【 14 】

 八重洲のアンプリイズは、ナヴィールに遅れること約一カ月の、五月十三日にオープンを迎えた。開店当日に工事担当者が挨拶に行くのは通例であったから、由布子は会社が用意したペンスタンドを祝いの品として携え、夕方近くにアンプリイズを訪れた。
「やあやあ、ようこそ。」
 ぶ厚い胸をより強調するスリーピースに身を包んで、馬場は出てきた。
「ご開店おめでとうございます。ご盛況のご様子で、私どもも晴れがましく思っています。」
 決まり文句を述べると、馬場はさあさあと由布子の背を押して、奥まったシートに座らせた。ウェイターがコーヒーを持ってきた。店の出来栄えに馬場は満足してくれたらしく、
「本当にね、エグゼさん…というか、菅原さんにお願いしてよかったよ。さすがに高いだけのことはあるね。サービスが徹底してて、気持ちいいよ。」
「いえ、あたり前のことをさせて頂いただけです。」
「これからもちょくちょく遊びに来て下さい。自宅の改修やらマンションの方やら、いろいろ手を入れたいところはあるんでね、そういうのもみんな、追い追い菅原さんにお願いしようと思ってるんだ。引き続き、おつきあいをお願いしたいな。」
「こちらこそ、今後もよろしくお願いいたします。」
 由布子が頭を下げると馬場は、
「いや、そう言ってもらえて安心した。工事の切れ目が縁の切れ目って言われるかと思ったよ。せっかく知り合えたのにこれでおしまいじゃもったいないじゃないか。ねぇ。」
 由布子は愛想笑いを返してコーヒーをすすった。探りを入れてくるような馬場のこの言い方は、やはり下心のあらわれと断定していいのだろうか。それとも由布子の自意識過剰、被害妄想というものか。
「だけど菅原さん、なんか感じ変わったね。」
 しげしげと由布子を見、馬場は言った。
「ほんのちょっと会わないうちに、なんていうかな、肩の力が抜けたっていうか、自然でいい感じになったよ。前はねえ、さも頑張ってますって強がりが見えちゃって、正直こっちも疲れるとこあったけど…。」
「そうですか? 申し訳ございませんでした。」
「いやいや謝ることじゃないだろ。しかし今の菅原さんは、文句なしの、立派なビジネスレディだね。」
「ありがとうございます。」
 由布子は礼を言った。ビジネスレディ。この呼び名は嬉しかった。キャリアウーマンという呼称にある侮蔑のニュアンスとは、完全に縁の切れた響きであった。
「何かの本で読んだけどね、女性が仕事をしていく上で大事なのは、『女を武器にしてはいけない。だが女を忘れてはいけない。』ってことだったかな? 今の君は純粋にいい意味で、女だよ。きわめていい女。」
「お上手ですね。」
「いやいや本心だよ。ただ残念だね。こうも完璧な仕事ぶりだと、口説くスキもないからなぁ。」
「お褒めの言葉ととっておきます。」
「褒めてますよ勿論。何だか見てるとこっちも元気になりそうでね。まっすぐで気持ちがいいよ。誰か、いいひとでもできたかな?」
 馬場がそう言ったとき、入口の自動ドアが開いた。由布子からは斜め前、フロアの対角線上であった。客かと思ったがそうではなく、
「毎度ありがとうございます、日比谷フラワーセンターでぇす!」
 聞き慣れた声が店内に響き、入ってきたのは拓だった。髪をまとめグリーンのエプロンをかけて、カトレアを中心に豪華に盛られた、大きな花籠を抱えていた。
「表口からですいません。裏の歩道、工事してて歩けなかったんで。」
 無礼を拓はわびた。馬場は立っていった。
「ああご苦労さん。すごい花だね。どこから?」
 拓はポケットから伝票を出して、
「えーとですね、こちら、『一橋大学山岳部OB会一同』さまからです。」
「なんだあいつらか。張りこんだもんだな。」
