【 12 】

 この時間からどこへ、と由布子は思ったが、車はじきに目的地に着いた。あたりはずいぶん暗かったが、そこは東京のど真ん中、日比谷公園の前であった。二人はRVを降り、公園内に入っていった。さすがにもう人影はない…と思ったのは間違いで、あちこちのベンチにカップルが座っていた。男は女を膝に乗せ、ブラウスの襟に手をさしこんでいた。捲り上げたスカートの下がどうなっているのかまで、レモン色の月は照らさない。
「別に、ああいうたぐいのこと、しに来たわけじゃないからね。」
 苦笑して拓は言い、
「たまーにね、巡回してんだよな。気をつけないとヤバいけど…。」
 立入禁止の芝生に入り、植え込みを跨いで木々の間を進んだ。
「ねえ、どこまで行くの。」
 暗くて足元が怖い。由布子は不安になって尋ねた。
「もうちょっと…。あと少し行けば、雪が積もっ…」
 木の枝を手の甲で払い、拓は言葉を切った。由布子は彼の背中越しに前を見た。低い位置に水銀灯がある、と思ったがそうではなかった。四月の東京になぜ雪がと、彼女は目を疑った。
 雪柳だった。
 純白の尾根を連ねる山脈が、月光の中に浮かび上がっていた。歩道からかなり入った木立ちの奥に街灯は一本しかなく、青白いその光は重たげな花房に吸い込まれ、おぼろな花明かりとなってあたりを照らしていた。枝分かれした細い幹が音もなく風に揺れると、弓なりにしだれる豊かな穂先は、ゆらゆらと地面を撫でた。
「ラッキー! ちょうど見頃だわこれ。」
 拓は芝生に腰を下ろした。隣に由布子が座ろうとすると、
「あ、これ敷いて。」
 はおっていた薄いブルーのシャツを脱ぎかけたが、彼女はいらないと断った。
「スカート、汚れるよ。」
「平気よ。芝生だし、濡れてないもの。」
 拓はシャツの襟を戻し、途中、コンビニで買ってきた白いビニール袋から、ガサガサと月桂冠のカップを取り出した。
「ほい。」
 一つを由布子に渡して、彼はカップを開けた。
「俺さ、これ一回やりたかったんだ。雪柳で雪見酒。」
 拓はカップを持った手を由布子の方に伸ばした。カツンとカップを触れ合わせ、二人は酒を一口飲んだ。うまい、と彼はつぶやいて、
「ほんとはね、お燗した方が風情が出んだろうけどな。こんな、ほわーっと湯気が立って、もっとほんものの雪見酒っぽいの。」
「そうかなあ。十分よこれで。こんな雪見酒があるなんて初めて知った。」
 由布子は、幅およそ七〜八メートルにわたる雪柳のひと群れを、端から端まで眺めた。咲くべき季節に守護されて咲き誇る、幸せな花たちであった。拓は由布子に、
「ここ見つけたのはね、去年の夏。バイト先の本店がこのすぐそばなんだ。で、帰りにあんまり暑いんで、あー、昼寝してこ…とか思って、涼しいとこ探してたら、あれっ、これって全部雪柳じゃん! とか思って、こりゃ春になったらすげえぞ、絶対ここ来て酒飲んでやれって思って…。うん。すげえや。思った通り。」
 夏の間の雪柳は、ただのへんてつもない庭木である。それをちらりと見ただけで、咲いたらすごいとわかるのはさすがだ。由布子は、食道を流れ落ちる酒のほの熱さを感じつつ、そういえばと思い出した。
「昔ね、小学校行く途中に大きな家があって、そこのうちのフェンスから、やっぱり雪柳が顔出してた。」
「顔出して?」
「ほら、こういう、針金が斜めにかみあって、菱形の網目になってるフェンスあるじゃない。あれが道の脇に続いててね、そこから、まだこんなには大きくなってない、ひょろひょろした雪柳が枝を出してたの。葉っぱだけの時は何とも思わなかったけど、花が咲いたら、何だか雪柳がね、一生懸命顔出して外見たがってるような気がして、そこ通るのがすごく楽しみだった。」
「ふうん。」
 拓は、カップを掌に挟んで転がすように回していたが、急に明るい顔になって、由布子の方を向いた。
「な、…小学校ってばさ、理科の時間に朝顔植えなかった? 一人一鉢ずつ。こうやって、人差指のここんとこまで土に穴あけて。」
「…うんうんうん!」
 言われて由布子は即座に、素焼きの鉢の表面の、茶色くざらついた感触を思い出した。教室内で手順を説明されてから、外へ出ていって実際に種を植える。鉢底の穴には半分くらい隙間をあけ、水が流れるようにしなければいけない…。
