【第2部・第2章】bR
 
 眠りの浅瀬をたゆたいながら、由布子はひぐらしの声をきいていた。
 夜明け前の薄闇に、彼らは遠く近く鳴き交わしていた。高く主旋律を奏でるバイオリンに続いて、微妙に高さを変えてビオラが唱和する。初めの調べが消える寸前にまた新しい弾き手が加わり、途切れることのないフーガは、整然と並んだ空気の分子をすりぬけて響いた。暁の大地を舞台に、彼らが奏であうクインテット。やがて金色の太陽が目覚めると、主旋律は鳥たちの管楽器に移る。由布子は幸枝を起こさぬよう注意してシュラフを抜け出、Gパンに両足を入れて、そっとテントの外へ出た。
 空気はひやりと冷たかった。一面にたちこめる川霧が、太陽の光を内側に包みこんで薔薇色に輝いていた。咲きがけの蕾の中は、あるいはこのような世界なのかも知れない。由布子が進むと、進んだ分だけ景色は姿をあらわした。霧の底に、やがて川面が見えてきた。幾千のさざなみを刻んで、命を運ぶとこしえの流動。道をつくり人を支える、川という名の水の姿。由布子は靴と靴下を脱いだ。裸足になって川の中に入った。心までもが洗われそうな、冷たく澄んだ水だった。
 パシャン、と水音がした。魚でもはねたかと彼女はそちらを見た。霧の中に人影が浮かんだ。由布子よりも背の高い影が、ゆっくりこちらに近づいてきた。霧は左右に薄らいだ。そこにいたのは拓だった。髪が少し後ろになびいて、間から耳がのぞいていた。気配に気づいたか彼は、水面(みなも)に伏せていた目を上げた。二つの瞳が彼女を見た。
「よ、…」
 由布子、とわかると拓は微笑した。
「おはよう。早いじゃん、どしたの。」
 柔らかな朝日が彼を包んでいた。いま彼の背に純白の翼があっても、自分は驚かないだろうと由布子は思った。
「…あなたこそ、こんなに早く何してるの?」
「俺?」
 彼は水の中で一歩足を進めた。由布子は彼と並んで歩いた。
「目、覚めたからさ。気持ちいいじゃん山の朝って。東京じゃあ絶対味わえない空気。泉の水みたいにキーンと澄んでて。」
 拓は腕を空に突き上げて伸びをし、
「今日はさ、あっちこっち行ってみようよ。なんもないとこなら、なんもないなりに、ぶらぶらするのもいいよな。ああ俺、釣りもしなきゃなんないのか。昨日はたったのあれっぽっちだったけど、イワナだけじゃなくて、ヤマメもニジマスもいるんだぜこの川。」
「ふうん、そうなの。」
「釣った魚は食うのが礼儀だからな。もっとうまいの食わしてやるよ。」
「そうね、期待してる。…でもね、拓。」
「あ?」
「あたし、そんなに食い意地張ってないわよ。なんだかこの前の雪見酒以来、人のこと雑食だと思ってない?」
「うん。」
「うん、って…」
「由布子って細っこいくせによく食うよな。ヤセの大食いの典型。」
「そうかなあ…。」
「だから、いっぱい釣ってやっかんな。そのかわりちゃんと全部食えよ。わかった?」
 拓が誘い出し笑いをしたので、つい由布子はうなずいた。
 
 朝食は高杉が作ってくれた。タマネギの輪切りを枠にしてきれいな目玉焼きを作る方法を、由布子は初めて知った。飲み慣れたインスタントコーヒーも、焚き火で沸かした熱湯で溶くと、全く別の味がした。
「ナヴィールのコーヒーよりおいしいっすね。うん。ずっとうまいや。」
 陽介の言葉に拓は、
「お前それ、俺に対する嫌味?」
 マグカップを唇に当て、苦笑いして言った。
 食事を済ますと、五人はハイキングに出かけた。貴重品だけは車にしまってロックをし、念のためテントに『設営許可は頂いています 高杉』と貼り紙をした。由布子はGパンとスニーカーに、薄い水色の長袖Tシャツという軽い山歩きの服装で、小型のナップザックを肩にかけ、拓のあとにつづいて歩いた。
 銅山川を見下ろす崖の中腹に、地蔵倉と呼ばれる小祠がある。商売繁盛に霊験あらたかというので、五人はまずそこにお参りをした。赤いよだれかけをしてずらりと並ぶ二十基ほどの地蔵尊に、中天に昇りつつある太陽がじりじりと照りつけていた。晴れ男二人の相性は、かなりよいようである。
