【第2部・第2章】bQ
 
 肉と、それに野菜も切り、夕食の準備が整った頃にひぐらしが鳴きだした。拓たちは釣り竿をかつぎ、バケツを一個下げて戻ってきた。
「全然ダメ。この二人が騒ぐもんだから魚に警戒されて、全然食ってこない。これだけかかってたったの二匹。」
 案の定であった。拓はバケツをコンロの脇に置いた。高杉は異議ありといった様子で、
「何言ってんだよ拓。お前だろうが最後の大物、釣り上げてすぐ落っことしたのは。」
「久さんが大声出すからじゃん。」
「お前引ききってないもん。第一ライン細すぎ。ちっとワーミングしたらそれだけでアウチよ。」
「一匹も食いもしなかった奴に言われる筋合いはないね。」
「まぁまぁお二人とも。」
 幸枝が掛け合いを止めた。
「とにかく戦利品はこの二匹だけなのね? じゃあこれは由布子さんとわたくしとで有り難く頂きますから、自分たちの食いぶちは、あしたにでもまた稼いで下さい。」
 笑い声は幾度も河原に響いた。山の日暮れは早い。ランタン三基に火を入れて、焼き肉パーティーが始まった。
「陽介さん、そこ、焼けてる焼けてる。取らないと焦げちゃうわよ。」
「あ、はい。…うん、うま… あちあちあち。」
 はふはふいっている陽介に高杉は、
「お前ね、肉ばっかじゃなくて、少しは野菜も食いなさい? 俺の前、なんでこんなにピーマンばっかあるの。」
「久さんピーマン好きじゃないすか。」
「好きったってお前…。一人で肉食ってないか?」
「じゃあこれ乗せましょう、こっちのやつも。」
「あっすいませんねぇ由布子先生。ピーマンいりますか。ほらこのへんコンガリ、いいあんばい。」
「いただきます。」
 四人がそうやってぱくぱく食べているそばで拓は、石を組んだかまどの前に座り、職人のような顔をしてイワナの串焼きを作っていた。ひれに塩をつけるところから始まって、いかに見た目を美しく、かつ全体にまんべんなく火を通すか。技(わざ)の限りを尽くさんとばかり、いつもながら彼は真剣であった。
「よし、できた…と。」
 拓は、皮の表面をふつふついわせているイワナを、由布子と幸枝に一本ずつ手渡し、
「食ってみろよ。うまいから絶対。小骨だの内臓だの言わないで、がぶっといってがぶっと。」
 そう言って由布子をじっと見た。後でいいわなどと言ったら殴られそうであった。由布子は串を真横にして口にもっていき、二〜三度息を吹きかけてから、あぐりと背中に噛みついた。
「どう。」
 猫舌の由布子は空気も一緒に吸いこんで冷ましつつ、
「…おいしいっ!」
 お世辞でなくそう答えた。幸枝も大きくうなずき、
「おいしいわ。うん。身がしまってて塩がきいてて、おいしい。」
「よしゃっ!」
 拓は拳を握り、小さくガッツポーズをした。残すなと言われるまでもなく、頭と尻尾と背骨以外を、由布子はぺろりと食べてしまった。拓は満足そうに、
「これ食っちゃったらさ、料亭の焼き魚なんてバカバカしくて食えねぇだろ。いくら生簀(いけす)にいるったって、こういう川で釣ったやつとは活きが違うんだから。」
「ほんとね。うん。すごくおいしかった。なんか、あたしらだけで食べちゃって、ごめんなさい。」
 由布子が言うと拓は、
「いいって。明日は大漁にしてやっから。さてと、それじゃあ俺も焼き肉…」
 鉄板の前に立って割り箸を割ったが、乗っているのはすでに野菜だけであった。
「ねえじゃんかよっ!」
 拓は陽介を見た。最後の一切れは陽介の箸にはさまれ、豆板醤のタレに浸けられていた。
「てめっ、その肉…」
 陽介は拓の形相に気づき、大急ぎでそれを口の中に入れた。
「お前そういう…!」
 唇をしっかり結んで鼻息も荒く咀嚼している陽介に、拓は絶句した。横から高杉は、
「まぁまぁ拓先生、ピーマンほら、焼いときましたから。ああ玉ねぎもございますよ? はいはい。さ、お取り皿をお持ち頂いて。」
「信じらんねぇ…。ヒトが魚焼いてるあいだに、お前ら全部食っちまったのかよ!」
「いいえ全部だなんて、お野菜はたくさんありましてよ。はい、こちら椎茸のソテーでございます。人参のグラッセなどはいかがでしょうか。」
「俺は肉が食いてぇーっ!」
「はいにいさん。もやしと茄子。」
「しばくぞっ、てめぇ!」
 幸枝はクスクス笑って、隠してあった最後の一皿を出した。
「冗談よ拓くん。まだあるわよ。はい、焼けたら取ってね。」
