【 15 】

 プロジェクトメンバーには選ばれたものの、すぐに日常業務が一変するわけではなかった。月ごとのノルマも減らないし、仕事はあいかわらず忙しかった。NKの総合企画室から、週に一度進捗報告書が届く以外に、現状主立った動きはなく、由布子は第三営業部のIPとして、探客と契約と、工事監理を繰り返していた。
 梅雨がそろそろ本格的になる頃であった。
 由布子がCAD室でマシンに向かっていると、部屋の隅で内線が鳴った。若い男子社員が受話器を取った。短い受け応えのあと彼は、
「菅原主任、お電話です。」
 通話口を手で押さえて、由布子に差し出した。彼女はそれを受け取りながら、ごく自然に聞いた。
「どこから?」
「アトリエ・ニートの大塚さんです。」
 一瞬、由布子は手を止めたが、受話器を持ってしまった以上、出るしかない。
「…はい、お電話代わりました。」
 ビジネス用の声で由布子は言った。聞こえてきたのはまさしく、
「菅原さん? 大塚です。ご無沙汰しております。実はちょっと、急ぎで仕事の話をしたいんですが、急で申し訳ない、一日二日のうちにお会いできませんか。」
 時の経過を無視せんばかりに、彼の口調は変わっていなかった。由布子は、
「いえ、私も…ここのところちょっと、ばたばたしておりますので、できましたらこのお電話で、伺うわけには参りませんか?」
 用心深く言ったが、大塚はもう一押ししてきた。
「ええ、できれば直接お会いしてお話ししたい内容なんです。本当は私が御社におうかがいすべきですけれど、まぁ、失礼を重ねちゃいましょう。よろしければこちらの事務所か、またはどこか外ででも。」
「それは…ちょっと。」
 由布子は防御の線を引いた。大塚はかつていつもこれと同じ、誰に聞かれても仕事の話としか思われない口調で呼び出して、彼女をベッドに誘(いざな)ったのだ。
「なんとかご無理をねがえませんか。いえ、何のことはない、決定するまでは御社の他の方のお耳に、入れない方がいい情報なんです。ただそれだけですよ。」
 笑いを含んで大塚は言った。言外に、『ずいぶん警戒するじゃないか』という響きがあった。未練があると解釈されては困る。過去に整理がついたなら、仕事は仕事と冷静に切りわけて、こだわりなく毅然とふるまえるはずだ。由布子は自分にそう言い聞かせて、明日の夜七時、大塚の事務所で会うことを承諾した。
 翌日は朝から雨だった。空気自体が湿気を飽含してべたりと重く、蒸し暑い不快な日であった。
 アトリエ・ニートは神宮前の、キラー通りを脇に折れた細い道沿いにある。以前大塚は由布子に、自分は東京の中でこのあたりが一番好きだと言った。このコスモポリタンな雰囲気が、東京の魅力の中枢だと語った。昔の由布子はそれに賛成だった。大塚の言うことは全て正しいと、無批判に同意し信奉していた。しかし、今日の彼女の目には、表面ばかりを乙に気取った、気障な街並みとしか映らなかった。人間の心ほど不確かなものはないのかも知れない。ふくらはぎに貼りつくナイロンの不快感に、由布子は何度も舌打ちし、事務所に入る前にピロティーで、ストッキングのはねをぬぐった。
 ドアを押し、室内へ足を踏み入れると、来訪者を告げるベルが、遠くでコロコロと鳴るのが聞こえた。以前はすぐスタッフが出てきたのになと思って、由布子はギャラリー風の小ホールを見回した。白とグレイをベースに、あちこちに青を配した大塚好みのデザイン。窓ぎわにあるガラスの飾り棚にふと目をやった時、由布子は思わず眉をひそめた。うっすらと埃が積もっている。並べられた小物たちもどこか薄汚れていて、ミニ色紙立てにはさんであるのは、兜と鯉昇りの絵であった。デザイン事務所にあるまじき怠惰だった。これでは場末の不動産屋ではないか。
「やあ、来たね。」
