【 13 】

 日々は移り、由布子の心には、満ち足りた平穏が訪れた。
 ナヴィールの客足は、落ち着きこそすれ衰えは見えず、高杉は早速にアルバイターを募集し、近くに住む二十歳の都立大生を採用した。香川亮司というその学生は、体格のいい表情のはっきりした好青年で、由布子ともすぐうちとけた。内山建設の正社員である陽介は、もうナヴィールを手伝うことはできなかったが、拓は手があくとカウンターに立ち、ジーンズのエプロンをかけてコーヒーを淹れた。仕事が早く終わった夜は、由布子は必ずナヴィールを訪ね、高杉夫妻と屈託のない話をし、時には拓と肩を並べて帰った。
「笑っちゃうんだけどさ。」
 東横線の吊り革につかまり、拓は由布子に聞かせてくれた。
「陽介の奴ね、あの香川ってバイトに、すげぇ偉そうな口きくんだ。この店では自分の方が先輩だからって、『おい、もうちょっとよ、きれいに拭けよテーブルよぉ』なんてさ、こんな、見上げるほどでかい相手に命令してんの。俺、見てておかしくて…」
 だが香川はなかなかもののわかった青年らしく、ちゃんと陽介を立てて、敬語を使っているというから驚きである。高杉の回りにはどうやら、気のいい人間が集まってくるらしい。
「ゴールデンウィークはどうするの?」
 由布子が尋ねると、
「ん、バイト。結婚式が三件とパーティーが二件。でかい会場ばかりで、生けこみが大変だよ。久さんとこも手伝わなきゃなんねえし。由布子は?」
「私も仕事。八重洲の現場が工事遅れてるから、連休返上で業者のお尻ひっぱたかないとね。それから代々木の展示場で、設備業者とタイアップしたイベントもあるし。忙しいわ。」
「ふーん。俺たちってさ、つくづく勤勉だよな。」
「ほんとよね。」
「たまにはデートとか、した方がいいよ。美容と健康のためにもさ。まだ相手見つかんないの?」
「大きなお世話です。あたしは仕事に燃えてるの。」
「たまにはベッドで燃えなさいって。会社に若いの、いるんだろ? うまいこと、手打ってさ。」
「駄目よ。夢中にさせちゃ可哀相でしょ?」
「…へっ。」
「ちょっと顔貸しなさい。」
「うそうそ、冗談冗談。」
 友達と恋人のちょうど中間のような、この関係は本当に由布子を伸び伸びとさせた。連休の間ずっと開催されていたイベントでも、
「なんでか菅原ちゃんのとこに、いい客が寄ってくのよね。」
 湯浅がぼやいた通り、由布子は契約見込客を三件も、会場でつかむことができた。やって来た客が思わずひきつけられるほど、由布子の笑顔は明るくエネルギッシュだったのであろう。
 ゴールデンウィークが明けてすぐ、第三営業部長の多田が、由布子を呼んだ。
「菅原主任、…ちょっと。」
 課長席で浦部の目がちろっと動いたが、部長の指示には彼も口を出せない。由布子は席を立ち多田に続いて、フロア内の小会議室に入った。向かい合うと多田は言った。
「まだ内示だけどね、菅原さんに、例の上海プロジェクト、加わってもらうことになったよ。」
 由布子は耳を疑った。全体朝礼で栗原社長が、唾を飛ばさんばかりに力をこめて語った『グッドラック・プロジェクト』。NKの総力を結集した精鋭ぞろいの斬り込み部隊に、この私が加われるのか。多田はさらに続けた。
「菅原さんのあのプラン、素晴らしいじゃないか。夢があって、しかも、実現可能なとこまで具体的に落とし込んであって、栗原社長も感心してたよ。絵に描いた餅ならいくらでもあるけど、それとはちょっと違う、夢と現実をしっかりリンクさせるプランっていうのはなかなかないんだが、今回の菅原さんのには、ちゃんとそれがあった。」
 頭頂まで禿げ上がった、だが丸顔で童顔の部長は、満足げにうなずきつつ、
「NKの中野社長もね、今回のプロジェクトはぜひ、若い人に頑張ってもらいたいと言ってる。うちの会社にはまだ、女性は結婚したら退職、みたいな空気があるだろ。これはよくないことなんだ。第二営業部の新井課長とか菅原主任とか、前に立って引っぱってくれる女性社員に、もっともっと活躍してほしいわけ、僕は。」
