【 16 】

 タクシーの運転手は、前髪から雫を垂らしている由布子を見て、いささか不審そうな顔をした。だが、さすがはこの街で生業(なりわ)うプロらしく、彼は何も言わずに由布子を乗せ、アパートの前まで運んでくれた。
「おつり、いいです。ありがとう。」
 紙幣だけを渡し、彼女は下りた。タクシーはドアを閉め走り去っていった。
 階段を登ろうとしたところで、由布子は気づいた。階段の裏に誰かいる。こちらに背中をむけてしゃがみ、足元の猫を撫でている。
「…陽介さん…?」
 振り向いた顔は、やはり彼だった。陽介は立ち上がり、
「こんばんは。」
 そう言って照れ臭そうに笑った。
「どうしたの? こんなところで。」
 由布子が問うと彼は、
「うん、あの、これ…見せようと思って。」
 肩に下げていたバッグのファスナーをあけ、封筒から一枚の厚紙を抜き取った。
「社内試験、合格したんです。これで見習い卒業して、現場持たせてもらえます。」
 差し出された『施工技術者試験合格証書』を由布子は読んだ。文面は印刷だったけれど、『廣沢陽介殿』の文字は筆書きだった。
「社長も先輩も、事務の人までみんな優しくていい人で、毎日会社行くの俺、楽しくって…。みんな、由布子さんのおかげだから、これ、まっ先に見てほしくて、迷惑かなと思ったんですけど、待ってました。」
「そうだったの。」
 由布子は合格証を返し、
「おめでとう。頑張ったのよね。実技もあって大変だったでしょう。ああ、でも陽介さんは、実技はお手のものか。」
「ええ、まあ。」
 受け取った陽介は照れ笑いを消して、あれっという顔になった。由布子の袖口が光っていることに気づいたらしい。吸い込めるだけの雨を吸い、由布子の服は重く湿っていた。傘を持たない手や、額に貼りついた髪に、陽介は忙しく目を動かし、
「由布子さん、びしょぬれじゃないですか。何かあったんですか?」
 深刻な顔をされたので、彼女はあわてて否定した。陽介に心配をかける事柄ではない。
「ううん、何でもないわよ。ちょっとね、傘、忘れて。」
 言い訳としては苦しかった。由布子は彼の気をそらそうと、
「ねえ、お食事したの? よかったらお茶でも飲んでいく?」
 だが彼は、由布子を見たまま首を横に振った。
「いえ、帰ります。お礼言いに来ただけだから。」
「そう? 遠慮だったらしないでよ。」
「いえ、遠慮とかじゃなくて、俺、帰ります。」
 ぺこりと頭を下げて陽介は、黒い傘を開いた。
「そう? じゃあ…気をつけてね。」
 彼女は言った。歩み去ろうとした陽介はもう一度振り向き、
「由布子さんこそ、ほんと、大丈夫ですか。拓にいさんに、来るように言いましょうか?」
 彼は、大きな目をじっとこちらに向けた。狼狽を由布子は笑顔にすりかえた。
「ううん、平気。何でもないから心配しないで。明日からまた、お仕事がんばってね。おやすみなさい。」
 陽介はまだ少し心配そうだったが、
「おやすみなさい。」
そう言って雨の中へ歩きだした。
 由布子は部屋に上がると、濡れた服を脱いで、手早くシャワーを浴びた。目を閉じると今しがたの、ぶざまな自分が甦ってきて、固い湯垢のような自己嫌悪は、そう簡単には洗い落とせなかった。
 リビングへ出て冷蔵庫を開け、缶ビールを出そうとした手を彼女は止めた。もっと、強い酒でなければだめだ。この役に立たない頭と恥知らずな心を、体ごと眠りの泥に突き沈めてもらうには。彼女はオールドのキャップをあけた。グラスにもつがず、瓶ごと飲んだ。
 電話が鳴った。ボトルを唇から離し、彼女は電話機を見た。大塚かも知れない。いきなり走り出ていった彼女が気になってかけて来る、その可能性は高かった。息を殺して由布子は、コール五回を待った。ベルがやみ、メッセージのあとの電子音が響いて、
「もしもし…」
 聞こえてきた声は、大塚ではなかった。普段は低いが、張り上げるとよく通るそのテノールは、
「もしもし? 珍しいな、まさかもう寝てんの? いるなら出ろよ。もしもーし、由布子ー!」
 拓からだ、と思ったとたん腕が動いた。素早く彼女は受話器を取った。