 奥の扉から大塚は現れた。生成(きな)り糸のサマーセーターに、ゆったりした麻のパンツを合わせて、ラグビーで鍛えた長身は、四十六歳のものには見えなかった。大塚は自分用の広い仕事部屋に彼女を導き、大型のアンティークソファーをすすめた。
「何か月ぶりかな、君がここに来てくれるのは。」
 細いトールグラスに入れた白ワインを、彼はガラスのテーブルに置いた。一口飲んで由布子は思い出した。この味はアスティ・スプマンテ。
「覚えてるだろう。君はこのワインを気に入ってくれてたね。伊豆の山荘へ行った時だよ。やっぱりこんな雨の日で…」
 思い出話を始めそうな大塚を、由布子は、カツンと音たててグラスを置き、遮った。
「仕事の話、と伺ったんですが。」
 彼女は背筋を伸ばし、硬い声で言った。大塚は表情を変えず、デスクへ立っていって白い社封筒を持ってくると、中から書類を取り出した。
「じつはこれなんだが…。もちろん知っているね。君はメンバーなんだろう?」
 見せられたのは、グッドラック・プロジェクトへの加盟希望を募る連絡文書だった。アトリエ・ニートはエグゼだけでなく、NK本社とも業務提携している。この文書が大塚の手に届くのは当然であった。
「これに、僕も手を上げようと思うんだ。NKの林田君に聞いたら、プロジェクトの本格稼働はこの秋からだそうだね。メンバーの選出も、まだ全部終わったわけじゃないっていうし、林田君を通して参加希望を出すよ。認められる自信はある。うちはつきあいも長いしね。」
 林田君、と大塚が気安く呼んでいるのは、総合企画室の次長のことだ。由布子は慄然とした。彼女の加わったプロジェクトに、大塚は強引に食い込んでこようとしている。自分の前にまたこの男が、大きく姿を現すのか。
「上海へ、ぜひとも行きたいと思ってる。今までいろいろなことがあったが…全てをやり直したい。それが僕の本心だ。」
 いろいろなこと。その中心に、由布子との関係があると判断してよかろう。ゆえにこそ大塚は、今夜私を呼び出したのだ。今さら何を言い出すのかと、彼女は当惑した。
「でも…上海へ行くとなったら、何年で戻るという期限は多分ありません。滞留在庫を売りさばいて、新規開発が軌道に乗って、暗中模索でしょうからすぐに結果は出ないし、三年、もしかしたら五年。ひょっとしたら十年かも知れないんですよ。」
 遠回しに彼女は牽制したが、
「わかってる。でも僕は行くよ。もちろんひとりでだ。」
「ひとりで?」
 妻子を置いて赴任する気なのか。大塚の長女は、確かまだ小学生のはずだ。彼は浅く息を吐いて、
「いい機会だと思ってるんだ、実は。まぁこれは僕の純粋なプライベートだけどね。」
 由布子はトールグラスを見つめた。本当に離婚する気なのだろうか。思い出したくはないが以前から、大塚は何かとそれを口にした。愚かにも由布子は信じたけれど、彼の妻に、全くその気はないようだったが…。
「これを見てくれるかな。」
 大塚はソファーから立ち上がり、デスクの脇のドラフターに歩いていった。書きかけの図面を見せたいらしい。振り返って、さあ、という顔をされると、由布子も立たざるをえなかった。
「林田君に見せてやろうと思ってね。現地のマンションの改築プランだ。日高ハウスが建てて売れ残った物件さ。平面図を手に入れるのに苦労したよ。幸い、あるルートから流してもらうことができた。」
 自慢そうに彼は言った。由布子は、マグネット板で四隅を止められたトレーシングペーパーを眺めた。大きなリビングのある3LDKの部屋だった。大塚は図を指さし、
「ここに目隠しの下がり壁を一つ入れてね、キッチンは対面式に。大型のグリーンを多めに配置して、もう少し垢抜けた感じにすればいいと思うんだ。単に広いだけのリビングは平凡で魅力がない。ちょっと工夫すれば、上層の客はまだまだ掘り起こせるだろう。」