 彼女は鉄板に、ロースの切り身を並べた。
「なんだよ焦ったあ…。俺、帰ろうかと思ったぜマジで。」
「食いもんの恨みは恐ろしいわな。ほれ、焼けるまで何はともあれピーマン召しませ?」
「もやしと茄子…」
「てめぇが食ってろっ!」
 さんざん食べて、笑ったあと、五人は交代で肘折温泉へ行った。最初に高杉と陽介が、次に由布子と幸枝と拓が、交互にRVに乗って温泉街へ行き、共同浴場ののれんをくぐった。
 由布子たちが女湯へ入っていくと、浴槽にいた地元の老婆が、
「おまぇら、どっから来た?」
 気安くそう話しかけてきた。東京からだと答えると、
「ほだぃ、とかぃとこから来たの。んだら、ゆっくり楽しんでってけらっしゃい。」
 歯の欠けた老婆は皺だらけの顔で笑った。
 外へ出ると、拓は車で待っていた。肩に流れる洗い髪が、真っ白いTシャツの布を濡らして光っていた。
「汗流すだけじゃなくて、お湯ちゃんと飲んできた?」
ハンドルを回し、拓は言った。
「『ナトリウム塩化物炭酸水素塩温泉』。切り傷、火傷、筋肉痛に効果があって、飲むと胃腸にいいんだってよ。俺はおいしく頂いてきた。」
「へえ、そうなの。」
 由布子は、湯舟に入ったとき体中に付着した細かい泡を思い出した。サイダーに似たあの泡が、つまり炭酸ガスだったらしい。
「でね、中にいたおっさんに聞いたら、うちらがテント張ったとこの、もうちょっと上流行くと、天然の露天風呂があるんだって。宿とかそういうのは全然なくて、河原にただ岩風呂があるだけ。面白そうじゃん。明日はそっちも行ってみようよ。」
 車は河原に戻った。墨色の闇の中に、ランタンの明かりと焚き火が揺れていた。
「お帰んなさーい。」
 長い枝で薪をつついて火力を調節していた陽介が手を振った。パチン、とはぜて蛍火のような火の粉が舞い上がった。
「お、陽介さすが。ちゃんと火つけられたんだな。よしよし。うまいこと井桁に組んであんじゃん。」
 拓は火のそばにかがみ、炎の弱い部分に何本か枝を差し込んだ。火はあかあかと燃え上がって、あたりを丸く照らし出した。
「ほい、これ敷けよ。それからこれはグラス代わりな。」
 高杉がビニールシートとシエラカップを持ってきてくれた。焚き火を囲んで五人は車座になった。由布子の左右に陽介と幸枝、その隣に高杉、拓は正面にあぐらをかいた。
「さあさあ星を見ながら一杯。これがキャンプの醍醐味だねぇ!」
 アーリータイムズのキャップを、高杉はパキパキと開けた。
「うわ、ラッキー!」
 拓はボトルを受け取った。強いキックを持ちながらどこか甘いこのウイスキーが、彼の一番のお気に入りなのだろう。ボトルは幸枝・由布子と順番に回ってきた。陽介は例の如くキリンレモンだったが、
「えー、俺もひとくち…。駄目ですかぁ?」
 大きな目を由布子にむけて、うらめしげに言った。未成年者が酒を飲んではいけない、それはもちろんそうなのだが、さっきも陽介はひとりウーロン茶を飲んでいたし、一口くらいとせがみたくなる気持ちはよくわかる。由布子はボトルを陽介に渡していいものか迷った。高杉は、
「だーめ。ガキには強すぎる。今からこんなの飲んだら頭バカになっちまうぞ。」
「俺とっくにバカですよ。これ以上どうもなんないですって。きったねーよなー、みんなしてうまそーに…。」
 口を尖らせて陽介が拓を見ると、
「だけどバーボンだぞこれ。しかもストレート。舌がピリピリすんぞ? 平気か?」
 拓は暗に許可する言い方をした。
「平気平気! ひとくちでいいですから。」
「しょうがねぇな。じゃあ由布子、ついでやって。ほんの雀の涙な。」
「やったあ!」
 喜ぶ陽介のカップに、由布子は少しだけアーリータイムズを注いだ。舐めるように飲んで彼は満足そうだったが、由布子たちが話に興じて気づかないうちに、こっくりこっくり舟をこぎ始めた。
「だいじょぶか? おーい、陽介ー?」
 拓が耳元で呼ぶと彼は、うん、とうなずいたはものの、そのまま拓の肩にふらっともたれて、くうくうと気持ちよさそうに眠ってしまった。
「風邪ひくわねえこれじゃ…」
 幸枝は立っていって、陽介の肩を叩き、
「陽介くん、さ、ちゃんとテントで寝ましょ。ほら立って。歩ける?」
 彼女は、ふらふらと足取りのおぼつかない陽介を抱きかかえるようにして、大きい方のテントに連れていった。その後ろ姿を見やって拓は言った。
