【第2部・第2章】bT
 
 親子兄弟のような男たちのしでかす騒ぎは、それで終わりではなかった。
 昨夜は不覚にも途中で眠ってしまった陽介だったが、その晩は焚き火の前で実に元気にはしゃぎ、
「ね、怖い話しましょう怖い話! キャンプにはつきものじゃないですか!」
「怖い話?」
 拓は残り少ないアーリータイムズを、大事そうにカップに注ぎつつ問い返した。
「うん。なんかぞくぞくして、いいですよ。スリルあって、俺、好きなんです。」
「知らないぞ? 夜中トイレ行けなくなっても。」
 高杉は言ったが、すぐに何か思いついた顔になった。
「昔、船仲間から聞いた話なんだけどな。」
「うんうんうん!」
 陽介は目を輝かせた。由布子も幸枝も耳を傾けた。
「海の神様ってのは女なんだよ。だから昔っから船乗りは男って決まってるんだ。もちろん客船とか、ああいうのは別だぞ? 荷物運んだりして何カ月も旅するような、そういう船の話だからな。女を乗せると海の神様が嫉妬して、その船は災難に合うんだ。ところがだ。ある船に、わけあって女が乗ってたんだとさ。女は船底の、ロープとか筵(むしろ)とかの下に隠れてたんだが、どっこい嵐がきてな、どうも波の様子がおかしい、こりゃひょっとしてと船中探されて、とうとう見つかっちまうんだ。で、その女はすぐに、海へ放り込まれちまった。…さて、ところがだ。」
 高杉は声をひそめ、顔を突き出した。
「そのあとその船が海に出るとな、どっかで女の泣き声がするんだな。ある男が…って、そいつがこの話してくれたんだけども、ある夜キャビンにいてどうも寝つけないんで、風に当たろうと思って起き上がろうとした。そしたらお前、鉛の板を胸に積まれたような感じがして、手足が動かない。声も出なくなって身動きとれないんだ。どうしたんだ、と思って見ると、足元にぼう…っと白く光るものがあらわれてな、目をこらすと人間の形してるんだよ。ぽたっ、ぽたっ、と水の垂れる音がしてな、長い髪には海草がからまって、ふー…っとこっち振り向いた顔はあの、海に放り込まれた女なんだ。『寒い…。寒いの…。』女の腰から下は暗くて見えないんだけど、びしょ濡れの顔がな、こう、火の玉みたいにすーっと男に近づいてきて、『独りで、寒いの…。ここは暗くて冷たい…』ってな、どう考えても生きもんじゃないんだよ。だってな、起き上がれない男のこのへんに、生首だけふわふわ浮いてんだぞ。雫が、ぽたっ、ぽたって男の顔にかかって、ぞーっと冷たい空気が来てな…女の冷たい手が、男の首に、ふうっと…」
「おい、そこに!」
「やだっ!」
 いきなり闇を指した拓に、由布子と幸枝は抱き合い、陽介は拓の膝に飛びついた。拓はすぐに笑って、
「うっちょーん。なんでこんな単純な演出にひっかかるんだよ。簡単すぎて面白くねぇな。」
 彼はニヤニヤ笑いながらバーボンを飲み、
「…それじゃさ、こんな話知ってる?」
 表情をあらためて、怪奇譚を語るにふさわしい沈んだ声で言った。
「よくさぁ、夜…いや昼間でもいいんだけど、どっか、部屋とかに一人でいて、ふっと背中に気配感じることあんだろ。ああいう時って、ほんとに何かいるんだってね。」
 高杉は調子を合わせ、
「ああ、確かにあるな、そういう時って。」
「だろ。この空気中にはさ、目に見えないいろんな電波…思念波が飛びかってるわけじゃん。その周波数をヒットすると、音とか画像とかになって取り込まれるんだよね。だから霊とかそういうのも、ラジオにトラックの無線が雑音で入るみたいに、周波数合っちゃった時に見えたり感じたりすんだって。だから、…いるんだぜ、夜中。一人で何かやってて、このへんにぞくっと冷たい風みたいなの感じた時って。振り返るとさ、顔のない女とか、べったり血のついた悪霊とか…」
 炎が、ふわりと大きく揺れた。
「なんかで読んだんだけどね…。ある受験生が、夜中、二階の部屋で机に向かって勉強してたの。クーラーなくて暑いもんだから、部屋のドア開けといたんだって。廊下の向かいはすぐ階段で、そっから風が来ると涼しいんだよな。…んで、そいつ、こうやってカリカリやってたら、階段の下でコトン…コトン…て足音がすんだって。あれ、まだ下に誰かいんのかなと思って、気にも止めなかったんだけど、足音がね、どうも軽いんだってさ。子供か赤ん坊みたいな感じで、でもそいつんちには子供いないから、何もそんなに静かに歩かなくたっていいのに、とか思ってると、足音がだんだん昇ってきて、近づいてくるんだよ。パタン…パタン…パタン…って、二階の床に着いたんだ。ぴたっと音が止まって、すーっと冷たい風が入ってきて、誰だ?と思ってそっち見たら…」
 拓は言葉を切った。偶然だが、本当に風が吹いてきた。
