【第2部・第2章】bP

 暑い夏が来た。
 由布子、陽介、高杉夫妻を乗せた拓のRVは、キャンプ用品一式を積み込み、八月十一日、山形へ向けて出発した。渋滞を避けるべく朝早くに出たが、それでも東北自動車道はさすがに混雑していた。日本各地のナンバーを付けた車の群れが、抜きつ抜かれつ北をめざす路面は、強烈な陽射しを照り返して輝き、サテンの帯を延々と敷き伸ばしたような白いラインの先を、逃げ水はいつまでも濡らしていた。
 首都圏の外堀ともいうべき利根川を渡ると、左前方にまず日光の山々が見えてきた。右側の窓の下に広がるのは、ぎらぎらと焼けつく関東平野であったが、迫りくる山かげは由布子の心に、さあこれからが旅の本番だという、積乱雲に似た思いを高まらせた。
「後ろ、ちょっと窮屈だろ。大丈夫?」
 拓は、さほど色濃くないグレイのサングラス越しに、バックミラーの中で由布子と視線を合わせた。
「ううん、平気よ。全然きつくない。」
 由布子が答えると、
「疲れたら言えよ。けっこう距離あっからな。まぁちょくちょく休憩するつもりだけど。そうしないとこいつもちょっと不安なんだ。こんな遠くまで走らすの初めてだし。」
 拓は手のひらでハンドルを軽く叩いた。
「…しかしお前も妙なところで知り合い多いよな。」
 助手席で道路地図を見ていた高杉は言った。
「これだけの量のキャンプ用品、ポンと貸してくれる友達と、山形の村役場に話通してくれる知り合いと…。口入れ業みたいな奴だよなお前。」
「口入れ業? 何だよ古臭ぇな。人財バンクって言えよ。人脈データベースとか。」
「データベースねえ。ま、呼び方はどうでもいいけどよ、人間、イザって時に頼りになるのは、やっぱり人間関係しかないからな。」
「そうそ。俺みたいなのがいて、助かんだろ。え? 少しは感謝してる?」
「はいはいそうですね。」
 拓の問いかけを、高杉はあっさり受け流した。
 今回の目的地が山形になったのは、高杉も言う通り拓の知人がいるからであった。正確には知人の友人のそのまた知人であるらしいが、人の伝手(つて)をたぐりたぐって、話は最上郡大蔵村まで届いたのである。夏休み、キャンプ場はどこも混雑するし、しかもピークは今だった。先客に遠慮しいしい、新興住宅地並みの密度でテントを張り、隣近所に気を遣うなど、できれば御免こうむりたい。都心のアパートとさして変わりないのでは、何のためのバカンスかわからない。出来合いのキャンプ場ではなく、誰にも邪魔されない自分たちだけのリゾートエリアで、自由に、思うまま、心ゆくまで自然を楽しみたい…。日本ではまず無理なその『超』のつく贅沢を、五人はこれから満喫しに行くのであった。
 スケジュールを説明する時、拓はこう言った。
「十一日に出て、その晩と十二日がキャンプで、十三日はちょっと場所変えるから。由布子のこの旅行券、そん時使わしてもらう。いい?」
 全てを拓にまかせての四日間だった。高杉はキャンプの飲食料一切を担当し、陽介は資金協力しなくていい代わりに雑用係を申し渡された。サービスエリアでも彼は早速、
「おい、陽介、フランクフルトとコーヒー五人分買ってこい。ほら、ダーッシュ!」
 と使い走りを命じられるや、ただちに売店に走っていった。足が速く身の軽い陽介には、適材適所の役割かも知れなかった。
「天気はなんとかもちそうだな。」
 新聞を広げ予報欄を見て、高杉は三人に聞いた。
「こん中に、雨女雨男はいるのか? 拓は?」
「俺は晴れ男の方。まかしてよ。日頃の行いもバッチリだから。」
「へっ、どうだかね。…由布子先生は?」
「私は…どっちでもないです。あんまり影響力ないから。」
「そうですか。幸枝…も違うよな。とするとあとは陽介か。あいつはどうかな。晴れっぽいけどな。」