「商売繁盛、商売繁盛。ナヴィールの客足が今後ますます盛んになりますように。あー南無妙法蓮華経…」
 高杉は唱えたが、
「南無阿弥陀仏なんじゃねぇの? どっちかいうと。」
 掌を合わせて隣に立ち、拓は言った。
「いいんだよどっちだって。ありがたいお経には変わりゃせん。」
「そんないい加減なことで、聞いてくれんのかね。」
「お前ね、大事なのは、祈る心よ心。こうやってお祈りする俺の清―い心をだな、仏さまはお聞き届け下さるわけだ。いや、ありがたいありがたい…。」
 なむなむ言っている高杉の横で、拓は一体の地蔵に深く頭を下げ、
「すいません、こんな訳わかんないおやじですが、どうか聞いてやって下さい!」
 それでまた全員が笑った。
「でも、なんでこんなところのお地蔵さんが商売繁昌なんだろ。」
 陽介は首をかしげた。高杉は言った。
「さあなあ。温泉があるくらいだから、だいぶ前から人は住んでたんじゃないか? 近場の村から温泉に入りに来る奴らのために、店か何かあったんだろうよ。」
「へえー、久さんよく知ってますね。」
 陽介は感心したが、拓は顔の前で小さく手を振り、
「あてにすんなあてにすんな。十中八九、間違ってっから。」
「お前それは俺に対して失礼だろう。せめて十中六七にしてもらわんと。」
「かわんねっつの。」
 二人の応酬に陽介はけらけら笑い、
「でも、肘折っていったら山形のチベットって呼ばれてるんでしょ? 本州最後の秘境なんだって。」
「誰だそんなこと言ったの。」
 拓も笑いながら聞いた。
「会社の先輩です。お盆休みどうするんだって話のときに、肘折温泉行くって言ったらそう教わって。若いもんがよくそんなとこ行くなって、珍しがられましたよ。」
 高杉は景色を見回し、
「ま、静かでいいわな。いわゆる穴場ってやつだろ。なあ拓。」
「うん。Everything is by myself. 俺は好きだねこういうの。」
 地蔵倉をあとにし、五人は山歩きを楽しんだ。秋は紅葉の名所となるこのあたりには広葉樹が多く、柔らかな葉が作り出す緑のフィルターは、焦げつきそうな真昼の陽射しを、高原の爽やかさに変えていた。
 上流に行くにつれ、川は流れをせばめた。水音は高くなり、色も緑から紺に変わった。川岸の崖に茂った枝が廂(ひさし)となって太陽を遮っている下に、大きくて平らな岩があった。畳四枚分ほどの広さがあるそこで、彼らはフランスパンにハムやチーズ、レタスをはさんだワイルドなサンドイッチの昼食を取った。陽介の真っ白い歯は、小気味よくパンを噛みきった。澄んだ空気のせいで由布子も、普段ならとても食べきれない量をたやすく胃におさめてしまい、これでは拓に大食いと言われても反論できないなと、心中密かに納得した。
「あー、うまかったっ!」
 陽介はふーっと息を吐き、食後の休憩など頭にも浮かばない様子で、喜々として裸足になった。急流のあちこちにのぞいている岩から岩へ、彼は身軽にぴょんぴょん渡り歩き、濡れた苔を踏んづけ足をすべらせかけて、両腕をプロペラのようにおっとっとと振り回した。
「あぶねーぞ、ばか!」
 言いながら拓も少年の顔になっていた。同じように裸足になると、川の真ん中近い岩にひらりと飛び移った。かがんで両手を水に浸し、ザブザブと顔を洗った。
「気持ちいー!」
 タオルもハンカチも使わずに、彼は首を振って水しぶきを飛ばした。束ねた髪が大きく揺れた。
「飲めるよな、この水。」
 手にすくって唇をつけ、口の中で少し味を確かめてから拓は、ごくりと飲み下した。
「大丈夫かぁ? ハラこわすなよ。」
 高杉が言うと、
「平気だって。俺、胃腸と腰は丈夫。」
 彼はさらにひとすくい飲んだ。唇からしたたった水滴が、顎をつたい首に流れた。