「…誰もさ…いねぇんだって…。いやそんなはずない、いま絶対誰か上がってきた、と思って床見たら…濡れてんだよ水で。階段も一段ずつ、雨漏りみたいな水。そいつゾーッとして、…したらさ、さっき入ってきた冷たい風が、そいつの背中からまた、すーっ…と吹いてきて、振り返っても、誰もいないんだって。だけどそいつの部屋に一つだけある鏡。そん中にだけ…映ってるんだよ、顔半分腐ってとろけたような、浮遊霊が…。」
「やだ、ちょっと、やめて。」
 由布子は言った。腕がざらついていた。川と木々だけのこの空間には、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が潜んでいてもおかしくない。焚き火とランタンの届かぬ先は、漆黒の太古の闇である。
「あ、いま、何か感じたんだろ由布子。いるぞいるぞ。見えないだけで、肩のこのへんに何かいる。」
「いやだってば。」
 由布子は肩をすぼめた。拓は面白そうに笑い、
「まったく何がそんなに怖いんだよ。霊魂なんて、そう簡単に見えるもんじゃないって。よっぽど修業積んだ偉い霊媒師とかならともかくさ。」
 全く動じないといった、余裕のある顔をした。
「でも、にいさんに話されると、…なんかすごみありますね。」
 陽介は、嬉し恥ずかしならぬ、嬉し怖しのような表情で言った。
「その髪の毛、いろんな効果あるんだなあ…。ね、もっとこう、前にバサッて垂らしてさぁ…」
「こうか?」
「そうそう。…うわ、なんかお岩さんみてぇ…。ここんとこ、もっとこうグシャッとして…」
 陽介は拓の髪に手をやった。拓は歳の離れた兄のように、されるままになっていた。
「うん、これこれこんな感じ! これで血のりつけたらもう完璧。」
「伊右衛門(いえもん)どの… って、やらすなよっ!」
「こえー…。なんか俺、夢見そ…。うわ、鳥肌立ってきたぁ!」
「自分でやらしといて何言ってんだよ。」
話は尽きねども、夜は深まった。彼らは焚き火を消し、二つのテントに分かれて寝支度を始めた。
「ぜんぜん退屈しないですね、あの三人といると。」
 シュラフに体を入れながら由布子は言った。幸枝も笑って、
「本当。悪戯坊主が三人集まったっていうか、うちの人も完全に二十代のつもりになってるわねあれは。」
「明かり、消していいですか?」
 二人とも明るいと眠れないタイプであった。由布子がランタンの火を消そうと、手を伸ばしたその時であった。
「うわ ――――――っ!」
 ただならぬ騒ぎがテントの外で起こった。二人はシュラフから飛び出して、折り重なるように顔を出し、
「どうしたの!」
 見ると三人の男たちは、砂利の上に四つんばいになったり転がったりして、ゼイゼイ息をきらしている。苦しいのかと思えばそうではない、彼らはすぐに腹をかかえて笑い出した。
「おまえっ、おまえっ、陽介、おどかしやがって!」
「おどかしてないですよっ! ほんとに何かいたじゃないですか!」
「タヌキだよありゃあ! おまえがびびっから俺までびびっちまっただろう! いーや、一番びびったのはこいつだこいつ! こら! 拓! 偉そうな口きいて、一番最初に逃げ出しやがって!」
 ことのいきさつはこうである。寝る前の用足しがてら、三人は肝だめしと称して、懐中電燈を持ち林の中へ入っていった。さし交わされた枝で月も見えない暗闇の中、足元だけを照らしてゆっくり進んで行くと、かたわらの茂みが突然、ザワザワザワッ! と波打ったのだ。仰天した三人の前に飛び出してきた、不気味に光る二つの光。化け物、と思うなり恐怖が背骨を凍らせ、高杉はその場に立ちすくんだが、男にしては甲高い悲鳴を上げて、真っ先に逃げ出したのは拓であった。
「お前って奴は、自分さえよけりゃ他はどうなろうと知ったこっちゃないと、そういう性格の奴だったんだな。よくわかった。俺はよくわかったぞ。俺はお前たちを守らにゃいかんと、とっさに思ったのによ。」
「何言ってんですか久さん。俺のこと突き飛ばしてダッシュしたじゃないですか。俺一人くらい食われたっていいって、そう思ってるんでしょにいさんも!」
「馬鹿野郎、途中で俺追い越してったのは誰だよ!」
「にいさんが勝手に足すべらしたんじゃないですか!」
 由布子と幸枝は顔を見合わせ、黙ってテントの中へもぐり、シュラフに身を横たえた。
「幼いわよねえ…男って…。」
 幸枝は溜息をついた。
「イザとなったら肝の座るのは女の方よ。強く生きるのよ由布子さん。」
「そうします。」
 彼女らは闇の中でクスクス笑い、どちらからともなく眠りに落ちた。
 

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