「花の種類にご指定はございませんでしたので、こちらでアレンジさせて頂きました。こういった感じでよろしいでしょうか?」
「ああ、いいよ。華やかですごくいいじゃないか。」
「ありがとうございます。プリンセス・ラブっていうんですよこの蘭。じゃあこれ、どちらに置きますか?」
 拓は尋ね、馬場が指示した場所に籠を置いた。こうして一歩離れて見ると、今さらながら溜息の出そうな美青年であった。入り口近い席でぺちゃくちゃしゃべっていた三人組の女は、拓が入って来るなりぴたりと黙って、袖引き目くばせしあっている。拓はラッピングのセロファンを形よく整えて、馬場に伝票とボールペンを渡した。彼がそれにサインしている間、拓は店の中に視線を漂わせて、奥にいた由布子に気づき、おやっという顔をした。
『よお。』
 彼は軽く手を上げた。由布子が会釈すると、拓はパントマイムで、
『ここのプランも、全部由布子?』
 と、多分そう言った。彼女はうなずいた。拓はふうん、と感心して見せ、指で丸を作ってOKを出した。そこで馬場はサインを終えた。拓が表情を改めるよりわずかに早く、馬場は顔を上げた。彼は二人のメッセージ交換に気づき、いったん由布子を振り向いてから拓に、
「何だ、知り合い?」
「ええ。まあ…ちょっと。」
 面はゆそうな笑顔を見せて、拓は伝票を受け取り、
「どうもありがとうございました。」
 きちんとお辞儀をして、店を出て行った。馬場はシートに戻ってきた。由布子は顔を伏せていた。何か言われるな、と思った通りに、
「…なるほど、彼か。菅原さんを変えたのは。いやぁ、たいしたハンサムだね。さすがお目が高い。仲がよさそうで羨ましいねえ。」
「いえ、別にそういうことでは…。」
 由布子は首を振ったが、馬場は頭から決めつけて、
「またまた、隠すことないでしょう。照れる必要なんかないよ。まぁもっとも僕は嫉妬するけどね。」
「いいえ、本当に…。」
 恋人じゃあないんです、と由布子は胸の中で言い、拓が置いていった花籠のカトレアを見た。プリンセス・ラブ。濃い桃色の肉厚の花弁。ブルーとグリーンの二枚重ねのラッピングが、花のあでやかさを強調している。平凡な贈答品であるのに、拓のセンスはここにも光っていた。
 プロジェクトメンバーに選ばれたことを、由布子は電話で拓に話した。具体的なことは決まっていないけれど、と前置きしてあらかたの説明をすると、彼は何らよどみなく、
「やったじゃん。チャンスだよそれ。こんな狭い日本でうだうだやってるより、上海なら東京よりずっと国際色豊かだし、そんな場所で思いっきり、好きなようにやらしてもらった方がいいよ。ぜったい楽しいってその方が。」
 彼のエールは心強かったが、同時に寂しくもあった。会えなくなっても、彼は何とも思わないのだろうか。ズキン、と走った痛みの鋭さに、由布子はいつもの冗談口を封じられて黙った。それにさえ気づかず拓は、
「陽介も、来月は試験だって頑張ってるよ。職場でやってる…何だっけ、初級施工(せこう)技術者認定試験? これにうかんないと現場持たしてもらえないって、あいつ必死こいてんの。」
「ふうん…。」
「由布子に負けないように頑張れって、ハッパかけといてやろ。またナヴィールで会おうな。じゃ。」
 陽気な声が電波の向こうに消え、由布子は手の中の携帯を見つめて、言い知れぬ悲しさに襲われた。彼のいない毎日に、価値があるとでもいうのだろうか。彼を失ってまで手に入れたいものなど、この世界のどこにもない。
「みごとなカトレアだなしかし。」
 馬場の言葉で、由布子は我に返った。
「今の菅原さんは、まさにあの花なんだな。君は彼の愛を受けて、大輪の花のように輝いている。一人の女性をこんなに美しくできるなんて、男冥利に尽きるよ彼は。代われるものなら僕が代わりたいね。香り立つような情感というか、今の君は、実に綺麗だ。」