 由布子は夏みかんの汁でべたつく手を洗おうと、岩の先端へ行って腕を伸ばした。真昼の炎天下なのに、川は雪どけ水のように冷たかった。拓のいる岩からは三メートルほど離れている。彼は中腰になって、じっと水面を見ていたが、
「うわ…ずいぶん魚いるな。失敗した、釣り竿持ってくりゃよかった。これ、多分入れ食いだぞ。」
 視線の先を由布子も見た。きらっと鱗が光った。
「ほんとだ。これはなに、やっぱりイワナ?」
「うん。ちっきしょ…。こいつら俺が竿持ってねぇのわかんのかな。全然警戒もしてねぇじゃん。見てみ、ほら。」
 拓は水面を指さした。二人の間にはもう一つ岩があった。何とか飛び移れそうである。由布子は立ち上がったが、
「あ、靴脱いだ方がいい、靴。スニーカーは底が滑るから。落っこちたって助けてやんねぇぞ。」
「薄情者…。」
 由布子はアドバイスに従って裸足になり、よっ、と目的の岩に飛び移った。拓との距離は二メートルほどに縮まった。
「ほらほらあのへん。すげぇいっぱいいんだろ。岩魚(いわな)ってくらいだから岩陰にいるんだよな。…くっそぉ、もうちっと近くに来ねぇかな、そうすりゃ素手でつかまえてやんのに。」
「素手で? つかめるの?」
「ああ、やったろうじゃん。」
 拓はTシャツの袖を腕の付け根までまくり、膝立ちになって身をのりだした。陽介はいつのまにか一つ向こうの岩に移ってきていて、やはりわくわくした目で拓を見ていた。
「ちょっと、あなたこそ落っこちないでよ。」
「だいじょぶだって。よしゃっ、さあ来いっ!」
 拓は、胸の前で手のひらにパシンと右の拳を打ちつけ…たのと同時であった。バシャッ! と水面をたたいて一匹のイワナが至近距離でジャンプした。盛大な水しぶきがまともに彼の顔にかかった。
「……。」
 そのまま固まってしまった拓に、由布子と陽介は大爆笑した。
「にいさん、にいさんイワナになめられてやんのー!」
 陽介は岩に座りこんで笑った。きのう、『川魚は頭悪くない』と言ったのが拓自身なだけにおかしかった。拓は鼻の頭からぽたぽた滴を垂らしながら、涙を流して笑っている二人を右・左と順に見やって、
「笑うんじゃねーっ!」
 両手を川につっこみ、ザバッと水をしゃくい出して陽介と由布子にぶちまけた。
「きゃっ!」
 彼女は悲鳴を上げた。洗面器一杯分はたしかにあった。
「もう! 何すんのよ!」
 笑いながら由布子は立ち上がった。そこへ続けて二杯めが飛んできた。拓の笑い声が聞こえた。
「きのうイワナ平らげたくせに、ゲラゲラうけてんなっ!」
 由布子は両手で顔をぬぐった。Tシャツもぐっしょり濡れていた。
「陽介さんっ! そいつ川に放りこんでっ!」
「えっ、いいんですか?」
「かまわない、あたしが許す! やっちゃって!」
「よーしっ!」
 陽介は拓のいる岩に、えいやっとかけ声をかけて飛び移った。
「ばかっ! あぶねぇだろっ!」
 じゃれあう二人をおいて由布子は、スニーカーを拾い、高杉たちのところへ戻った。
「あららら…。被害甚大ね、冷たいでしょう。」
 幸枝は苦笑して、乾いたタオルを出してくれた。由布子はそれで顔を拭き、Tシャツの胸と肩をおさえた。
「すいません。まったくもう子供みたいなんだから。」
「ほんとね。」
 幸枝はクスクス笑った。拓と陽介はまだ岩の上で組んずほぐれつやっている。
「おーい! ほんとに落っこちるなよー!」
 高杉が呼びかけると、それをしおに彼らは戻ってきた。二人とも、ほとんど全身びしょ濡れになっていた。
「大丈夫? ちゃんと拭きなさいよ。」
 幸枝は二枚目のタオルを陽介に渡した。拓は息をきらし、だが笑って岩に腰をおろした。
「使う?」
 由布子が差し出したタオルを、拓はちらりと見たが、
「いや、いいよ。すぐ乾くってこんなの。」
 断ってまたすぐに立ち上がり、木陰が切れた日なたへ出ていって、髪をほどき太陽をふりあおいだ。
 

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