「やっぱいたじゃん。鳴ったらすぐ取れって。…あ、それともほんとに寝てた? 悪い、ごめん。」
 いつもの彼だった。由布子は受話器に右手を添え、大切なもののように両手で包んだ。拓は言った。
「今、陽介から電話もらってさ。今夜中に絶対かけろって、えらく心配してたけど…。どうしたんだよ。なんかあったの?」
「陽介さんが…。」
 彼女には想像がついた。道すがら彼は、由布子がどうしても気になり、電話ボックスに立ち寄って、拓に連絡したのだろう。あどけない弟のようだった陽介は、仕事に就き道を定めたら、何だか急に大人になった。由布子の頬に微笑が昇った。気持ちが少し落ち着いた。彼女はベッドに座って、
「ごめんね。陽介さんにも心配させちゃったんだ。なんでもないのよ。ちょっとした仕事上のトラブル。ほんとに些細なことだから。」
 そう、些細なトラブルだ。これ以上こだわることはない。単なる気の迷い、小さなつまづきだ。
「ほんとかなぁ。由布子ってすぐ無理して強がるからな。」
 拓は言い、しかし深くは疑わなかった。
「陽介の声がさ、やけに真剣なんで、何事だと思ったよ。ッたく人騒がせな野郎だなあいつ。」
「ううん、人騒がせなんて。あたしがね、きっと暗ぁーい顔してたせいよ。だめねこんなことじゃ。修業が足りないわ。反省します。」
 由布子が言うと、拓は話題を変えて、
「そっか。相変わらず大変だな。いや俺もここんとこ忙しくて、ナヴィール行ってなくて。でもなんかね、あの香川ってバイトがだいぶよくやってくれるらしいんだ。久さん喜んでたよ。客にも人気あるんだって。」
「ふうん。よかったじゃない。彼、すごく雰囲気のいい人だものね。」
「ああ、言えてんな。ところが俺の方はさ、バイトが一人急にやめやがって。で、次が来るまで二人分働かされてんの。店番だろ、アレンジだろ、配達もあるし、仕入伝票のチェックまで俺だよ。」
「四役もこなしてるの? 大変じゃない。」
「そ。もう大変よ。ああ、でも店長がね、少しだけど特別に夏のボーナス出してくれるって。他のバイトには内緒なんだけどな。」
「へえっボーナス出るの。すごいじゃない。」
「だろ? それだけ俺、頼りにされてっから。」
「まあね。」
「まあねって何だよ、まあねって。せっかく楽しい話、教えてやろうと思ったのに。」
「楽しい話?」
 由布子はベッドに座り直し、
「なぁに。教えてよ。どんなこと?」
「うん。あのね、夏休みのバカンス・スケジュール。陽介も久さんたちも誘って、五人でキャンプ行こうかなって。」
 拓は言い、そして語った。釣ったばかりの魚に塩をふり、串焼きにして食べるその美味(うま)さ。焼けた石に醤油がこぼれて、ジュッと焦げつく時の香ばしさ…。由布子の脳裏にはたちまちに、岩をかみ岸を洗って流れていく川の音と、両側に広がる石の河原、涼しげな木々の枝たちが浮かんだ。拓の釣りあげた魚を網に受けようと奮闘する陽介、はやしたてる高杉、幸枝と由布子は食事の支度をしながら、彼らのやりとりに笑わされてばかりだろう。
「キャンプなんて楽しいでしょうね。今からワクワクするな。」
 由布子が言うと拓は、
「じゃあ、行くね? よし、これでフルメンバーOKだ。段取りは俺するから、詳しいことは会ったときに相談するか。まあ、まださ来月の話だけど、もう予約は遅いくらいだろ。」
「そうね。早く梅雨があけて、夏になればいいのにね。」
 この、じめじめとうっとおしい、憂鬱な雨の季節。早く終われ、過ぎてしまえ。金色の太陽が輝く季節に、素晴らしいバカンスが待っている。電話を切る前に、拓は言った。
「嫌なことがあったら、大丈夫、次は必ず楽しいことが来るって。どんなトラブルか知らないけど、あんまり落ち込むなよな。じゃな。」
 ありがとう、と由布子は言った。おう、と最後に一言残して、電話は切れた。静かに、そっと受話器を置き、由布子はそれにくちづけた。
「ありがとね、拓…。」
 もういちど由布子は言った。何があっても二度と、大塚には惑わされない。彼女は拓の面影に誓った。
 

第2部第1章その17へ
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