【第2部・第2章】bS
 
 変化に富んだ山の道を彼らは歩き、空気と景色を堪能した。クマザサをかきわけて登っていくといきなり視界が開け、烏(からす)川とも呼ばれる銅山川の流れと肘折の温泉街を一望できたりして、彼らはいたるところで歓声を上げた。歩き続けていささか疲れ、どこかで休憩しようと場所を探している時、拓は小さな道標を見つけた。川の方を指して『石抱温泉』と書かれている。
「ここかあ、天然露天風呂! ちょっと見てみようぜ。」
 拓は坂を下りていった。子犬のように陽介がついていった。由布子と高杉たちは、ゆっくりとあとに続いた。
「あったあった。へえー! こんな感じなんだ!」
 川べりに二人は立っていた。河原、と呼べるほどの広さはなく、小径のそばにもう浅瀬が迫っていた。そこに梁場(やなば)のような板が渡され、脱衣所といえなくもない原始的な設備があった。流れを堰き止めている岩が浴槽代わりである。浅いので川底の石が見えていた。
「な、な、な、入ってこう入ってこう! ちょうど誰もいねぇじゃん、チャンス!」
 拓は板敷きの上にあがって、ナップザックとサングラスを放り出した。もちろん陽介も右へ習えだった。高杉はと見ると、
「俺も混ぜて俺も!」
 やはり少年の声色になって飛んでいった。幸枝は呆れた顔をした。
「ねえ! 先に行ってるわよ!」
 由布子は両手をメガホンにして言った。
「なんだよー、来ないのー?」
 仕切りの蔭から拓の声がした。
「当たり前でしょう! 先に帰ってるから!」
 わかったー! と明るく返事をして、拓はもう全部脱ぎ捨てているだろう。
「行きましょ、由布子さん。」
「そうですね。」
 裸で騒いでいる三人を残して、二人は歩き始めた。大自然の中ではつくづく、男は有利だなと由布子は思った。この明るい太陽の下で、さっさと下着まで脱ぐのは女にはまず無理だし、特にトイレの手間が段違いだ…などと、学術的な感慨にふけっていると、行く手正面から華やかな嬌声が近づいてきた。赤やピンクのカラフルなハイキングスタイルで、ガイドブックを手にした高校生くらいの娘たちだった。すれ違うには細いその小径を、由布子と幸枝が立ち止まってあけてやると、
「こんにちはー!」
 挨拶が山歩きのルールだとどこかで教わったのだろう、四人娘は声を揃えて明るく笑いかけてきた。
「あの子たち、温泉に入りに来たのかしら。」
 リュックサックを見送り、幸枝は言った。
「あ、そうかも知れないですね。」
 先客がいることを教えてやるべきだったかな、と思ったとき、遠くでキャーッと黄色い悲鳴が上がった。
 