「そういや久さんてさ、あいつくらいの子供いてもおかしくないんだ。あれ? ひょっとして…俺でも立派に許容範囲じゃん。」
「へっ、お前みたいな息子、誰がいるか。陽介だったらまだ可愛いけどよ。」
「だけど手がかかるぜ? あいつ。」
「かかるくらいがちょうどいいんだよ。幸枝もな、陽介のことは子供みたいに思ってるだろ。」
 陽介は十七歳、幸枝は四十五歳だから、実子であっても何ら不自然ではない。そういえば高杉夫妻にはどうして子供がいないのだろう。由布子はちらりと考えたが、同時に高杉は言った。
「ま…俺が悪いんだけどな。幸枝にはちょっと、申し訳ないと思ってるよ。」
 疑問に即答してくれたかのようで、由布子は思わず高杉を見た。彼はニヤッと笑い、顔の前で指をハサミの形にして、チョン、と何かを切る仕種をして見せた。その意味がわからないほど、由布子は世間知らずではない。拓は高杉を指さし困ったもんだという笑い方をして、
「もうさ、このおやじ、悪いアソビしてきてんだから。人は見かけによらないって本当だよな。」
「やかましいっ!」
 高杉は拓の後頭部をぴしゃっと叩いた。
「あいてっ。」
「安全策だったんだよ安全策。昔の俺はな、そうだったんだよ。」
「安全策ねえ。なんでこんなおやじが、そんなモテんだかな。」
「さあね、俺は知りましぇん。どこ行ったって女が放っとかなかったぞ、俺のことは。」
「それがわかんねぇよな…。本命はずしの大穴狙いなのかな。」
「なんてこと言うのお前。」
「いや、だってさ…。久さんのどこがいいんだろ。」
「お前に言われたかないね。男は顔じゃないのよ?」
「そらまそうだけどさ。つくづく不思議だよな。由布子わかる? 久さんていい男?」
「うん。そう思う。」
 由布子はうなずいた。高杉と拓は、一瞬顔を見合わせた。拓はまばたきもせず高杉をのぞきこみ、高杉は得意満面になってバーボンを飲み干した。店名にはしなかったけれども、フランス語のマリーンには、船のほかに『船乗り』の意味もある。国際航路のエンジニアとして七つの海を渡った高杉は、港から港へさすらう鴎のように、自由と孤独の何たるかを身をもって知っている『本物の男』なのであろう。あの幸枝が選んだ男だ、ただものであるはずがない。彼は拓の肩をドンと突いて、
「な? 由布子先生はわかってるんだよ俺のよさが。お前みたいな青二才、先生には食いたりんと。ま、そういうことだ。お気の毒にねぇ色男くん!」
 そう言ってからからと笑った。
 陽介を寝かしつけて、幸枝は戻ってきた。隣に腰を下ろした妻のカップに、高杉はバーボンを注ぎ足した。高杉と幸枝。一人ずつの男と女は、お互いがお互いの港であり、魂のよりどころであるのだろう。長い旅の果てに二人は出会い、生涯の伴侶として手を取りあった。過去も傷あとも何一つ否定せず、葬りもせず、あるがままに受け入れて。
「うわ、すげえ星…。」
 ふいに拓は言った。天を仰いで、由布子は息をのんだ。あの時と同じ大銀河が、空を二分して流れていた。頭がくらりとしたのはバーボンのせいだけではなかった。今はいつ、ここは菅平? 回りにいるのはクラスメイトたち? 時間軸を見失いかけた彼女の隣で、拓は腕を枕に組み、ごろりとあおむけになった。
「銀河って名前さ、最初に誰がつけたのか知んないけど、ほんとそうだよな。銀河宇宙、太陽系第三惑星、地球…か。」
 横たわった彼の顔はぼんやりとしか見えなかった。焚き火はだいぶ弱まっていた。
「これだけ星があんだから、どれか一つくらいには生物がいんだろきっと。そいつらもさ、やっぱこうやって河原でテント張って、おんなじ会話してたら笑えるよな。『おーい、聞こえるかー!』って、そんなメッセージが届く頃には、みんな死んじまってるんだろうけど。だってあの星から地球まで光が届くのに、何十万年もかかってるんだろ? 今ごろあの星自体は、とっくに消滅しちゃってんのかも知んない。そう思うと不思議だよな。」
 拓の目は、遠い彼方に向けられていた。いつか出会うはずの太陽を信じて、宇宙を翔ける白い彗星。あの星は今頃、どこを旅しているのだろう。彼女は拓への子守歌のように、なつかしい第二楽章を口ずさんだ。
  風は涼し この夕べ いざや楽し夢を見ん… 
 

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