「そいでさ、観察日記とかつけたろ。青くて硬い表紙のこんなノート…」
「ジャポニカ学習帳じゃなかった?」
「それだ! でさ、でさ、いるんだ必ず! いつんなっても芽が出ない奴な!」
「いたいた!」
「でさ、こんなふうになって本葉が出んじゃん。双葉とは形が違いますからねって、先生が黒板に絵書いて。」
「そう! 緑のチョークって見づらいからめったに使わないのよね、こんな時でもないと。」
「蔓が伸びてくるとこんな…丸い支柱立ててさ、蔓はどっち向きに巻きつくでしょうか、なんて調べてな。」
「あったあった。水やりの当番決めて、夏休み前にはうち持って帰るのよね。」
「うん。いよいよ夏休みだーっ、てワクワクしたろ。こうやって大事に抱えて、洋服とか汚すんだそいで。」
「緑色の苔みたいなのが、びっしり生えるのよね鉢の回りに。」
「あれが、落ちねんだよなシャツにくっつくと。慌ててこすってかえってひどくしちゃって、やっべー、おふくろに怒られる…」
「やっぱりあなたも?」
 由布子は声を上げて笑った。拓も後ろに両手をついて、体を反らせて笑ったが、
「いけね、あんまり大声出すとまずいわ。ライト向けられて職務質問されんぞ。しーっ。」
「しーっ。」
 由布子も口の前に人差指を立てた。声のトーンを落として彼女は、
「不思議ね。花の思い出ってだいたい、子供の頃の記憶になっちゃうのね。」
「だよな。なんでだろうな。」
「カンナの葉っぱの先…こんな、くるくるってきつく巻いてる中から飛び出してる芽みたいなとこ、あれ抜いてくわえると水が出てくるでしょ。」
「え、それ知らない。」
「知らない? あとはね、サルビアの花。あの赤い、ひょろって突き出してる花を摘んでね、…甘いのよあれ。蜜があるの。」
「虫みてえなことしてんなよ。由布子ってどこ生まれ? もしかしてすげぇ田舎?」
「いちおう首都です。…都下だけど。」
「都下でそんなことやってたの? 信じらんね。花の思い出って言ったって、全部食った話じゃん。朝顔も食ってたら笑うぜ?」
「たまたまよ。そんな、野生児じゃあるまいし…。あとは、思い出の花っていうと、おしろいばなかなあ。」
「おしろいばなって、噛むと苦そうじゃねぇ?」
「だから食べてませんて。近所にね、毎年毎年、ずらっと見事におしろいばなの咲く道があったの。二百メートルくらい、ずっとよ。赤も白も黄色も、絞りのもあって、夕方になるとすごくいい香りがして…。」
 おしろいばなは夕方になると咲く。由布子は、この花が香り始めると必ず聞こえてきたひぐらしの声と、打ち水をしていた老婆の曲がった腰とを、映画のワンシーンのように思い浮かべた。おしろいばなの花も美しいが、彼女は黒いころころした種が好きだった。星型のがくを台座にした種は、指でつつくだけでたやすくこぼれ落ちる。子供だった由布子は茂みの前に立ち止まり、一つ、二つと集め始めた。となりにも、その下にも、黒い粒はきりもなくあって、彼女はいつも夢中になった。
『由布子! いつまでやってるの。ほら、行くわよ。』
 しびれを切らした母に呼ばれ、駆け戻る彼女の手の中で、でこぼこした縦縞を刻むまん丸い種は、やがて咲く次の夏を夢見ていたのだろうか。
「おしろいばなって、実を割ると中から白い粉が出てきて、それがおしろいみたいだからおしろいばなって言うのよね。でも…あたしはあの丸い種を、割ろうなんて思ったことなかったな。ころころしてて可愛くて。母親に手引かれて歩いてるのに、おしろいばな見つけると種とりに行くの。おかしいでしょ。よく母に笑われた。」
「由布子とお母さんの、思い出の花なんだ、じゃあ。」
「うん、そうかも知れない。今でもおしろいばな見ると種とりたくなって、それで母のこと思い出すから。」
「だろうね。」
 由布子は酒を飲んだ。拓も一口飲んで、カップを揺らし、眺めている。由布子は何気なく聞いた。
「あなたは?」
「俺?」
「そう、あなたのおかあさま。きっと綺麗なかたなんでしょうね。」
 思い出話の気分のまま尋ねたにすぎなかったが、拓はすぐには答えず、カップを傾けて酒を喉に流しこんだ。ごくり、と嚥下して、彼は言った。
「死んだ。…俺が十七ん時。事故で。」