 テントに貼った紙は、誰にいじられた様子もなく風にひらひらしていた。由布子と幸枝は荷物を下ろし、コーヒーでも飲もうと湯を沸かし始めた。陽射しは既に遅い午後のもので、河原の半分はもう日陰になっていた。
 少しすると男たちが帰ってきた。タープに腰を下ろすなり、
「まいったな、チカンはねぇよなチカンは。」
「お前が調子に乗るからだろ拓!」
「俺が何したよ。こいつがいきなりさ…」
 口々に言いあう三人に、幸枝はマグカップを手渡しながら、
「何かやらかしたの? さっきの子たち、派手に悲鳴上げてたみたいだけど。」
「えっ、幸枝さん知ってんの?」
「知ってるっていうか、女の子四人とすれちがったあと、悲鳴が聞こえたのよ。ねえ由布子さん。」
「うん。戻ろうかと思ったんだけど…かかわりあいにならない方がいいだろうって相談がまとまって。」
 由布子は思い出し笑いをした。本当に二人でそう決めたのである。
「ひっでえ。俺はなんもしてねぇじゃん。こいつだよこいつ!」
「違いますって、俺はただ…」
 再び責任のなすりあいを始めた三人に幸枝は、
「ねえ、ちゃんと説明してよ。いったい何をしたの。」
「いや、だからね…」
 拓はコーヒーで唇を湿らせ、話し始めた。
「俺ら三人で風呂入って、『気持ちいー…』とかこうやってグデーッとしてたら、なんか向こうから女の子が来てさ。あの露天風呂って、俺らが歩いてきたあっちの方角からはよく見えんだけど、女の子たちの来た、こっちっかわは岩が陰になってて見えないんだよ。『あー、ここだあー』なんて声がして、なんかそのまんまこっち来そうな雰囲気だったから、ヤバいじゃん、うちらすっ裸だし。最後まで気がつかないであの子たちに裸になられても困るしさ、だから、入ってるよってこと知らせようと思って、俺がこう、合図送ったんだよ、手振って。」
「うそこけお前! そんな小さく振ったか? 違うんだ、こいつね、腰にこうやってタオル巻きつけてね、立ち上がったんだよ。『いぇーい、元気ー?』ってこんな手ェ振ったの。あそこ、浅かったろ? そこにこいつが立ち上がったもんで、びっくりして向こうが立ち止まったら…」
「したらそこでこいつが! この陽介の馬鹿が、いきなり俺のタオルをよ、…」
「だから違いますって。俺は、にいさん、よしなよって、座らせようと思って、つんつんって…つんつんってタオルのはじっこ引っぱったら…」
「落っこっちまったんだなこれが!」
 高杉はパンと手を打って笑った。
「そりゃ向こうは悲鳴上げるだろ? だってこいつ、モロ出しだもの! 『キャーッ! ちかんーっ!』て、バタバタ逃げてっちったの。」
「やだ…」
 由布子は吹き出した。女の子たちはさぞ驚いたろうが、拓の慌てぶりも半端でなかったろう。身をひねり湯の中にしゃがみこんだに違いない。
「お前のせいだろうが陽介っ!」
 拓は陽介の首に腕を巻き、しめあげた。
「いていてっ!」
陽介はじたばたと笑い、
「だって、だって俺は、もし、にいさんが手なんか振って、あの子たちがほんとに入って来ちゃったらどうするんだと思って!」
「来るわけねぇだろ、どう考えたって!」
「…なあ、まさかあの子たち、村の駐在さんにでも駆け込んでなきゃいいけどな。え? 拓。どうすんだ。俺たちがここでテント張ってんの、村役場は知ってんだろ? お前多分、顔覚えられたぞ。そのアタマは印象強いだろうからな。いまこの肘折にいるロン毛野郎ったら、お前くらいしかおらんだろう。」
「やっべー、マジかよ…。」
「さしずめあれだろうな、猥褻物陳列罪。露出狂と同じだ。書類送検で済みゃいいが。」
「冗談じゃねぇよ。ムコ入り前のカラダを惜しげもなく人目に曝したんだぜ? 俺…。『キャーッ、ちかんー!』だけで十分だよ、勘弁してくれよ。」
「大丈夫ですよにいさん。警察が来たら俺がくいとめますから、かまわず逃げて下さい。」
「俺は犯罪者かっ!」
 そこで幸枝はひとこと、
「ね? だからかかわりあいになるまいって言った、私たちは正解でしょ?」
「つっべてー! いいよ、わかった。はいはいそうですか。今日はどんなに大漁でも、ぜってー二人には食わしてやんねえ! おい、釣り行くから手伝えよ陽介! 人の尊厳をズタズタにしやがってこいつ。」
「だから俺のせいにしないで下さいよ。もっとちゃんとしっかり、巻いとけばよかったじゃないですかぁ!」
 まだああこう言いながら、二人は竿を持って歩いていった。生乾きの髪を風に散らした後ろ姿の、その腰のあたりに視線をまつわらせている自分に気づき、由布子は、我ながらはしたないと肩をすくめた。
 

第2部第2章その5へ
インデックスに戻る