 多田はA4の紙を一枚、由布子の前に差し出して、
「とりあえず現状の、プロジェクトのメンバー構成だ。推進本部はNKの総合企画室。統括責任者は林田次長で、実務リーダーは関根係長。女係長だよこの人は。まぁ上海に行く行かないは別として、あと正味十二ケ月。忙しくなると思うが、よろしく頼むよ。明日の朝礼で発表するから。」
 多田は会議室を出ていった。礼をして見送り、一人になると、由布子は手の甲をギュッとつねってみた。痛かった。してみると夢ではなかった。グッドラック・プロジェクトに加われる。ナヴィールのプランが認められたのだ。背中がぞくぞくしてきて、由布子は我が身を抱きしめた。上海。れっきとした社会主義国でありながら、自由経済的な政策も打ち出している中国の大都市。アジアの力強さとヨーロッパの退廃が不思議に調和した、近くて遠いあやかしの街。アスファルトに吹く風と異国語のざわめきが、耳の奥に聞こえてきそうな気がした。
 翌日、多田は朝礼で、由布子の件を部員に発表した。ナヴィールを改良した彼女のプランは、社内コンペの最優秀賞に輝き、賞品の旅行券は彼女の手に渡された。多田はフロアの中央で、
「栗原社長がおっしゃったように、このプロジェクトはNKグループを上げての一大チャレンジです。古めかしい組織の枷をはずして、革新のコンセプトで成功させて欲しいと、そこにこうして女性を送り出せるのは、いわば非常にタイムリーで、ふさわしい人選であったかと思います。もちろん、他の皆さんも是非、菅原主任に続く勢いで、頑張って頂きたいと思います。以上。」
 部員の拍手に包まれ、由布子は礼をした。朝礼が終わって席に着くと、彼女の回りにどっと人垣ができた。
「すっごいじゃない菅原ちゃーん! やったやった!」
「快挙よねえ。やりがいあるじゃない!」
「旅行券見せてよ旅行券! 十万円でしょ? すごぉい!」
「上海出張かあ。かっこいいわねえ!」
「違う違う、菅原ちゃんは出張じゃなくて転勤。海外赴任よ。超一流のエリートみたいで、憧れちゃうなあ。」
 由布子本人より同僚たちの方が、すっかりその気になっていた。逆に由布子は、なだめるように、
「いえ、まだ向こう行くと決まったわけじゃないんですから…。第一具体的にはほとんど手つかずで、全部これから決めていくんですよ。」
「どっちにしたってすごいわよ。ねーえ!」
 一同に同意を求めた湯浅の声に、課長席から浦部が言った。
「いつまでそんなところで騒いでるんだ。いいかげんに仕事しなさい。」
 湯浅たちは首をすくめて、わらわらと散っていった。そのまま浦部の視界にとどまるのも気詰まりで、由布子は席を立った。化粧室へ行こうとすると、廊下で新井と出会った。
「聞いたわよ聞いたわよ菅原ちゃん!」
 新井はいきなり由布子の肩を抱いて、
「すごいじゃないの、おめでとう! うちの部でもみんな驚いてるわよ、大抜擢だって! なんかあたしまで嬉しくなってきちゃった。あたしの分もさ、頑張ってよね。女のくせにとかそんなの、跳ねとばしてやんなさいよ。ねっ!」
「新井さん…。」
 由布子は感激した。自分の得たチャンスがいかばかり大きいかを実感した。選ばれ、認められ、注目される喜びは、人間の生命力を根底から、奮い立たせる力を持っている。同僚の誰一人としてまだ経験したことのない舞台に、これから私は上がるのだ。グッドラック! 幸運を祈る! ビジネスウォーズの幕が上がる。
(でも…)
 荒々しいほどの上昇気流を、急激に冷ます痛みがひとつだけあった。そう、拓との別離である。もしも上海に行くことになったら、彼との間を海が隔てる。由布子の作った船・ナヴィールも、現実の1800キロを一飛びにはできない。何年たてば戻れるのかも、今の時点ではわからなかった。
(一緒に行こう、って…ドラマじゃあるまいし、そうたやすくはいかないわよね…。)
 化粧室の鏡を見つめ、由布子は久しぶりに重い吐息を漏らした。
 

第2部第1章その14へ
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