【 11 】

「もしもし、由布子?」
 携帯電話に初めてかかってきた、拓の声は不機嫌であった。昼ひなか仕事中の自席で、彼の連絡を受けようとは予想だにせず、由布子はまず驚き、そして直感した。三日前のあの女の来訪を、拓は知ったに違いない。心の底で待ち焦がれていたはずの電話なのに、由布子の胸に立つ波は、喜びではなく不安であった。彼女は怯えた。いったい何を言い出されるだろう。
「話あるから。今夜時間とれない。車で近くまで行く。」
 語尾を上げずに拓は言った。由布子は横目で浦部をうかがい、
「今夜はちょっと…。仕事で遅くなるし…」
 言い終わる前に彼は、
「徹夜じゃないんだろ。何時だっていいよ。そっちの会社のそばの、あの公園の前んとこにいっから。」
 あの女と話した公園だ。いいことは決して起きないだろう場所だ。
「もしもし、聞いてる? 何時だよ。いいよ遅くたって。」
「じゃあ…九時半か十時くらい…。」
「わかった。じゃな。」
 ブツリと回線は切れた。由布子は携帯を机に置いた。何の話をする気なのだろう。怒ったような不貞腐れたような、無愛想な今の口ぶりで…。まさか、と由布子は思った。あんなにも怖れたラスト・ディ。まさかそれが、今日なのか。
 図面が一区切りついた時、時計の針は九時半を回ろうとしていた。由布子はあたりを片付け、ショルダーバッグを持った。壁にかかった丸い時計は、腹立たしいほど規則正しく時の流れを刻んでいた。会いたくて、会いたくなかった。『これが最後だから』と、あらぬ方を向いてぽつりと吐き出されたら、私はそれを容(い)れるしかない。あと一時間が過ぎた時、私は地獄にいるのだろうか。美しくて、残酷な拓。音たてて花茎(はなくき)を斬る彼の鋏。好みの形にたわめられ、牢につながれる生きた花たち。彼の獄舎を去ることもできず、立ち枯れていくたまゆらの熱情…。
 由布子は社を出た。足元を見てのろのろと歩いた。RVは待っていた。由布子が近づくと、サイドミラーの中で拓は顔を上げた。美しい目は、にこりともしなかった。このまま走って、通り過ぎてしまおうか。拓がもし追ってきてくれたら、彼の胸にしがみついて、大声で泣き叫びたい。あなたが好き。あなただけが好き。他の女ではなくて、私一人を見てくれと…。由布子は助手席のドアを開けた。シートに座り、バッグを膝に置いた。待たせてごめんなさい、と言いかけようと口を開いたとき、
「お久しぶりでございます。」
 皮肉たっぷりに拓は言った。唇を歪めて顎を突き出すこの表情のとき、彼は最も高慢に見える。固い鎧が一瞬にして、由布子の心を覆いつくした。彼女は唇を二枚貝のように閉じた。拓も黙ってキーを回した。
 芝浦は、ほんの少し走れば海である。横長の長方形を並べた倉庫の間に東京湾の明かりを臨む路上で、拓はサイドブレーキを引いた。第一京浜の騒音がここまで響いてくる。RVのエンジンも動いたままだった。そのほかの音は車内にはなかった。息苦しい沈黙に満ちていた。シニカルな拓の一言が由布子を依怙地にしていた。ついさっきまであれほどびくびくして、今にも泣き出しかねなかった心が、何という不思議な作用であろうか、どうとでもなれというに近い、自虐的な攻撃心に変わっていた。由布子はまるで拓に徹底的に嫌われたいが如く、むすっとして窓の外を見ていた。こういうところが可愛くないのだろうなと一方では思いつつ、彼女は拓が何か言い出すまで、意地でもこうしていてやれと決めた。
 けれどもそれは甘かった。強情という面で拓は、由布子より数倍上手(うわて)のようだった。放っておいたら冗談ともかく夜が明けそうで、とうとう彼女は先に折れた。
「話があるって、呼び出したのはあなたでしょう。いつまで黙ってるつもりなの。」
 拓はシートの上で少し体を動かした。
「俺のセリフだよそれ。」
 電話と同じ不機嫌な口調で、
「なんか話あんだろ俺に。いつまで黙ってんだよ。いい加減にしろって。」
「何よそれ。」
 負けずに由布子も刺々しく言った。拓は人を小馬鹿にしたような笑い方をし、
「女ってのはさ…どうしてだか、人に聞かされる悪い噂って、絶対に疑わないのな。だから下らねぇ週刊誌が売れんだよ。男って、よっぽど仲の悪い奴じゃなきゃたいてい、『おい、お前こんなこと言われてっけど、本当なのかよ』とか言ってくるもんだけど。」