 由布子は凍てついた。いきなり無神経に、彼の心に踏み込んでしまったかも知れないと思った。それは彼女がこの世で一番、軽蔑し嫌っている行為であるのに。
「そうだったの…。」
 由布子はうなだれ、そして思い至った。あの女が、彼の父に言われて拓を監視しているというのも、本妻が亡くなったからだとすればうなずける。母親が健在ならよもやありえぬことだ。
「もうさ、変な感じだったよ。だって朝はピンピンしてたんだぜ? 電話があって病院行ったら、…白い布かかってんだもん。悲しいとかそういうのより、『うそだろ…』って思ったね。いきなりスパッといなくなってくれたからね、もう何がなんだか? 葬式やってても、ひとごとみたいな気がすんだよ。死に顔、見てないせいもあんだろうな。」
「見てないって?」
「ほら、俺まだ学生だったから、医者が気遣って。ショック大きいだろうって。交通事故で、相手トラックだったからさ、なんかもう…ぐちゃぐちゃ?」
「やだ、そんな言い方…」
「あっちが無理な右折してきて、完全過失だっていうんで、慰謝料とか保険金とか、すげえ入って。今でも俺、多少はそれで食ってるってとこ、あるし。」
「そう…。」
 それ以来、このひとは一人で生きてきたのだ。由布子は痛いほどの気持ちで彼の横顔を見つめた。出会ったのは運命かも知れないと、そんな想いさえ頭に浮かんだ。
 由布子も、一人だった。叔母はよくしてくれたけれど、決して母そのひとではない。母の死によって離婚は即成立し、父の愛人は堂々と、新しい妻の座についたのだ。妻と子供に囲まれたかつての父に、由布子は一切の感情を禁じた。ひとりで生きていける。そのための強い力を得たいと願った。だから建築の道を選んだのだ。
 多分、このひとは知っている。私と同じ、暗く冷たい孤独の夜を。人にはない彼の優しさ、気遣い、それらはみな、涙と引き換えに彼が得たものだ。人の心に敏感な彼は、人の心に泣いたことがある。高杉もそう言ったではないか、いろいろな想いを、くぐってきた青年だと。そう、同じなのだ、私と彼は。
 感動を噛みしめながら由布子は、そのときひとつのことに気づいた。拓は、父の愛人だとは知らずに、かつてあの女と関係を持った。真実を知った彼は父の元を飛び出し、荒れた生活をしたという。母親を苦しめたはずの愛人と、知らなかったとはいえそういう間柄になったら、拓はいかばかり運命を呪い、自分を憎んだに違いない。父に連なる自分の名前を、捨てたくなるのは当たり前である。『T・K』と記す拓の心からは、血の色の涙がしたたっている。正妻の息子を掌中にしてあざわらったあの女に、由布子は夜叉ほどの憤怒を覚えた。情夫だなどとよくもまあ、しゃあしゃあと言ってのけたものである。五年前の、十九歳の彼が、プロの手管を見抜けるわけがない。
(あなたに何も言わないで、確かめもしないで、ごめんね、拓…。自分のことしか考えないで…。)
 雪柳を眺めている横顔に、心から由布子はわびた。愛とか恋とかほざく前に、人間として彼を信じていれば、あんな非道なたわごとに、耳を貸しはしなかったろう。この人の心が欲しいなんて、望む資格は私にはない。最低の、大馬鹿の、年増のヒステリー女だ。それなのに拓は語ってくれた。昔の自分と、母親のことまで。
 由布子は、彼が創った雪柳のアレンジを思い出した。遠い太陽に向かって孤独の宇宙を旅する彗星は、拓であり、もしかしたら私でもある。彼の心を、きっと私は理解できる。今より深く、もっと優しく。
 喜びは人を大きくし、悲しみは人を深くする。由布子はこの言葉が好きだった。悲しみも苦しみも糧にできる。そう思うと恐いものなど、なくなる気がしたからだ。だが、不幸は人を鍛えるばかりではない。乗り越えた人間は確かに強くなるが、困ったことにその人間は、自分のものさしで相手の不幸も計れると、信じこんでしまうものなのだ。父の心を失い、母の存在を失った。自分と同じ目盛りで彼の過去を計れると思った、それが由布子の過ちであった。雪明かりに浮かぶ拓の端正な横顔には、彼女とは違う悲しみが沈んでいる。そのことに由布子はまだ、気づこうとさえしなかった。
 

第2部第1章その13へ
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