「そう言う久さんはどうなんだよ。」
「俺か? 俺は…『やや雨』?」
「なんだそれ。」
 拓が言ったところへ陽介が、四角いトレイの上に紙コップのコーヒーを五つと、紙皿に重ねたフランクフルト、ケチャップとマスタードの瓶まで並べて持ってきた。
「はいっ、お待ちどうさまでしたぁ。」
 テーブルにトレイを置いて椅子に座った彼に、
「陽介、お前、雨男?」
 拓が尋ねた。陽介はフランクフルトとケチャップを手に持ち、
「違いますよ。俺はめちゃ晴れ。昔っから遠足でも旅行でも、雨にあったことって一度もないです。」
 と自信ありげに言い切った。拓は、
「おしっ、二対一! これで天気の心配はなしだな。キャンプ行って雨降っちゃうと悲惨だからな。テントでトランプやったって盛り上がんないし。」
 そう言って笑い、紙コップを取りあげた。
 十五分ほど休んで、五人は車に戻った。引き続き拓がハンドルを握った。RVは道路に出た。本線をめざして加速しようとしたところで、カクカクッと頼りない震動がきてエンジンが停止した。後ろを走っていたパジェロが、あやうく追突しそこねて急ブレーキをかけた。クラクションが怒鳴りつけてきた。
「やっべ…。」
 拓はリヤウインドゥを振り返り、
「あのパジェロに感謝だよ。あっちのブレーキがもうちっと遅かったら、いま完全おカマ掘られてたわ。」
 セルを回す拓に高杉は、
「おい大丈夫かよこの車…。途中でブッ壊れんじゃないか?」
「いや平気。こんなんしょっちゅう。ほら、かかったろ。」
 ブルンブルンと震動が戻り、車は無事流れに乗った。高杉はぶつぶつと、
「全く、ろくな車じゃないな…。困るぞ五人でヒッチハイクなんて。さもなきゃどっかのドラマみたいに、全員で車押して歩くなんざ。」
「大丈夫だって多分。」
「『多分』なのかおい!」
「しょうがねぇだろ古いんだから。ごちゃごちゃ文句たれんなよ。」
「お前これ、友だちからいくらで買ったって?」
「十二万三千五百五十円。」
「またそりゃえらく細かいな。」
「だから、そこまで値切ったんだって。」
「値切った、つったって…なんぼなんでも安すぎだろうそりゃあ。いちおうランクルの80だよなこれ。十二万で売るってことは、どっかに問題ありなんだろうなぁ。歯車二〜三個腐ってんじゃないか? うう、くわばらくわばら…。天にまします我らが神よ、ま〜か〜はんにゃ〜は〜ら〜み〜た…」
「唱えんなっ、そんなもん!」
 相変わらず二人の会話は軽妙だった。陽介はというと、休みなく口をもぐもぐ動かし、隣の幸枝と、奥の由布子に、
「酢イカ食べます? ポテトチップに、あ、ポップコーンもありますよ。」
 袋を持ち上げていろいろ勧めた。高杉は後ろを向き、
「陽介、着くまでに全部食っちまうなよ。四日分なんだからなそれで。」
「平気ですよ、まだまだこんなにあるし。…あ、わさビーフ! やった俺これ好き!」
「幸枝、そいつから菓子袋全部取り上げて、目につかないところに隠しとけ!」
 車内はずっとこの調子で、由布子は笑い通しだった。ことさらな気を遣わず遣われもせず、各自が自由にふるまうことで、皆それぞれの居心地がよい。こんな楽しい旅行は学生時代以来であった。
 村田JCTで東北自動車道と別れ、車は山形自動車道に入った。仙台は目と鼻の先である。由布子は、つい二日前にかかってきた叔母からの電話を思い出した。
「お正月以来じゃないの。お盆休みくらいは顔を見せてちょうだいよ。」
 叔母はそう言ってくれたのに、こんな近くまで来ながら寄りもせず左折してしまう。彼女は仙台の方角に向かって、小さく頭を下げた。