 由布子はヘッドレストから頭を起こした。
「悪い噂?」
「ああそうだよ。由布子の考えてること当ててやろうか。…俺はあの女のヒモです。しかもひでぇタチの悪いやつ。女コマして金みつがせて、あっちこっちフラフラしてます。口開けば嘘ばっかり。ほんと、サイテーの男です。」
 彼はきらりと冷たい目を向けた。美貌なだけに憎々しさも強烈であった。あの女が何を話していったか、この分では拓は全部知っている。だが由布子は意地悪く笑った。
「何を一人で怒ってるのよ。ナヴィールからずっとそうじゃない。何だか一人でむくれちゃって。」
「ナヴィール?」
「そうよ、あのオープンの日よ。急に機嫌悪くなって、ろくに口もきかなくなって。高杉さんたちだってカチンときたんじゃない?」
「関係ねぇだろ、何だよ今頃んなって。」
「今頃ですって? 勝手なのよあなたは。手伝わせるだけ手伝わせておいて、終わったらもう、なしのつぶてで。いいのよ別にそれならそれで。今度はいきなり呼び出して、何かと思えば『話があんだろ』? 自惚れるのもいい加減にしたら?あなたに話したいことなんか何もないわよ。」
「ちょっと待てよ…。」
 拓は体を由布子の方に向けた。
「『ナヴィール手伝ってたから仕事溜っちゃった』って、陽介に言ったの誰だよ。さんざ無理させて、無事オープンできたあとまで、何だかんだつきあわしちゃ悪いから、邪魔だろうと思って気遣ったんだぜ? 俺…。」
 えっ、と由布子は彼を見た。
「手があいたらそっちから言ってくんだろうと思って…。それを何だよ、さもやっかいごとが片づいたみたいに知らん顔して、せっかく久さんがやってくれたパーティーだって来なかったじゃん。仕事仕事って、ワーカーホリックもいいけどさ、仕事って言えば全部許されるとか思ってねぇ? てめぇの都合で仲間うち無視するような奴、俺は信じらんないね。」
 由布子の胸で融けかけた氷であったのに、拓の言葉がまたそれを凍らせた。
「信じるなんて台詞…あなたが言えるの?」
 知らず知らず由布子は、あの女に言われたイメージを心の中に育てていた。拓は敏感にそれを感じたらしく、ぴくりと眉を寄せて、
「どういう意味だよ。」
「知らないわ、自分で思う通りでしょ。」
「…」
 拓は言葉を切った。心の底でまずかったかなと思ったが、由布子は無視した。今さら謝れるものか。拓の眉間に刻まれた皺が少しずつ平らぎ、かわって彼の目には、怒りと蔑みが半々になった、嫌味な笑いがあらわれた。
「…結局そこ行くんだ。あの、新世界の時と同じ。なんにも変わってねぇのな由布子。一人で勝手に解釈して納得して、ヒロイン気取ってんじゃねえっつの。それでなに、俺が勝手だ?」
「ええ、勝手よ。身勝手。自分勝手。怒り方までひとりよがりで独善的。怒る理由なんか、あなたにあるの?」
 身に覚えがあるんでしょ、と言う前に、拓は語気を荒げた。
「ふざけんなよ。仲間うちに誤解されて嬉しい奴いんのか? 普通ちょっとでも『この話、マジかな』と思ったら聞いてくんだろ? そういうの、由布子平気なんだ。友達に誤解とかされても、腹も立たずに平然としてられるわけ。そんなに自信あんだ。へえ、そうですか。」
 拓は細かくうなずき、
「じゃ、例えばさ。由布子の昔の男が。俺に何かいろいろ由布子のいやな話聞かして。それで俺がひとっことも由布子に言わなかったら。それでも平気なのかよ。カチンとも来ねんだ。へーーー。」
 昔の男…。その言葉は由布子の心を逆撫でした。大塚のことを拓に言われるのが、私は一番辛いのに。別れの現場を目撃された彼にだけは、何をとりつくろう術もない。拓が私に、何の誘いもほのめかしもしてこないのは、あそこで演じた滑稽な修羅場を、すっかり覚えているせいなのか。だから恋愛の対象になど、最初から思えはしないのだ。
『俺のこと言えた義理かよ。自分はなに? 不倫してたんだろ不倫。偉そうなこと言えんの?』
 そんなののしりを聞いた気がして、由布子の声はいきなり大きくなった。
「あなたにそんなこと言われる筋合いじゃないわよ!」
 拓はわずかに身を引いた。由布子は台詞で彼に噛みついた。