 いやそれは難しいと由布子は思った。バブルがはじけて売れ残った部屋に、目先の小細工をしても意味はない。もっと暮らしに直結した、具体的な便利さを付加するべきである。
(もし私だったらどうするかな…。)
 大塚の描いた平面図を、由布子は頭の中でパースに変換した。対面式キッチンに電動ロフトにビルトインエアコン。彼が描き加えたそれらはみな贅沢品で、これといった新しさもない平凡なオプション設備だ。いっそ、全部外してしまったらどうなるのだろう? ふと思いついたそのアイデアに、由布子は心を止めた。
 過ぎてしまえばただのあぶくだった好景気。祭りの後の二日酔いに似た、厳しい時代を顧客たちは感じている。財布の紐が堅くなる。高い買い物は避けたいだろう。だが『安かろう悪かろう』の粗悪品には我慢できまい。安価で、しかもそれなりに質のよい住みやすい居住空間。求められているのはそういう商品だ。ならばこの際、いらないものは全部取ってしまえ。しっかり組みあわさった四角い外壁に、出入口のドアと幾つかの窓と、階段と水回り設備だけがある家。基本に対して手抜きはしないが、余分な付属品はいっさい付けない。そしてその分価格を下げる。ウォークイン・クロゼットがなくても、タンスがあればことは済む。電動ロフトが欲しければ、日曜大工で棚を吊ればよい。そうだ、それで十分ではないか。
(面白いかもな、これ…。)
 由布子は、忘れないうち心にメモした。プロジェクトに提案してみよう。こんな家は、まだ誰も見たことがないはずだ。
 彼女の沈黙を、大塚は別の意味に取ったらしく、
「気に入ってくれたらしいね。」
 囁くような言い方をして、今度は、デスクに別の図面を広げた。
「これはどうかな。こっちはガーデニングなんだ。郊外の土地をね、まとめて購入して、一大ニュータウンにしようとした計画も頓挫しているらしい。単に家を建てて売るんじゃなく、街並み全体を、イメージツリーで統一するんだよ。ごらん。」
 大塚は由布子に、デザインにこめた自分の想いを切々と語った。彼女は、どこかがずれているような、居心地の悪い気分で聞いていた。彼の熱意はわからぬでもないが、どういう環境下で進めるプロジェクトなのか、その観点が全く抜け落ちている。プランそのものは確かに悪くない。カリフォルニアあたりに造るなら、これで十分だろうけれども…。
 大塚は、デスクの上にまるでクラウチングスタートのような手のつき方をして、図面を凝視していた。奇妙な力みが感じられた。由布子は、彼が着ているサマーセーターの肩に、糸屑を見つけて目を止めた。だがすぐに彼女は、それがほつれであることを知った。縮れたアイボリーの糸に、飾り棚の埃と時期遅れの小物が重なった。以前この事務所には、助手を含む彼の部下が六人と、パートタイムの事務員が二人いた。しかしこのガランとした空気は、彼らの長い不在を物語ってはいないか。不況は遠い上海ばかりか、この東京自体に根強いのである。
「NKグループはこれに賭けているんだろうが…僕もこれに賭けるよ。大丈夫、自信はあるからね。」
 大塚の口調は独白に近かった。ホームイング・エグゼのような元請け会社は、工事原価を下げるためにまず、なるべく下職への発注を減らそうとする。今まで外注していたプレゼン資料などを、内作するよう切り替えるのだ。不況の打撃はまず下請けに行く。資本主義の残酷なる方程式は、アトリエ・ニートにも影響しているはずだ。多分、経営はうまくいっていない。大塚のこんな横顔を見るのは初めてだった。由布子の胸に、微かな哀れみが湧いた。この男は自信家であった。饒舌のきらいはあったけれども能弁で、話し方に説得力があった。自分の才能をかたく信じていて、それを誇ることに何のてらいもない男だった。