 小一時間で寒河江(さがえ)に着き、さらに国道を走っておよそ一時間半。そこに、肘折温泉はある。霊峰・月山の登山口として、また傷を癒す湯として知られる鄙びた湯治場は、最上川の上流である銅山川沿いに、のんびりと軒を連ねていた。が、彼らの目的地は温泉街ではなく、銅山川を一キロほどさかのぼったところにある広い河原であった。最上台に鋭い渓谷を刻んで流れ下ってきた川は、台地の終端部分で大きく西に蛇行する。峻厳な崖は屏風を開くように岸から遠ざかり、川は一気に幅を広げて、運んできた石や土砂をそこに堆積させ、明るい河原を作っていた。
「よし到着。ここだここ! ここにだったらテント張っていいって、村役場に許可もらった。あんまり水のそば行くと増水したとき持ってかれっから…どのへんにするかな。」
 河原に下りたRVはガクガク揺れながら、設営にふさわしい場所を探して少し走った。食べるだけ食べて寝ていた陽介も、その震動に目を覚ました。やがて拓は、比較的大きな石が少ない平らな場所を見つけ、ここにしようと言って車を停めた。五人は外に出た。
「さて、まずは荷物全部降ろそう。」
 きりっとまとめた髪を上下に揺らして、拓は設営を指揮した。テント、といえば昔ながらの三角形のものを想像していた由布子だったが、最近のアウトドアブームはじつにさまざまな新製品を世に送り出していた。邪魔な石をどかして地面をなるべくフラットにする、その作業が一番大変だったくらいで、大型と中型の二つのテントはあっという間に、ほとんどワンタッチと言ってもいいほどの手軽さで組み立てられた。
「いちおう念のためロープ張っとけよ。」
 拓に言われて陽介は、大きな石にロープをくくりつけて、四方からテントを固定した。ペグを打つハンマーさばきは、相変わらず鮮やかだった。広いタープにテーブルセットを並べ、ツーバーナーを設置した調理スペースを作り、折り畳み式のディレクターズチェアまで広げると、二晩をここで過ごす五人のための城が、河原の一隅に誕生した。
「あっちー…!」
 拓はさすがに汗だくだった。Tシャツの裾でパタパタと風をおこし、左右の袖で額や頬をぬぐった。
「はいお疲れさま。少し休憩なさいな。」
 幸枝はクーラーボックスから缶ビールを出して、テーブルの上に並べた。ウーロン茶は陽介用であった。細かい水滴をびっしりと付けたモルツの缶をあけ、拓はごくごくと喉を鳴らして飲んだ。数あるビールの中でも、このほのかな甘みはモルツにしかない。大自然のふところで飲む酒はまさに天上の味わいで、由布子も拓と同じスピードで250ミリ缶をあけてしまった。高杉も深く息を吐き、
「陽介、早く大人になれよ。こういう時のビールは、甘露だぞ甘露!」
 ウーロン茶をすすっていた陽介は、
「すごくうまいもん、これだって。」
 悔しそうに言ったので、四人は大笑いした。
「さてと、これからの分担だけど。」
 すっかりリーダー役となって拓は言った。
「まずは水汲みと薪集め。バーナーは持って来たけど燃料がそんなにないんで、焚き火でまかなわないとまずいんだ。水は…湧き水とかあると思うけどいまいち不安だから、温泉の方行ってもらってこよう。車で行きゃすぐだし…久さん頼むわ、幸枝さんと一緒に。あ、今のビールが抜けてから行けよ。」
「おう、こんなアルコール五分でとんじまうわ。これだけ汗かきゃあな。」
「それと…薪は由布子と陽介な。多少湿ってたって大丈夫だから、細いのと、太めのと、ぶっといのも集めてきて。木からは折るなよ。役場に怒られっから。虫よけスプレーして、軍手してけよ。」
「うん、わかった。」
「あれっ? お前が入ってないじゃないか。何するんだよ。昼寝とか言ったら殴るぞ。」
「俺? 俺はもちろんこれよ。食糧確保。」
 拓は釣り竿を持つジェスチュアをした。
「おっ、釣りだったら俺も負けないぞ。昔とった杵柄だ。」