「何様のつもりよ! そっちこそ人にどうこう言えるの? 人妻だろうと未亡人だろうと、一晩に二〜三人はしごしてるって、自分こそ恥ずかしくないわけ!」
 拓は大きく目を見開いた。
「なんなんだよそれ!」
「あたしに聞かないでほしいわね。こっちだって聞かされた話よ!」
「聞かされたって…。お前、サイテーなそういうとこ。」
「最低?」
「ちっとはわけのわかった奴かと思ってたら…。そこらの馬鹿どもと変わんねぇじゃん。自分じゃ何も判断できなくてよ、人の話ばっか聞いてんのな。お前、人生なに信じてんの。ワイドショーがさしずめこの世の正義だ。自分の目は節穴だって自分で言ってんと同じだぜ?それ…。そんなんだからろくな男とつきあえねぇんだよ。」
 由布子のこめかみから血の気が引いた。目の奥が暗くなりそうだった。ろくな男とつきあえない。他ならぬ拓にそれだけは言われたくなかった。悲しみと怒りと悔しさが一緒になって、胸の中をかけめぐった。正面を向いている拓の横顔が涙でかすんできた。拓はちらりと目を動かした。すぐに彼は苦笑して、
「わり。今のは、訂…」
「…まともな相手とつきあえないのはどっちなの!」
 由布子は本当に怒鳴った。
「あなたはね! 相手に対して、自分をどういうふうに思えって、自分で決めてむりやり強制してるのよ!」
 息が苦しかった。肩が大きく上下した。拓、という呼び名しか明かさないで、それだけでどうやって判断しろというのだ。MASATOMOのオートクチュールをぴたりと着こなしてあらわれて、裏地が破れているから俺は貧乏だよと言われても、はいそうですかと信じる女がいったいどこにいるのだ。
「裏地の…裏地の破れなんて、そんなもんで判断しろっていうのがおかしいの!」
「なに?」
「あなたがどういう人間かなんて、あなたが誰かに言ってきかすことじゃないのよ! 人にちゃんと自分を理解してほしかったら、まず自分できちんと話しなさいよ! それもしないでああ思えこう思え、他の人間の言うこと信じる奴は馬鹿、みたいな言い草、自惚れにも程ってもんがあるのよ! 俺は貧乏な苦学生? あなたがどういう人間かをね、判断するのはこっちなの! 人間の評価っていうのはそういうもんなのよ!」
 拓は、いきなり飛んだ由布子の話に一瞬きょとんとしていたが、
「うわー…何だそれ…。リクツっぺー…。人間の評価ときた。さすがワーカーホリックだわ。私の評価がこの世の全てってことか。『私が見たところこの男はヒモである』『私が見たところこの男はウソをついている』それが結論です、さぁ何点でしょうか! 十点十点十点十点、九てーん! ああ惜しい! 総合評価でボツです! あとはもう聞く耳持ちませーん!てか。ふざけんじゃねぇよこの馬鹿女!」
「馬鹿はあんたよっ!」
 怒鳴り返して、由布子の心から歯止めがはずれた。彼女はギッと奥歯を噛んで、ついに言った。
「それなら一つだけ聞くわよ。濁さないで答えて。適当な、曖昧なこと言わないで。」
 拓は目をそらし、シートにもたれた。由布子は覚悟を決めた。
「あの女は、あなたの、いったい、何なの。」
 しん、と沈黙が流れた。拓はヘッドレストの上で頭を動かした。髪のこすれる音がした。これだけは言いたくなかったのにと由布子は思った。母親と同じ台詞であった。深夜、言い争いの声で目が覚めた。母が泣きながら父に食ってかかっていた。写真を父に叩きつけて、『この女はあなたの何なのよ、答えてよ、ねえ! 一体誰なのよ!』 …父は無言で渋面を作っていた。信頼も何もなくなってしまった男と女の、哀れなほど醜悪な場面であった。拓が口を開くのがわかった。由布子は両手を握りしめて身を竦めた。一秒とはこんなにも長い時間だったか。
「…五年前…俺、あいつんとこ出入りしてた…。」
 拓は短い溜息をつき、
「愛人。」
 ぽんと放り出してから言い足した。
「…親父のね。」
 両目を由布子は開いた。頭の中が真っ白になった。親父の愛人。愛人。愛人…。壊れたテープがリフレインした。拓は、彼女にとも誰にともつかぬ平淡さで語り続けた。
「知らなかったんだよ、俺、そん時は…。あいつが親父の愛人だってことも、親父に言われて俺に近づいたってことも…。」
