分すぎるほど鋭かった。女の目には、業火がめらめらと燃え広がった。
「まあ偉そうに…。何だか本でも読んでるみたいにご立派だこと。さすが主任さんともなると違うわね。ほとほと感心するわ。でもまぁ、知らぬが仏とはよく言ったものだわねぇ。」
 女は肩を揺すり、喉の奥で笑った。
「お見通しなのよこっちは。あなた、彼に抱いてももらってないくせに、一人前に恋人気取って。相手にされてないってことがわからないの? お笑い草だわ全く。」
 笑いはだんだん大きくなった。
「しかも、何ですって? 彼の夢のためなら何でもできる? ああおかしい。いい歳して何だろうこの人は。」
「どういう意味です。」
 由布子は気色ばんだ。女はじろりと由布子を見、
「あなた彼のこと何も知らないくせに、一人で勝手に誤解してるわ。夢のために真剣ですって? あの男が? ほんとにそう思ってるの? 彼がいったいいつまで、あんなお花のお稽古続けられると思う? 言ったでしょう、身の程知らずだって。彼には彼の運命があるのよ。あなたになんか、わかるはずもないし知らせる必要もないけど。」
 女の笑い方が、やくざめいた雰囲気になった。
「だいいちね、…呆れるわよ。彼、いったい何人の女とつきあってると思う? 一晩のうちに二人か三人、はしごしてるんじゃないかしらね。人妻だろうと未亡人だろうとお構いなしなんだから。彼に骨抜きにされてのぼせあがった女が、万が一にも何かしでかしゃしないか、ハラハラしてるのはこっちよ。彼、無頓着というか恐いもの知らずというか。まあ、遊びでいちいち本気になっちゃいられないと、思ってるんでしょうけどね。尻拭いするのは私だっていうのに。…ま、甘えられるのも気分はいいわ。」
 由布子の胸は、徐々にざわめき始めた。聞いてはいけない恐ろしいことを女は言おうとしている。なぜかそんな気がした。
「そうやって見境なく遊び歩いておいて、それなのに当然の権利と言わんばかり、彼は私のベッドで眠るわ。悪魔のくせに天使みたいな顔して。あなたにはカッコいいこと言ってるかも知れないけど、男っていうのは欲張りね。遊び相手にもならない女でも、悪く思われたくはないんでしょ。私はあの気まぐれな男がいつ来てもいいように、マンションのドアは暗証ロックだけにしてるのよ。キーは下ろせないの。お金ばかりか手のかかる情夫持ったもんだわ。彼が欲しがるもの、どれだけあげたかしら。お金に車に洋服に。」
「嘘だわ。」
 冷笑したつもりが、うまくいかなかった。心のどこかが破綻していた。
「嘘? …あのねぇ、あなたにつく嘘をわざわざ考え出すほど、私はお利口じゃないの。どこかの誰かみたいに、全部頭で解決するなんてできないのよ。おわかりかしら、正義の味方?」
 軽蔑の極致、といった笑い方に、由布子はあやうく手を上げるところであった。最後の理性に縛りつけられて、彼女の右手は哀れなほど震えた。
「ま、人の情夫相手に、せいぜい夢でも見てらっしゃい。彼はあなたの手に入る男じゃない。それだけわかってくれれば結構よ。口止めされてなきゃ全部ぶちまけてやるのに、残念だわね。もっとも全部聞いたらあなた、絶望でどうにかなるでしょうから、私に依頼してるある人に、心から感謝なさいな。」
 とどめに似た一言を吐き捨てて、女はきびすを返した。公園には由布子と葉桜が残された。リングに打ちのめされた負け犬のように、孔だけの目で由布子は桜を眺めた。出会いの花。未知の不安に凍りそうな心を、力づけ手招いてくれる希望の花。それらは既に散り失せて、わずかに残っているはずの花びらも、冷え冷えとした闇に閉ざされ、そのありかさえわからなかった。
 

第2部第1章その10へ
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