「由布子…。」
 大塚は顔を上げた。両の瞳が彼女を見ていた。
「お前がいてくれたら、何もかもうまくいくような気がするんだ。前のように、お前と一緒に過ごしたい。戻ってきてくれないか、俺のそばに。」
 眼差しは真剣だった。彼女は、後ずさろうとしてなぜか動けなかった。男の手が伸びて、彼女の手首を掴んだ。伝わる熱を由布子は感じた。彼女は首を横に振った。放して、と言いかけたとき、大塚は強く引き寄せた。
「忘れられないんだ、由布子…。やり直したい。そばにいてくれ…。」
 あ、と思う間もなく、男に抱きしめられていた。苦しいほどの力だった。厚い胸と広い肩を、女の体が覚えていた。ホテルのベッドで、ヨットの甲板で、あるいは山荘の木の床の上で、由布子を抱き、酔わせた男。彼女の腰は男の動きを思い出した。激しい欲望が、背骨から突き上げた。彼女の首に、大塚は唇をつけた。由布子は声を上げそうになった。男の体の、重みが欲しい。貫き通される歓喜が欲しい。膝から力が抜けかけて、由布子は両腕を大塚の背に回した。彼の顔が首筋を離れ、掌が頬を包んだ。由布子は瞼を落とし、息を止めた。
 その時だった。
『ゆーこ!』
 思いがけず瞳を射抜く太陽のように、拓の声が天に響いた。由布子の脳幹に正気が戻った。彼女は大塚をつきとばした。あまりにも突然で、彼はよろめいた。由布子は数歩飛び下がった。腰がソファーにぶつかった。由布子はバッグを鷲掴みにして、あとも見ず事務所を飛び出した。
 傘立てに足を止める余裕はなかった。霧雨が、わっと体中を包んだ。由布子は路地を走った。水たまりがはね、パンプスに流れ込んだ。明治通りの光が見えた。由布子は走るのをやめた。息が切れていた。咳込むと苦しくて涙が出た。
 自分は今、何をしようとしたのか。一瞬とはいえ全身が、男に応えようとした。彼の腕に身を投げ出して、欲望の奴隷になろうとした。唇を、彼女は血が出るほど噛んだ。惨めだった。自分が発情した雌犬に思えた。大塚の唇が実際に触れようと触れまいと関係ない。触れることを由布子は”のぞんでいた”。誰に隠せても自分は偽れなかった。拓を裏切ったような気がした。そう思うと涙は嗚咽に変わった。
 拓とあの女の間にいったい何があったのか、被害者気分であれこれ邪推し、とうとう拓に、できることなら思い出したくなかっただろう過去を口にさせてしまった。話すとき彼は辛そうだった。古傷をまた抉られる、その痛みを強いたのは私だ。じっとりと重い鉛の雨が、着ている布をしみとおした。
「あたしはいったい何やってるの…!」
 声に出して言い、彼女は街灯を見上げた。音もなく降る雨は粉雪に似て、灯りのまわりでだけ銀鎖をなした。コンクリートのあちこちにできた水溜りは、ひっきりなしの車に踏みつぶされ、波打ってまた楕円になった。広く明るい大通りを、ふらふらと由布子は歩いた。拓の笑顔が浮かんで消えた。涙と雨が睫毛からしたたった。深夜にはまだ遠い時刻、道往く人は彼女を避け、無視してすれ違った。さざめきの東京シティ、ああ、この街はなんて優しい。濡れそぼち泣きながら歩く女を、見咎めもせずに流れていく。笑うことも祈ることも堕ちることも、おまえの自由と言いたげに。あるがままそこに居ることを、この街は人間に許してくれる。
   Il pleure dans mon coeur
   (イル プルール ダン モン クール)
   Comme il pleut sur la ville,
   (コム イル プルウ スール ラ ヴィル)
   巷に雨の降るごとく我が心にも涙ふる…
 

第2部第1章その16へ
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