「言われて…?」
 半鐘のような動悸の中で、由布子は理解した。拓の行動を管理報告するようあの女に依頼したのは、彼の父親だということか。
「そ。俺が、どっかの女に金借りたり、子供産ましたりしないように? 俺、それ知って、もう、完全キレちゃって…。親父に絶縁状たたきつけてさ、うち、出て…。それ以来帰ってない。しばらくめちゃくちゃやって、一年くらいしてからかな、久さんに会ったの。で…なんか馬鹿やってんのもいいかげん嫌んなってきて、バイト始めて、スクール行って…。だけどどうやって調べんだか、あいつには相変わらずつきまとわれてさ、でもだんだん、いちいち怒んのなんか疲れちゃって。放っときゃそのうち諦めんだろうと無視してたら…。由布子の会社まで行ったんだって?」
 由布子は、唇が震えるのを止められなかった。あの女のことなど、もうどうでもよくなっていた。自分がなぜ、これほど彼に魅かれるのか、由布子は今、わかったと思った。父と、その愛人。心の奥底に、消すことのできない深い傷。大人になれば忘れてしまうと思っていた、だがそれは間違いだった。普段は思い出しもしないのに、ふとした拍子に痛みは甦った。後ろ手に父が閉めたドアの、あのバタンという音は、死ぬまで耳から離れないだろう。それと同じ傷を、彼は心に負っている。由布子はすがりつくように言った。
「あたし…あたしも、拓、多分あなたと同じなの。」
「え?」
「あたしの父もそうだった。…愛人がいたの。それであたしが七つの時、夜中にそっと出ていっちゃった。愛人と、それから子供のところへ。」
「うそ…」
 拓は、思いもかけぬ表情をして由布子を見た。彼女は、昂(たかぶ)りにまかせて話し続けた。
「それ以前から、ほとんどうちには帰ってこなかったけどね。たまに帰ってくると母とケンカして、またすぐ出てったりしてた。母はもとから体が弱かったのね。でも父が出ていったあと、絶対に離婚はしないって頑張って…。でもあたしが高校の時に、肝炎こじらせて…。」
「…そっか…。」
「仙台にいる叔母さんが、それからあたしの面倒みてくれたの。叔父さん置いて、一人でこっち出てきてくれて。だからあたし、もう二十年近く、父には会ってないの。どこにいるかも、もう知らない。」
「ふーん…。」
 拓の話を聞くはずの由布子が、いつしか話す側に回っていた。社会に出てからはこんな風に、寂しさを人に話したことはなかった。義理も損得もなくつきあえた親友たちは、みなどこかへ嫁いでしまった。
「今にして思うと、なんであんなことしたんだろうって思う。」
「何が?」
「…大塚さんのこと。」
 思い切って言ったが、拓は、
「誰、それ。」
「今あなた言ったじゃない。…私が、前に、つきあってた人よ。」
 拓は大塚の名前は知らないのだ。ようやく一致したらしく、
「あ、…ああ、あの。」
「そう。恥知らずよね、私。父が帰ってこない夜、あんなに母は泣いてたのにね。夜中に目が覚めるでしょ。そうすると、隣の部屋で母が泣いてるのがわかるの。それ聞くと私も、寝つけなくなって。ああいう思いを、どこかの知らない誰かにさせてたかと思うとゾッとする。母親の涙、ずっと見てきたのに。」
「……」
「父にね、私より五つも下の子供がいるってわかった時、なんか世の中、信じられなくなっちゃった。子供に罪はないって今は思うけど、当時はね、殺してやりたい、なんて馬鹿なこと考えて。そうしなきゃその子に、お父さん取られちゃうって。」
「……」
 拓はハンドルの上に両手を組み、その上に顎を乗せて外を見ていた。取ってつけたような同情も、的外れな励ましもなく、彼は黙って聞いていた。痛みを知っている者だけが持つ、静謐(せいひつ)な優しさだと由布子は思った。
「似てるのかしらね…私たち。」
 素直に由布子は、思うままを言った。先ほどまでの激しい怒りは、洗い流されたように消えていた。拓はハンドルから体を起こすと、サイドブレーキを戻してアクセルを踏んだ。
「…いいとこ、連れてってやるよ。」
 大きくハンドルを切られ、車はUターンした。
 

第2部第1章その12へ
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