「久さんは海じゃん。悪いけど、川魚は海のみたいに頭悪くないから、そうそう簡単に釣れるもんじゃねぇんだよな。」
「馬鹿野郎、魚にそんな違いがあってたまるか。まあ見てろ、水汲んで帰ってきたら、俺がバカスカ釣ってやる。」
 五人はしばし休んだのち、割り振りに従って行動を開始した。拓は釣り竿を持って川べりへ、高杉夫妻はランドクルーザーを駆って水汲みに、由布子と陽介は薪拾いである。
 河原の外はすぐに林であった。誰が歩いたとも知れない細い径を行き、二人は枝を拾い集めた。朱筆(しゅひつ)に似た水引草が揺れ、聞こえるのは蝉と鳥の声だけであった。今の時期、日本各地の有名避暑地は、人の群れがひしめきあって押すな押すなの騒ぎであろう。そう思うとこの静けさは、信じられない別世界であった。
「太い枝って全然ないですねえ…」
 陽介は足元を見回した。二人が抱えているのはせいぜい、両手で折れる程度の枝ばかりであった。
「でもとりあえずこれだけ集まったじゃない。」
「いや、足りないですよまだまだ。だってキャンプファイヤーとかもやるんだし。」
「キャンプファイヤー?」
「当然ですよ。だって、キャンプだもん。」
 当たり前じゃないかと言うようにうなずいて、
「もうちょっと集めなきゃ。もっと、丸太みたいに太いのないかなあ。」
 陽介は林の奥へ向かおうとしたが、由布子は気づいて、
「ねえ陽介さん、それだったら川の方へ行ってみましょうよ。」
「川の方ですか?」
「うん。流木とかの方が、きっと大きいのあると思わない?」
 二人は木々の間をぬけ、抱えた枝をいったんテントのところに置いてから、今度は河原で流木集めを始めた。川では拓が釣り糸を投げていた。Gパンを膝まで折り、水の中に立っている彼の背中が、由布子の目にはひどく頼もしく映った。
 流木は浅瀬にごろごろしていた。岸に打ち上げられてカラカラに乾燥したものもあった。効率よく火を焚くためには、湿った枝も乾いた枝も両方必要なのである。由布子と陽介は川とテントを何往復もして、膝折り・手折り・指折りの、それぞれの太さの枝を集めた。恐竜の白骨死体のような流木を、二人で掛け声を一つに引きずり上げようとするのを見て拓は笑った。
「おい待てよ、燃えねっつうのそんなの。誰か火あぶりにするわけじゃないんだから、太けりゃいいってもんじゃねぇって。」
 やがて高杉たちが戻ってきた。蓋付きの寸胴(ずんどう)二つと一升瓶三本に、貴重な水資源を確保してくると、
「よっしゃ、真打ちの腕、見せたろやないけ。」
 高杉は自分用の釣り竿を構えて、拓の隣に並んだ。二人は、
「お前まだスピニングなんか使ってんの。やだねぇ素人は!」
「だってキャスティングが軽いじゃん、こっちの方が。」
 などと由布子にはわからない会話を始めた。陽介がそばに立ってじっと見ているのに気づき、拓は、
「お前もやるか?」
 と彼を手招き、釣り竿を渡して、いろいろとコーチを始めた。由布子は細めの流木を何本か抱えてテントに戻った。幸枝は早々に夕食の支度にとりかかっていた。
「今夜は鉄板で焼き肉にするつもりだったんだけど…。どう思う? あの連中、ちゃんと釣ってくると思う?」
 肉をはさむトングで彼女は川の方を指した。男たちは、陽介のロッドの振り方がまずい、それではバッククラッシュすると騒いでいる。由布子は少し考え、
「…無理みたいな気がしますけど。」
「だわよねえ。」
 二人は顔を見合わせて笑った。
「じゃ、魚はあてにしないで、たくさんお肉、用意しときましょ。」
 幸枝はクーラーボックスから肉の塊を取り出した。
 

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