【 10 】

 その夜、由布子は悪夢にうなされた。
 体の上に、男がのしかかっていた。喘ぎながら、男は由布子の体を責めていた。ただれそうな熱い息が胸もとに吹きつけられている。男の肩は汗で濡れていた。由布子は男の頭をかき抱いた。髪が指にからんだ。感触はあるのに、見ることはできなかった。自分の上にいる、これは誰の肉体なのか。
 切なげに眉をよせて、拓は吐息を漏らした。繰り返される一定の律動に、彼の髪が揺れていた。
 拓…? 拓なの…?
 問おうとして声が出なかった。指を、由布子はすべらせた。細くしなやかな絹糸の髪。両手で掻き乱して、思いきりくしゃくしゃにしたい。ずっと私はそう思っていた。
 拓はベッドに起き上がって、ふうと煙を吐いた。いつ、そのことが済んだのかわからなかった。由布子は、少し離れたところから彼を見ていた。指で挟んだ煙草を口に持っていって、フィルターをくわえ深く吸い込む。ジジッ、と紙の焦げる音がして、炎の色が強くなる。唇が離れる。淡く漂う煙を口中に呼び戻すかのように、再度短く息を吸って、また吐き出される白い煙。
 彼の肩に、朱色の爪が置かれた。肩から首へ、顎から耳へとうごめき、その手は襟足から、拓の髪の中へさしこまれた。彼は女を見下ろし、その口に唇を重ねた。
夢の時空に脈絡はなかった。由布子の上にはやはり男がいた。深々と貫かれた熱さが、腰の中心を痺れさせていた。
 あなたじゃないの? これはあなたじゃないの?
 古風なダイヤル式の公衆電話に、由布子は手をかけた。人差指で、彼女は回した。一番外側の大きなゼロの円を、描こうとして指が滑った。やり直しても、また滑った。急がないと彼は行ってしまう。暗くて視界がきかなかった。待って、拓、話があるの、どうしても言わなきゃいけないことが。真綿で塞がれたように声が出なかった。かすれた悲鳴を由布子は放った。聞こえない。これでは拓に届かない。待って、拓、待って……
 枕の上で、頭が動いた。いきなり体が軽くなった。由布子は目をあいた。ベッドの上に起き上がった。カーテンの向こうはまだ暗かった。枕元の時計は二時四十五分。彼女はドサリと身を横たえた。
 悪い夢だった。漠然としているくせに、細部はひどく生々しかった。男の髪を掴んだ感触が、はっきり指に残っていた。指ばかりではない。首筋に吹きつけられる息の熱さ、動きにきしむスプリング、あの挿入の感じまでもが、とても夢とは思えなかった。体の奥には快感の名残りまであった。夢精、という言葉が頭に浮かんだ。彼女はベッドから下りた。冷蔵庫をあけペットボトルを出した。キャップをあけて瓶ごと直接、心を冷ますようにゆっくりと飲んだ。
 情夫。
 いやな響きだと由布子は思った。男と女の関係を色欲の歪みで塗りこめる、陰湿な罪業の匂いがした。時代遅れの倫理感が、リアリティを持って立ち昇る不思議な単語。由布子はボトルをドアポケットに戻し、再びベッドにあおむけに倒れた。
 お金ばかりか手のかかる情夫。女は拓をそう評した。違う。そんなはずはない。女の話が本当なら、拓が言っていたことは全て嘘になる。女を誑(たら)して食い物にするような、彼がそんな男であるわけがない。しかしそう思う心の反対側に、燠火(おきび)に似て暗くくすぶる、『やはり』という邪念も確かにあった。愛されることも信じきることも、たやすくはない相手。あの美貌は彼にとって、両刃(もろは)の剣といえるのかも知れない。
『ねえ、あの子とはどういう関係なの。』
 抱きあったあとで、女は拓に聞くだろう。彼は髪をかきあげ、面倒くさそうに、
『何でもねぇって。知り合いの店、安く直せって言ったらやってくれただけ。自分の会社ごまかしてさ、バレたらどうすんだか。ま、俺は関係ないけど。』
『お人よしの馬鹿な子ねぇ。すっかりあなたに惚れこんだのね。』
『ま、な。』
『悪い男だこと…。』
 二人の笑い声が重なりあい、彼女は両手で顔を覆った。違う。拓は、私の愛しいひとは…
『あの牡丹さ、名前がいいんだ。由布子、知ってる? 七福神ていうの。』
 嘘なのか。幻なのか。あの微笑みもあの声も。高杉と一緒に陽介を心配している、面倒見のよい兄のような姿も。由布子は胸の中の息を全て吐いて、
「拓…。」
 そうとしか知らない彼の名を呼んだ。女の言う通りだった。認めざるを得なかった。拓に対する由布子の想いは、みな頭をくぐらせて整理したもので、理屈や思考を抜きにした生々しい肉感の前では、あまりに弱い盾だった。女が浮かべた恍惚の表情に、太刀打ちできる強さはなかった。何も知らないくせにと、そのひとことが心に刺さっていた。襲ってくる妄想で体中がおかしくなりそうだった。この苦しみから逃れるためには、彼本人に問いただすしかない。昼間のことをみな話して、あなたはあの女の情夫なのかと。
『だったらどうなんだよ。』
 もしはっきりとそう答えられたら?
『うぬぼれんなよ。いつ俺がお前のこと好きだって言ったよ。』
 聞きたくない。さながら死刑宣告に等しい。真実が靄に隠れても、最後通告をされるくらいならその方がいい。目も耳も口もふさいで、ぬるま湯の嘘に騙されていたい。恋人になどなれなくていい。会えなくなるよりずっといい。
 由布子は無明の闇の中で体を丸め、重く長い夜を耐えた。
 

第2部第1章その11へ
インデックスに戻る