 そんなことはない、と由布子は思った。確かに、私が変わったとしたら拓のせいかも知れないが、花のように輝いてなど、いるはずがない。自分でも情けないほど気持ちがぐらぐらしている。同僚に羨望の眼差しを向けられれば、与えられた舞台の大きさに武者震いし、かと思うと拓のひとことに狂喜したり落胆したり、仕事に燃えると言った舌の根も乾かぬうちに、彼の人生のそばにいたい、ただそれだけでいいと願う。糸が切れてきりきり舞いしている凧のようなものだ。由布子は苦笑し、言った。
「輝いてなんか…。迷ってばかりです私なんて。自分が本当に行きたい道はどれなのか、それさえわかってないのかも知れません。」
 すると、馬場はカップを置いた。褒めるというよりは面白がっているようだった彼の雰囲気が、すっ、と真面目なものに変わった。
「いや…それを口にできるってことは、君はやっぱり前より大きくなっているんだよ。説教臭い言い方かも知れないが、自分の迷いを素直に外に出せるのは、むしろ強いからなんだ。弱みを見せまい見せまいと、肩をそびやかす人間より、ずっとね。」
 そんな台詞を馬場から聞くとは意外で、由布子は顔を上げた。脂の浮いた小鼻と毛むくじゃらの指をした馬場は、深い目の色になって彼女を見ていた。
「僕で、できることがあったら、いつでも力になるよ。まぁもちろんあれだけの恋人がいれば、僕に出番はないだろうけど。一応君よりも彼よりも、僕は人生、長く生きてるから。頭のどこかで覚えててくれると嬉しいね。」
 ありがとうございます、と言って由布子は頭を下げた。
 ほどなく彼女は店を出た。初夏の街を吹く風は、黄水晶に似て透明であった。真向いに東京駅を臨む外堀通りに立って、由布子は高曇りの空に、まだ見ぬ東洋の大都市を思い描いた。
 風はみな、その土地の匂いを持っている。上海にはどんな風が吹くのだろう。地球上で最も広大な陸地が、海に接するところに位置する街。東京とは全く違った、轟然たる風が吹きおろすのか。それともアジアの近しさは、大きな手に包みこむように、思いがけず懐かしいふるさとの匂いで、しっとりと吹き寄せてくるのかも知れない。
 外国(とつくに)の街へ、拓と一緒に行きたい。由布子の心はそれを願っていた。彼の回りを飛びかう姿の見えない蝶たちから、彼を奪い取って逃げていきたい。長江が海へと注ぐ広い港を、見下ろす丘の小さな建物。壁いっぱいの窓から射しこむ陽ざしに、明るく照らされたその部屋は、拓と由布子のオフィスだ。大きくはないが質のいい仕事を常にいくつか抱えていて、忙しいけれど毎日はとても充実している。ひと休みしようよと声をかけ、彼はコーヒーを淹れてくれる。午後の風に吹かれながらのティーブレイクが始まる。新しく請(う)けた仕事について、熱っぽく語る彼の瞳。アドバイスをしたり、されたり、時には喧嘩もしたりして、だが同じ夢を持っている二人の、絆は強く深いのだ。夜はクライアント主催のディナークルーズ。私は薬指に一つだけ指輪を光らせ、今は夫となった彼とともに、艶めいた夜の波間へ船出する…。
 想像の中で、クルーズ船はビクトリア号に変わった。どこかの海であの帆船が、二人を待っているような気がした。光る川を下って海に出さえすれば、旅立ちの銅鑼(どら)が聞こえそうな気がした。
 信号が変わると、雑踏は動いた。船は消え、海も消えた。由布子はパスケースからカードを出して、無機質な自動改札にくぐらせた。
 

第2部第1章その15へ
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